4.入口の夢
ジェンドは寝起きが良い。
微睡みから覚醒すると、いつものようにすぐに身体を起こす。だがこのときは何か物足りなさを感じて、首を傾げる。
ああ、そうだ。ルテルが起こしに来ていないんだ。
床に足を付ける。身震いした。そんなに冷える時期でもないのだが、と窓の外を見る。雨が降る直前の曇天である。すっきりしない。
いつものように着替えをしながら、扉を見る。
ルテルが起こしに来ない。紋章術で声を飛ばしても来ない。
研究に没頭して忘れているのか。それとも、紋章術を使うのがとうとう面倒くさくなったのか。
どちらにしろ『いつもの』がないのは寂しいもんだな、と苦笑しながら扉を開ける。
「な……」
その場で立ち尽くし、何度も瞬きする。
ルテルの部屋の扉が、消えていた。
「おい、そんな馬鹿な」
言ってから口元を押さえる。人の言葉が、普通に喋れている。
もう一度、ルテルの部屋があったはずの場所を見る。年季の入った板張りの壁で覆われている。昨日今日できたものではない。
壁に触れる。すると突然、床が崩壊した。景色は暗転し、漆黒の空間をただ落ちていく。
声も出せない状況の中、視界の端に白銀の輝きを捉える。抜き身の狼王だった。藁にすがる気持ちで手を伸ばす。あと数センチというところで、狼王が風船のように膨れあがった。剣身から耳が生え、毛が生え、獰猛な目と口が現れる。
かつて対峙した狼王本来の姿――十年前の出来事が一瞬、脳裏を駆ける。
――ジェンド。
自分を呼ぶ声がした。直後、巨大な顎に全身を噛み砕かれて、思考と感覚がぶつりと途切れた。
「ジェンド。起きなさいってば」
呆れた声を耳が捉えて、目を開ける。
「部屋の扉が開けっ放しだったわよ。まったく不用心ね」
大家が腰に手を当てていた。ジェンドは辺りを見回し、ここが自室であること、開いた扉の向こうにルテルの部屋があることに安堵した。どうやら椅子に腰掛けたままうたた寝してしまったらしい。額を拭うと、手の甲に汗が付いた。
椅子に深く座り直し、息を吐く。
いつの間にか隣にルーン様が立っていた。窓を指差している。窓際には大家がいる。外からは歓声が聞こえていた。
ルーン様は音もなく消えた。
ジェンドは大家の隣に立ち、外の様子を見る。
アパートは高台にあるため、部屋から街の様子が見渡せる。二番通りで華々しくパレードが行われていた。詰めかけた大勢の人々が騒いでいる。
ああ……今日が生誕祭か。
「こんなおめでたい日にぐーすか昼寝なんて、よっぽど興味がないのねえ。けど、私が部屋に入ったのにも気付かなかったのは珍しいわ。いったいどんな夢を見てたの?」
「にーにぃ」
「え? 今日の私はおめかしして特別綺麗だって? ふふ、ありがと」
そんなこと一言も言ってない、と大家の頭を小突く。
「ここからだとパレードの様子がよく見えるのよねえ。特に騎竜隊の皆様のお顔は、高台からじゃないとわからなくて。どうせ暇でしょ。私の話に付き合いなさいな」
そういうこったろうと思ってたよ、とジェンドは口元を歪めた。本当はパレードなど見たくもなかったが、これも義理だと思って付き合うことにした。夢の残滓のような不安感が少しでも紛れればそれでいい。
窓枠に肘を突き、ぼんやりと眺めていると、東の空から十数騎の騎竜兵が飛んできた。歓声が一際大きくなる。
「はあ。やっぱり素敵ね」
大家の視線の先には、見事な騎士鎧を身につけた男がいる。顔つきはジェンドと対照的に優しげで、整っており、女性にもてはやされそうな雰囲気がある。彼だけ他の連中と違い、四枚の翼を持った竜族に乗っている。
巨大な体躯と翼を持ち、力強さと堅牢さのいずれも人間の遙か上を行く獣――それが竜族だ。彼らは群れることを好まず、普段は人里離れたところで暮らしている。人間と同程度の知性を持ち、さらに精神に存在する聖書は人間と共通点が多い。『最強の隣人』と呼ばれる所以だ。
その竜族を駆るということは、彼らに認められるほどの器を持った人間であることの証拠だ。騎乗者の類い希な才能と洗練された技術も不可欠である。
聖書は、なにも人間や竜族だけが持っているものではない。聖書を備える生物は、この世界に無数に存在する。
人々はそれらをひとくくりに『文字あるもの』と呼ぶ。
教会は文字あるものをランク付けしている。無害・無視できるただの獣から、人に徒なす討伐対象――すなわち『魔物』、さらには絶対不可侵の『神の遣い』まで、区分はとても細かい。ジェンドにとっては『敵か、そうでないか』の違いで十分なので、教会のランク表などまったく関心がない。
とにかく、今こうして街の上空を堂々と飛んでいる連中は、竜族にも教会にも認められたエリートであることは間違いない。
騎竜隊の動きが止まった。空中で制止し、すぐさま隊列を整える様は勇ましく力強い。
「ああ、レダン様……ほらほら見てジェンド。あれがレダン様よ。レダン様はね――」
四翼の竜族に乗った騎士について大家が興奮気味に喋り始める。ジェンドはつまらなそうに下唇を突き出した。
北方兵団所属の精鋭騎竜部隊――通称ソーリサスの若き隊長レダン。エリート揃いの騎士の中でも、飛び抜けた実力と実績を持った男だ。
彼は、教会所属の騎士となって間もなく竜族に認められた。それからというもの、魔物討伐において数々の戦果を上げてきた。恵まれた聖書と詞をもとにあらゆる紋章術を使いこなす。一方で斧槍の達人でもあり、特に騎竜時の戦闘能力は他の追随を許さない。その上、部隊指揮にもカリスマを発揮していて、「彼の中には戦士と軍師の二人の天才が宿っている」と言われるほどだ。
――などということを、大家の裏声で延々と聞き続ける。
レダンほどの有名人を直接目にできるのだから、浮かれてしまうのは普通の反応だろう。理解はできても共感はできなかった。
ジェンドは、レダンという男が心底嫌いである。理由を聞かれても答えられない。説明するだけの言葉が浮かばない。ただ『奴がそこにいる』と考えるだけで嫌悪感、不快感が湧き出てくる。
レダンはジェンドと同年代らしい。一方は人々に崇敬され、一方はボロアパートで鳴かず飛ばずの生活をしている。好きになる要素はどこにもないことは確かだった。
扉がノックして、ルテルが入ってくる。寝間着の貫頭衣姿ではなく、きちんと着替えていた。
変な夢を見たせいか、ジェンドはひどく安心した。
「パレード、まだ続いてますか」
「あらあ。ルテルちゃん。今日は珍しいことが続くわね。あなたが外のことに興味を持つなんて」
「……大家さんがうるさくて眠れなかったのです」
ぶすっとしながらルテルが言う。
「あまりにもうるさいので様子を見に来たです。それだけです」
「残念。むしろこれからが本番よ。レダン様が直々に、祝福の言葉を述べられるの。ああ、あの方の生の声を聞けるのねー! 失神しちゃうかも」
「勘弁してください」
文句を言いながら、ルテルはジェンドの隣に立った。窓枠にちょこんと顎を乗せ、外の様子を見る。
「にゃ」
どういう風の吹き回しだ。
「竜に興味が湧いたです。四翼は希少種ですから」
ホントかよ、とジェンドは思ったが、口にはしないでおいた。ルテルの視線はレダンとその騎竜に据えられている。ジェンドは別のことを尋ねた。
「にゃお」
研究はいいのか。
「今日はお休みです。本が書き上がりましたので」
「なーぅ」
そういやそろそろ完成って言ってたな。今度は何の本だよ。
「私の知識の集大成です――って、ジェンドが聞いてどうするですか。普段、書物なんてまったく読まないくせに」
「ふぅ」
うるせえ。
「二人とも静かに! そろそろ始まるわよ」
レダンの合図で、四方に紫色の球体が数個放たれた。拡声の紋章術である。
レダンが祝福の言葉を述べ始めた。朗々とした、落ち着いた声がエナトスの街に降り注ぐ。
熱に浮かされたように大家が言う。
「その年最も功績を挙げた者が、生誕祭の祝辞とともに自らの詞を捧げる。それによって大司教様に忠誠を誓うだけでなく、住人全てに功徳が行き渡るようにする。だからパレードは大事な儀式なのよ」
大家の様子を横目で見たジェンドは、レダンの声は毒薬だと思った。身体の内側が錆びて軋んで、脆く壊れていくような不快感と不安感。それが収まらない。
こんな声を聞いて、よくうっとりとしていられるものだ。それとも俺が人間としておかしい証拠なのか?
隣のルテルを見ると、彼女は眉間に皺を寄せ、じっとレダンの言葉に耳を傾けている。
突然、大家が黄色い声を上げた。
「きゃーっ。レダン様が、レダン様がこちらを向かれたわ。やっぱりなんて美しいお顔なのかしら!」
ピンク色のオーラを出しながら馬鹿みたいに手を振る。ジェンドとルテルは顔を見合わせ、揃って肩をすくめる。
「あ、手を振り返してくれたわ。私の愛が届いたのねっ。レ・ダ・ンッ様ぁー痛っ!?」
「にゃにゃ」
「もう。何すんのよ。せっかく人が楽しく妄想に励んでたって言うのに」
それ自分で言うのかよ。
大家はどこ吹く風だ。再びレダンに向かって黄色い声を出し始めている。
「ジェンドは、あの人が嫌いですか?」
ふとルテルが尋ねた。
「にゃん。にゃ」
当然だ。それがどした?
「いえ……ただ、あのレダンって人とジェンド、どこか似てるなって思ったです」
意外な指摘だった。
俺とあいつが、似てる? どこが? 境遇から何から、全部違うじゃねえか。冗談じゃない。
「そんな心から嫌そうな顔しないで下さい。言ってみただけですから」
「ふなぅ……」
まったく、止めてくれよ。考えるだけで鳥肌が立ったぜ……。
両腕をさする。
祝詞は滞りなく終わった。レダンは騎士たちを従えて大聖堂の方へと飛んで行った。