2.白い老人、ジェンドの苛立ち
ジェンドのアパートは、かつて街の地下から希少金属が採れていた時代に、鉱夫のために造られたものだ。現在は鉱山が閉鎖され、鉱夫たちは別の街に移ったため、もっぱらアウトサイダーたちのたまり場となっている。ジェンドとルテルもその手合いだ。
「あら、ジェンド。おはよう。これからお出かけ?」
アパートを出てすぐ、背の高い男に声をかけられる。黒い執事服を着こなし、石畳の通路を掃除する彼は、ジェンドたちが住むアパートの大家だ。廃墟同然の建物を世話する変わり者の男である。
片手を上げて挨拶を返し、腰に付けた物入れ袋を探る。そして、しまった、と口元を歪めた。筆談用の紙とペンは、残り少ないからと部屋に置いたままだった。
「いいわよいいわよ。無理して筆談しようとしなくても。筆記具を揃えるのも大変でしょ?」
「にゃお、にゃおわお」
「あらん。相変わらず可愛いお声。やだ、そんな顔で睨まないでよ。挨拶じゃないの、あいさつ」
口元に手を当て、裏声で笑う。見た目のイメージとずいぶん違うが、大家はいつもこんな調子だ。ルテル以外の人間に動物語は通じないから、ジェンドが何を言っているのか理解できないはずなのに、大家はごくごく普通に接する。
「そうそう。地下に置いといた食料、あれで足りた? ジェンドにはいつも助けられてるから、困ったら言いなさいよね。そのときは通訳にルテルちゃんを連れてきなさい。ジェンドが困るからと言えば、あの子も外に出てくるでしょ」
「にゃ」
「やっぱ可愛いわあ、その返事」
悶える大家に歯を剥いて凄む。大家は笑いながら悲鳴を上げ、掃除に戻って行った。
大家は気の良い男である。彼の他にも、この区画に住む奴らはおおむね付き合いやすい連中だ。
アパート周辺は街の高台に位置するため、意外と眺めが良い。
表通りに抜ける道は、急な下り階段になっている。雑草は生え放題、ゴミもそこら中に散らばっている。だが、ジェンドはここが気に入っていた。階段の中ほどにその理由がある。
〈いつか帰る道〉
石造りの段差の片隅に、誰が彫ったのか、北方土着の文字でこう記してある。
普通なら気付きもしない場所に残された言葉。ノミで一気に削ったような勢いのある字が、これを彫った者の「大成するまで帰らないぞ」という強い決意を表しているようで、ジェンドは共感しているのだ。
文字周りに付いた砂埃を軽く払ってから、ジェンドは階段を降りていく。
懐から財布を取り出した。中の硬貨を数え、その寂しさに自嘲した。
何ともご立派な懐具合、か。だがまあ、いいさ。今に俺の名前を聞けば街の連中が儲け話を持ってくるようにしてやる。まずはこのクソみたいに素晴らしい依頼を果たすんだ。
「にゃ?」
ジェンドは目を瞬かせた。横から白い手が伸びてきて、財布の中身を数え始めたのだ。
隣に立っていたのは白い老人だった。髪色も白、着ているローブも白。頭から指先、眼球まですべてが真っ白。月を人の形に切り取ったような、奇妙な姿であった。
白い老人はジェンドの横にぴたりと並び、足音も立てず付いてくる。
「にゃ」
「……」
「にゃにゃにゃ」
「……」
「にゃーにゃん」
「……」
ジェンドは額に手を当てた。何度「どこかへ行け」と言っても、白い老人はまったく気にしていない。そもそも意思疎通ができているのかどうか怪しい。
この不思議な老人は『聖書の化身』である。死んだ人間の魂が集まって聖書となり、それが老人の姿となって現れたものと言われている。
聖書の化身は世界中に存在し、地方によって様々な呼び名がある。聖書様、白爺さん、白抜き――このエナトスの街ではもっぱら『ルーン様』と呼ばれている。
ルーン様は普段、人間のように街の片隅で日向ぼっこをしていたり、のんびりと散歩をしていたりする。人々の暮らしに干渉することはない。風景の一部として溶け込み、神出鬼没で、何人も現れる。彼らの間に個体差は存在しない。
ところが、ジェンドの前に現れるルーン様に限ってはなぜか、まるで子どものようにジェンドをからかってくる。昔からずっとだ。理由はわからない。
「……っ、にゃにゃ!」
ルーン様がジェンドの財布を奪い取った。素早い動きで硬貨の一枚を取り出し、ぱくん、と食べてしまう。
「しゃーっ!」
何しやがんだこのジジイ!――思わず手が出た。
突き出した拳がルーン様を直撃した瞬間、弾き飛ばされたのはジェンドの方だった。
衝撃反射の紋章術。
通路脇の斜面に強か背中を打ち付け、痺れる痛みに声を失う。
超高等紋章術をルーンを描く動作なしで即座に展開し、完璧に発動させる――こんな芸当はルテルにだって無理だ。
ルーン様は聖書の化身。そして同時に、最強の紋章術者である。
この白い老人に手を出せば、即座に、確実に、完璧に、返り討ちに遭うことは世界の常識。
が、ジェンドは時折その常識を忘れる悪癖があった。
「……ふにゃー」
……白ジジイさんよ、それ返してくれねえかね。
ジェンドにしては珍しく、弱々しく言う。するとルーン様はすんなり財布を手渡した。中を確認すると、食べられてしまったはずの硬貨がいつの間にか戻ってきていた。紋章術で金を生み出したのだろう。一握りの人間しか使うことができない、貨幣生成の術である。
財布を懐に入れると、ルーン様はいなくなっていた。
はあ……朝から勘弁してくれ。
神にも等しい自由奔放な存在に文句を言っても始まらない。
ジェンドは表通りのひとつ『二番通り』に出た。石畳の色がくすんだ鼠色から綺麗な白に変わる。ジェンドは目を細めた。
表通りへの一歩はいつも躊躇う。別に街の移動を制限されているわけではない。通りに出ればすぐに捕まるというわけでもない。ただ一般人の空気に馴染めなくて、表通りを歩くことが好きになれないのだ。
人の流れに混じった途端、腫れ物を触るような視線を感じた。
彼らの遠回しな目つきが気に入らない。
そんなに俺が嫌なら、堂々と言えば良いではないか。俺と違って、ちゃんと人の言葉が喋れるのだから。
無意味だと理解していても、苛立ちが湧いてくる。
そうだ。気に入らないことと言えば、腰に剣を差していても、奴らは通報せず捕まえにも来ない。貴様らにとって俺は捕まえる価値もない男か、と言いたくなる。
実際は、帯剣そのものは違法ではないから、捕まらないのは当たり前のことだ。
ジェンドは黙々と歩く。冷たい視線は刺さり続ける。
いちいち気にしても一ラーチ(硬貨)の得にもならないと、頭の冷静な部分では理解しているのだ。
けれど、苛立ちは消えてくれない。
通り沿いの家々の軒先に、赤い旗が掲げられていた。表面にはエナトスのシンボルが描かれている。大きな祭りや祝い事のときに使われるものだ。
向かいから、一人の神官が大声を上げながら歩いてくる。
「イメア様、万歳! エナトスに神のご加護を!」
世界最大の信徒を誇る聖書教の巡回者だ。手首に付けられた鈴がじゃらじゃら鳴って、ひどく鬱陶しい。だがジェンドのように思う人間はごく少数である。
「ありがたや、ありがたや」
玄関口で老婆が手を合わせていた。他の街人も、わざわざ立ち止まって礼をしたり、少額の硬貨を布施として渡したりしている。
三、四歳の男の子が小さな花飾りを持って神官の元に走る。
「いめあさまにとどけてください」
「ありがとう坊や。イメア様はきっとお喜びになるよ。貴方がたご家族に、イメア様の愛と神のご加護を」
神官は笑顔で男の子の頭を撫でた。一緒にいた両親も敬虔な信者らしく、深々と頭を下げていた。
ジェンドは思い出した。
そういえば、もうすぐ大司教の生誕祭だったな。
大司教イメアは街の最高権力者で、まだ年端もいかない少女ではあるが、住人から深く慕われている。彼女の誕生日を祝う祭りの開催日がすぐそこまで迫っていた。
ジェンドは、街人のようにイメアを祝福する気はない。
「あの、すみません」
別の女神官に声をかけられ、振り返る。彼女は紙とペンを差し出してきた。
「生誕祭に向けて皆様の詞を集めております。ぜひ、こちらにご署名を。あなたの詞をイメア様にお届けします。必ず、祝福が訪れるでしょう」
まだ若い女神官は緊張で身を固くしながら、精一杯の笑顔を浮かべていた。「あなたのような方にこそ、祝福は必要です」と言う。
ジェンドは紙面を見た。これまでに自らの詞を記した者たちのルーンが、薄らと白い輝きを放っている。これを何千枚と並べれば、それは美しく映えるだろう。
――ここに俺も加われと言うのか。面白いじゃないか。
ジェンドはペンを手に取った。ほっとした表情をする女神官の前でペンを走らせる。
「……え?」
女神官が固まった。すらすらと動くペン先から描かれたのは、曲がりくねり、震え、歪んだルーン文字。紙に付着したインクは黒色のまま、輝きを放つことはなかった。
女神官は、奪うようにジェンドから紙とペンを取った。何度も確かめ、自ら詞を書き、そのルーンが何の問題もなく白く光ったことを見て、三度首を振った。
「そんなこと、ありえません。人なら誰だって」
女神官の視線を受けたジェンドは、静かに目を細めた。
「ひっ――!」
彼女は、まるで凶暴な獣と相対したときのように息を呑むと、そのまま脱兎のように逃げて行った。
人なら誰だって、か。はは。じゃあ俺は何だ。魔物か何かか。
華やかで明るい街の様子に息が詰まって、視線を上へ向ける。生誕祭の準備か、それとも討伐任務の帰りか、晴れた上空を数騎の騎竜兵が大聖堂に向かって飛んで行く。大聖堂はイメアの居所である。
ジェンドは大声で叫びたくなった。
大司教だか何だか知らないが、気楽なモノだ。最高の聖書を持って生まれ、何不自由ない恵まれた生活を与えられて、人々から尊敬される。さぞ毎日充実していることだろう。ああ結構なことさ。俺以外の人々に愛と祝福をってな。どこかで見てるかい、大司教サマ。あんたは俺にとって、綺麗な街そのものさ。だから俺は、あんたが嫌いなんだ。
だが、いくらジェンドひとりが毒づいたところで街の華やかさは変わらない。
さっさと仕事場に行こうと、路地に入る。
一匹の猫が建物の隙間から出てきた。片眼が潰れた貫禄のある黒猫だ。ジェンドは片手を上げた。人の言葉が喋れない代わりに、ジェンドは動物たちと意思疎通ができる。
よう大将。偶然だな。相変わらず眠そうだぜ。
「なー。ぎなー」(ジェンドか。貴様も相変わらず辛気くさいツラをしている)
街の奴らが大司教様、大司教様とうるさくてね。ところで、何か情報入ってないか?
「うー」(魚の一匹も持ってきてない奴に情報などやれるか)
あるだろ。何かこう、暴れたくなるような楽しいネタが。
「ぎにゃーう、ぎにゃ」(相変わらずの戦闘狂だ。ま、そういうのは嫌いじゃない。三番通りで人間どもが騒がしいよ。あれ、前にジェンドに絡んだ奴じゃないかい)
そいつは楽しい話だ。何人いた?
「な」(たくさん)
近いうちにとびきりの魚を仕入れとくよ、大将。俺が釣ったチンケな獲物じゃなくて、ちゃんと店に並んでるやつをさ。
「ぎにゃ。ぎにゃ」(貧乏人に期待はしない。さっさと片付けて静かにさせといてくれ)
素っ気なく言って、黒猫は昼寝を始めた。
三番通りにはジェンドの仕事場――坑道の入口がある。
たくさん、か。俺にやられたことがよほど悔しかったらしい。
剣の柄を撫でる。口元には薄らと笑みが浮かぶ。
少しは使える奴を揃えてきたのだろうか。
退屈しないで済むだろうか。
この苛立ちを晴らしてくれるだろうか。
想像すると楽しくなって、自然と駆け足になっていた。裏道を抜け、三番通りに出たとき、期待通りの光景を見て思わず声に出して笑った。