6.隔てる壁
ジェンドはしばらく呆然と立っていた。
出て行くだって? あいつが? 自分から? 冗談?
階段を見上げる。ふと気がついて、自分の顔を叩いた。
なに狼狽えてんだ、俺は。冗談とは言え、ルテルが自分から外に出るって口にしたんだぞ。本来なら喜ぶべきことじゃねえか。
腹の奥がぞくりとした。
パレードの歓声がふいに、頭の中に蘇った。
じっとしていられず、二階に上がった。ルーン様がルテルの部屋の前に立っていた。一瞥して、扉を叩く。
「にゃおにゃ」
一声かけるが、返事がない。ジェンドは扉を引いた。鍵はかけられていなかった。
部屋は異界のようだった。向かって右手隅にあるベッドは、人が小さく丸まってようやく潜り込めるだけのスペースしか残っていない。あとは大量の書物や、硝子の容器や、何に使うのか不明な雑多なモノばかりであった。しかし、一見すると足の踏み場もないほどなのに、妙に計算された整然さを感じた。一本の柱かと思うほど、書物の積み上げ方にずれがない。
窓が塞がれているから、外光は届かない。代わりに紋章術を使ったランタン(手提げ照明)が三つも置かれていて、部屋の中を明るく照らしていた。
ルテルの姿はなかった。
扉のすぐ近くの床に、カップが横倒しになって転がっていた。中身が零れ、側にあった書物に染みを作っている。雑多に整頓された空間の中で、その汚れは目についた。
カップを拾い、足場を気にしながら奥の机の上に置く。
顔を上げたとき、壁に描かれた白い眼と鉢合わせた。絵ではなかった。眼は二度、瞬きした。
『勝手に入ってきて、どうしたですか』
ルテルが声を飛ばしてきた。同時に白い眼がすっと消える。
黙っていると、ルテルがため息をついた。次の瞬間、正面の壁が橙色に輝く。何百字ものルーンが詞を形作り、室内を乱舞する。ランタンよりもさらに強く輝き、天井を染め、机を染め、ベッドを染め、書物の柱の裏側にとても濃い影を作る。ひげ面の仲間が繰り出した詞とは比べものにならない数の多さと荘厳さだった。
詞の動きが変わる。古びた壁面に吸い寄せられ、焼き付けられたように定着する。詞のひとつひとつが輪郭となり、大きな紋章陣を形成していく。寸分の歪みもない美しい二重円が出来上がった。
円の最も内側が暗転し、穴となる。薄暗い景色を映し出す。
密室だった場所に、微かな風が生まれる。
『どうぞ。私はこっちにいますので。突っ立ってばかりはらしくないですよ』
別の空間と繋げたのか――ジェンドは悟った。
今この街で、このような紋章術が使える人間が何人いるだろうか。やはりルテルは、表舞台に立てる奴だ。
立てる奴なのだ。
ジェンドは自分の考えが間違っていないと信じた。表舞台に立てばどうなるか、その後はどうするか。悩むことはジェンドの性ではない。
ランタンをひとつ取り、紋章陣にできた穴をくぐって向こう側に足を踏み入れる。
埃に混じって、独特の匂いが鼻を突く。これは古書の匂いだ。繋がれた空間は書庫だった。
灯りをかざすと、書架に刻まれたルーンが仄かに光った。ところどころ文字がかすれ、ルーンの輝きを失っている。かなり古くからある場所だ。
ほぼ無音の空間で、無数の本に囲まれていると息苦しさを覚える。狼王を振るい、命をかけて戦う方がまだ気が楽だとジェンドは思った。
書庫は、アパートの二部屋分の広さがあった。窓はない。高さ二メートルほどの書架が左右に三列ずつ並んでいる。中央通路の突き当たりに古びた机と椅子が置いてあり、ルテルはそこで黙々と作業をしていた。
石造りの部屋は足音が良く響く。ルテルは振り返ることなく声をかけてきた。
「ジェンドが私の部屋に来るなんて、珍しいです。それで、何の用ですか」
「なおな」
お前が変なことを言うから気になったんだよ。
「変なこと? ああ、出て行くってことですか。何を気にすることがあるんです。冗談だって、言ったじゃないですか」
ジェンドは余っていた椅子を引っ張ってきて、ルテルの二歩後ろに座った。
書庫は時間も空気も止まっているようだ。ジェンドは空咳をした。
羽根ペンを走らせる音と、ページをめくる音だけが響く。ルテルは書き物に没頭していた。ジェンドは頭を掻いた。
お前は表舞台に立てる、と話を蒸し返すのは気が引けた。かといって、他に何か話題があるわけでもない。じっと待つというのは性分ではない。
羽根ペンが奏でるリズムが変わった。とん、とん、と机面を叩く。
「ジェンド。落ち着かないので、本当に何もないなら外で待っていてください。興味もないのに後ろにじっと座られると、迷惑なんです。ジェンドだって、じっと座っているのは苦痛でしょう」
まったくその通りだった。いつものルテルらしい指摘。ジェンドは肩の力を抜いた。
邪魔したな、と立ち上がる。
「やっぱり待ってください」
足を止める。半身で振り返ったルテルと目が合う。
「……これだけたくさんの本があるです。せっかくだから、ジェンドも勉強したらどうですか」
言われて書架を見る。『クアドクラムの懺悔録』『残酷なる十日間』『逆詞の闇』――どれもこれも暗いイメージのタイトルばかりだった。
「にゃおに」
遠慮しておく。興味がないからな。
するとルテルは頬を膨らませた。
ナイフペンを鋭く振るい、紋章術を発動させる。書架に並んでいた本が騒がしい音を立てて飛び出し、ジェンドの行く手を遮るように積み上がった。
「読め、です」
肩をすくめ、適当に一冊つかんで椅子に座る。ひとつ話題が浮かんだ。
「にゃ」
しかし、よくこんな場所を見つけたよな。本も腐るほどあるが、一体どこから仕入れてるんだ。
「今は入口を塞いでいますが、ここはもともと図書館の一室ですよ」
初耳だった。
「大聖堂の近くに中央図書館があるじゃないですか。あそこの地下に、貴重だけど表には出せない禁書のたぐいが保管されてるです。どうせ誰も見ようとしないのだから、私が研究に使ってるです」
道理で引きこもりのくせに膨大な知識を持っているわけだ。ジェンドに対しては猪突猛進だ何だと言ってるが、ルテルのやってることも相当だとジェンドは思った。だが嫌いではない。
「それに、ここにいるとぞくぞくできるです」
ふいにルテルが言った。
「まだ知らないたくさんの知識、誰も成し得ていない技術。そうしたものを肌で感じることができるです。やってくるんです」
「にゃ?」
「ほら、もうすぐ」
本に目を向けたまま、ルテルがペンを掲げる。
部屋の中がにわかに明るくなった。書架から、壁から、天井から、床から――十人を超えるルーン様が現れた。
聖書の化身に囲まれても、ルテルは平然としていた。
「ここに集まったのは全て、坑道で命を落とした人々の詞が集まってできたルーン様なのですよ。色々な地方から集まった、色々な経歴の持ち主たち。その混沌として原始的な智の集合体が彼らです」
小柄な彼女の背中が、さらに小さくなる。
「ジェンドは、私の『力』を見たですよね。エナトスに来る前、一番苦しいときに。実は今もこうして教えて貰っているですよ。この人たちの聖書を。詞を」
次の瞬間、ルテルの身体が光を放った。鏡に反射した太陽を間近で見るような強い輝き。腕で目を覆ったジェンドは、光の中に詞を見つけた。頬をかすめ、腹を透過し、無数の詞が傍らを流れ去っていく。
さざめき愉落 浸し紙の乱虹波 時滴とまり――
重層するイメージの中で、一際目立ち、そして繰り返される意味があった。
それは『拒絶』。
――かつてルテルの『力』を見たときに、彼女自身から聞いたことがある。
詞に触れる者を、自己探求を阻む者を、あらゆる社会的帰属を、拒む。
拒んだ先にあるのは『死』。
死は持ち主のない新たな聖書へと繋がり、聖書の化身――ルーン様へ繋がる、と。
詞に触れたルーン様はひとり、またひとりと形を崩す。気がつけば、あれほど押しかけていたルーン様は一人残らずルテルの詞に飲み込まれていた。
全ての詞が、一気にルテルの手に吸い込まれる。
死者の詞を取り込むこと――それがルテルの精神に在る聖書の大きな特徴であり、彼女の『力』であった。
書庫は静けさを取り戻した。時間にして五分も経っていないだろう。
「こんな聖書を持つ私が、表舞台に立てるわけがないのです」
ルテルが振り返った。顔には微笑みがある。
――お前はいつも、そんな気持ちで机に向かっていたのか。
かける言葉が思いつかなかった。しばらく視線を彷徨わせた後、机の隅に平積みされていた本を指差した。本棚に並ぶ古書と違い、光沢を放つほど装丁が新しい。
「……にゃ」
執筆のために紙が必要なら、俺が用意してやる。
ルテルが笑みを深くした。
「珍しく殊勝ですね。でも大丈夫ですよ。あ、どこかから紙を勝手に転移させてるわけではないですからね。他人の紙を使うのは何だか悔しいですし」
だからこうしてます、とルテルはナイフペンを振るった。
すると傍らにあった本の一冊が浮き上がり、ばらばらになった。霧のように細かくなり、また集まり、数百枚の白紙に生まれ変わる。
「延々この繰り返しですよ。私にとって本の執筆は、祈りみたいなものですから。いずれ消えていくものです。……だから、私の本は他の誰にも渡しません」
ルテルのつぶやきは、静かな書庫内でか細く消えた。
◆◇◆
まだ作業をしたいと言うルテルを残し、ジェンドは書庫を出た。後ろを振り返ると、紋章陣が効果を失い、書庫と繋いでいた穴が消えていくところだった。
雑然と整ったルテルの部屋の中央で、小さく息を吐く。
ふと、扉の前にルーン様が現れた。本を一冊持っている。装丁の光沢に見覚えがあった。ルテルが執筆した本だ。
「にゃお」
あんたもそう思うか。
ジェンドの問いかけに反応せず、ルーン様は消えた。本は無造作に床に落ちた。
本を拾い、表紙の埃を払って、中を開く。細かく、整然と並ぶ北方文字と、ページの周囲を装飾的に縁取るルーン文字が目に飛び込んでくる。書物にも内容にも興味がなかったジェンドは、直感的に、「美しい」と思った。
本を閉じる。腹が決まった。
自室に戻り、一番上質な布で本をくるむと、大事に懐にしまう。
このままでいいはずがねえ。
狼王を手に、アパートを出た。
◆◇◆
「ジェンド?」
台所に降りたルテルは辺りを見回した。
ジェンドが外出したことには気付いていた。アパートの中は、彼女の紋章術の『目』の効果範囲だ。
ルテルは胸騒ぎを感じていた。
玄関の前に立つ。取っ手に触れようとして、引っ込める。
――それは、これまで何度も彼女が繰り返してきた動作だった。
外に出ようとすると、動悸がする。自分では抑えきれない不安が胸の奥から溢れてきて、喉の辺りで淀み、身体から空気を押し出そうとする。呼吸が乱れる。
震える指を抱き、さすった。何度か深呼吸をして、一歩、二歩と扉から遠ざかる。それでも動悸が収まらず、椅子に座ったりテーブルの周りを歩いたりしてから、ふと、ジェンドが何事もなさそうな顔で帰ってきて「にゃお」と口にする姿を思い浮かべて、ようやく落ち着くことができた。
小柄な身体を、階段の段差にすとんと置く。足を抱えた。
気付いていたことがもうひとつ。書庫の机に積んでいた自著の一冊がなくなっていた。
もし、あれが外に出るようなことがあれば――
これまでジェンドだけしか踏み入ることのなかった自分の領域に、他者が、外の世界が、浸食してくるのではないか。
そのとき、自分の持つ拒絶の聖書が、ルテル自身を拒絶する事態を引き起こすのではないか。
その想像は、冷静なルテルの思考をかき乱す十分な力があった。
「大丈夫ですよね。ジェンド……」
ひとり、縮こまった彼女の言葉を聞く人間は誰もいない。