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7.本の行方

 アパートを出たジェンドは、北側の細い路地を歩き出した。崩れかけの建物の間を縫うように進むと、やがて視界が開け、大きな水路が現れる。対岸は比較的裕福な人間たちが住む区画だ。

 水路のこちら側とあちら側を結ぶ橋は取り壊されている。橋の土台だった部分が、溺れる者が空気を求めるように水面から顔をのぞかせている。

 ここにもルーン様がいた。水の中に腰まで浸かりながらジェンドを見上げている。

 ジェンドは本を大事に抱え直し、崩れかけた堤防を蹴った。目測通り土台の上に着地し、反動をつけてまた跳躍する。幅十メートルの水路を二回の跳躍で渡りきった。

 対岸に着いてすぐに酒場が見えた。〈北風の里亭〉――ジェンドが馴染みにしている店だ。かつて鉱山が賑わい、水路を結ぶ橋も健在だった頃から営業しているためか、ジェンドのようなアウトローでも分け隔てなく受け入れてくれる。

 すでに出来上がった男たちの喚声が聞こえてきた。今日が生誕祭だからだろう。日中にもかかわらず賑わっている。

 今日の目的は酒ではない。

 ジェンドは店の裏手に回った。運良く、目当ての人物を見つける。

「おや。ジェンド様ではないですか」

 酒の搬入をチェックしていたダンプスが、汗を拭って笑いかけてきた。

「いやあ。先ほどは失礼しました。どうもワタクシの口は悪戯好きのようで……何か、ございましたか」

 最初は軽口を叩いていたものの、ジェンドの表情を見て顔色を変えた。

 ジェンドは懐から布にくるんだ本を差し出した。商人は首を傾げ、中身を確認する。

「ほう、ずいぶんと手が込んでいますなあ。それで、この本をどうされようと?」

「にゃにゃ。にゃに」

「はは、またまた。こんなときにまで芸達者ぶりを発揮されなくても、もう十分でございますぞ」

 伝わらない、ということは本当にもどかしい。

 腰袋から一枚の丸めた紙を取り出し、ダンプスの前で広げた。その拍子に表面が波打つ。目を細めて観察する商人の顔が、紙面に映り込んだ。

「これは何でしょう。表面を覆っているのは……おお、まさか水ですか?」

 ジェンドは歯で自分の指を薄く傷つけた。血を数滴、紙の上に落とし、精神を集中する。

 あっ、とダンプスが漏らした。血がゆらゆらと動き、細い筋となり、やがて複数の文字となったのだ。

 ルテルが紋章術を用いて作った、文字を自在に描き出せる紙――『水盤紙』である。

「これはすごい……! このような品は初めて見ますぞ」

 興奮気味につぶやくダンプスの前で、血が文章を作る。

『この本を 相応しい人間に託したい あんたが言ったように この希望を 叶えて欲しい』

 ジェンドはダンプスの目をひたと見据えた。咳払いをひとつして、商人は深くうなずいた。

「ワタクシも一商会を背負って立つ人間。一度持ちかけた商談を忘れたりはしません。詳しくお話を伺いましょう」

 ジェンドはしばらく視線を外さなかった。

『ルテルが書いた 本 彼女の才能を 世に送り出す 自分には やり方がわからない』

「なるほど。商いに通じていればその道にも詳しかろうと。つまりワタクシが仲介役をすればよろしいのですね」

『そうだ』

「これは原本ですか? 写本の数は? 内容はどのようなもので?」

『それ一冊だけだ 内容は 知らない』

「内容もご存知なく薦めようとされているのですか……」

『ルテルは このままで良いはずが ない』

 さすがに困ったようで、ダンプスは肩をすくめる。

 ふと、ジェンドは水盤紙を懐にしまった。

「え? まさか、もうお話は終わりですか?」

 戸惑うダンプスに、違う、と首を横に振って応える。額に浮いた汗を拭い、呼吸を整えた。

 水盤紙は持ち主の血を介し、思考を文字として映し出す。ただし、伝えたい文章を正しく描くためには並外れた集中力が必要だ。聖書封印の呪いを受けているジェンドには通常よりも強い負荷がかかるという欠点もある。連続使用は困難であった。

 だからこそ、本当に伝えたいことには水盤紙を使いたかった。

 真剣な表情のまま、今度は筆談のための筆記具を取り出すジェンドを見て、ダンプスは「わかりました」と言った。酒の搬入作業をしていた男たちに追加で指示を出し、自身は酒樽のひとつに腰掛ける。ルテルの本をくるんでいた布を丁寧に開く。ナイフペンを取り出して、空中に詞を描き始める。

 何をする気だ、と声を荒げようとしたジェンドは、途中で言葉を飲み込んだ。

 ダンプスが描き出した紋章句は、かなりの長文だった。詞の数はそのまま彼の実力の高さを表す。

 本が橙色の光に包まれ、ひとりでにページがめくれていく。

 ダンプスの目が見開かれた。瞼が震えている。

「ジェンド様!」

 紋章術の光が収まると同時に商人は叫んだ。

「あなたの希望、ぜひワタクシにお手伝いさせてください!」

「にゃ……にゃ?」

「いやあ、素晴らしい。まさかこのような書籍に出逢えるとは。ジェンド様のおっしゃる通り、埋もれてはならぬ才能でございますよ。まさに革新的な名著です」

 水盤紙を目にしたとき以上の興奮ぶりでダンプスが迫る。鼻先が触れそうなほど近づかれて、ジェンドは狼狽えた。

「ああ、失礼。取り乱しました。先ほどの紋章術はワタクシのとっておきでして。モノの真贋や内容を見抜く効果があるのです。これこそ、ワタクシの聖書の最大の特徴。ジェンド様たちの元に伺ったのは、この力に自信があったからこそでございます」

 話が逸れましたな、とダンプスは言った。

「この本の内容を一言で申しますと、ルーン考察の大転換です。門外漢のワタクシでも実に刺激的で興味深いと感じました。まったく新しい。いや、このような本を扱えると考えただけで楽しくなってきますな! 世の中が変わりますぞ」

「にゃお、にゃ……」

「ふむ。こうしてはいられない。善は急げです。ジェンド様、原本は確かにお預かりしました。できる限りのことを致しましょう。どうぞ吉報をお待ちください」

 本を抱えて走り出そうとするダンプスを捕まえる。俺も行く、と目に力を込めた。ダンプスは笑った。

「この近くに顔なじみが経営している古書店があります。まずはそこで交渉してみましょう」

 ジェンドはうなずいた。

 ダンプスに付き従ってしばらく歩くと、生誕祭の喧噪が遠のき、辺りに落ち着いた雰囲気が流れ始めた。

 目的の店は、通りに面したカフェの裏手にあった。小さな、品の良い門構えである。

 扉を開けると、小鐘が鳴った。紙の匂いが鼻をかすめる。

 入口からまっすぐ突き当たったところがカウンターだった。初老の店主がのんびりと本を読んでいた。

「こんにちは」

「おお、ダンプスさん。どうも。今日はどうなされた。生誕祭でお忙しいでしょうに、こちらに来られるなんて、珍しいではないですか」

「実は一冊、引き取ってもらいたい書籍があって」

 ルテルの本をカウンターの上に置く。店主は、ダンプスの後ろに帯剣した人相の悪い男が立っていることに気付いてぎょっとした。

「これまでにない内容の書籍なんだ。確か、そちらの顧客には著名な学者先生がいらっしゃるはず。この貴重な本、ぜひそういった方にご覧に入れたい。できるかな?」

「……表装が新しいですな。タイトルも著者名もない。いったい、いつ誰が書いたものですか?」

「まあまあ。まずは中を」

「ダンプスさん、そういうわけには」

「まあまあまあ」

 ダンプスに押し切られ、店主は渋々本を手に取った。

「これはまた。豪勢な紙面ですな」

 丸眼鏡をかけ直し、時折ジェンドの方を気にしながら文字を追っていく。じりじりとした時間が過ぎる。

 店主の表情が次第に曇ってきた。

 最後のページを見ることなく、店主は本を閉じた。

「いけませんな……。これはご紹介できません。もちろん当店で扱うことも無理です」

「もったいない。まだ最後まで目を通していないじゃないか」

「あなたはそうおっしゃいますが、この本に何が書かれているかご存知なのですか?」

 本をカウンターに置く。

「死んだ人間の詞の使い方、ですぞ。それだけじゃない。この世からルーンそのものを消すにはどうしたら良いかの考察まで記してある。これを識者の方々が見ればどうなるか、わからないことはないでしょう」

「いやあ。斬新な発想で非常に面白いと私は思うなあ。少々過激なのは否めないが、ほれ、歴史はしばしば常識を打ち破ることから始まると言うし」

「私は一介の古書店主です。歴史家でもなければ英雄でもございません。この本は、教会の考え方に真っ向から異を唱えるようなものなのですよ。悪いことは言いません。この本は速やかに処分なさい、ダンプスさん」

 普段は物静かであろう古書店の店主は、真剣な顔でそうたしなめた。

 たまらず、ジェンドは前に出た。カウンターを強く叩く。

「にゃお! にゃおにゃお! にゃ!」

 何度も繰り返し強調し、本を指差し、身振りで店主に訴える。

 だが、伝わらなかった。

「もしや、あなたですか。この本をお売りになりたいと言い出した方は」

 不審の目でジェンドを見る。店主の口調に苛立ちと怒りが滲み出した。

「素性は存じ上げません。詮索するつもりもございません。しかし、あなたが話を持ちかけたダンプスさんは、私にとって旧知の間柄です。友人が破滅に向かう姿を、私は人として黙って見ていることはできません」

 真摯に見つめられ、ジェンドは言葉を失った。水盤紙に伸ばしかけていた手も止まる。

 この店主はたいした男だった。帯剣した凶悪な人相の男に意味不明な言葉で迫られても、友のために毅然とした態度を貫いたのだ。

 だから悔しい。

 無言で拳を握りしめるジェンドを見て、店主は丸眼鏡をかけ直した。

「あなたが処分できないとおっしゃるなら、私が――」

 本に伸びる店主の手を、ジェンドはつかんだ。店主が緊張と不安で身を固くする。

 長く息を吐いて、店主の手を放す。本を脇に抱え、古書店を出た。ダンプスが慌てて追いかけてきた。

「ジェンド様。ワタクシがうかつでした。彼は一本気なのです。しかし、そう落胆しないでください。商談不成立なんて、この世界では日常茶飯事ですぞ」

 ダンプスの愛想笑いを横目で見る。ジェンドは無理に口角を上げた。

「にゃにゃ」

「ええっと。何とおっしゃっているのかわかりかねますけど、そこまで気にしていない、と?」

「に」

「その割には剣を握る手にひどく力が入っているようですが……」

 ジェンドは狼王の柄から手を放した。ダンプスが遠慮がちに言う。

「あのう。店主も申していた通り、ワタクシと彼は昔からの友人同士でして。できれば刃傷沙汰や暴力行為はご遠慮頂きたく……」

「にゃお!」

 そんなことするか、とそっぽを向く。

 気持ちを落ち着けてから、ジェンドは本を丁寧に布でくるみ、ダンプスに手渡した。どこか安堵したような顔で商人は受け取った。

「また次、ということですな。それでこそジェンド様です。ではどんどん行きましょう。案内はお任せを」

 よく肉のついた胸を叩いて、ダンプスが請け負う。

 ――だが。

 日が暮れても、ルテルの本を引き取りたいと言う人間は現れなかった。



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