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1.たとえ呪いがあろうとも


 事実。

 世界は二十四種類のルーン(文字)に支えられている。

 ルーンを組み合わせた『(コトバ)』は、あらゆる社会契約の基礎となり、神の力『紋章術』の源となり、そして、人の優劣の基準となる。

 事実。

 人の精神には生まれつき、ルーンで描かれた物語――これを聖書という――が存在する。聖書にルーンがいくつ描かれているか。聖書に詞がいくつ紡がれているか。ルーンや詞をいくつ描き出すことができるか。それによって、使える紋章術が決まる。

 聖書を完璧に読み解き、全ての詞を使いこなす者は稀である。

 一般人の場合、聖書の平均字数はおよそ四百字。そのうち、本人が紋章術として使いこなせる詞の数は十から二十個程度である。

 聖書は人生と社会そのもの。

 人としてまっとうに生活していくには(コトバ)を使いこなすことが必須である。

 事実。

 自称、便利屋のジェンドは、その『まっとう』から外れた人間である。


◆◇◆


 ――顔の真上にクローゼットが浮かんでいる。

『ジェンド。起きるです。朝ですよ』

 鈴を転がすような声に呼びかけられ、ジェンドは目を開けた。

 直後、糸が切れたように落下してきたクローゼットを、ジェンドは冷静に受け止める。鍛え上げた両腕の筋肉が盛り上がった。

 ゆっくりとクローゼットを床に置き、安物だが綺麗に洗濯された掛布をのけて、ジェンドは背伸びをした。

 顔の彫りは深く、体格はがっしりとしていて、眼光は鋭く威圧的だ。眉間に深い皺を作り、傍目にはとてつもなく機嫌が悪そうに見えるが、本人としては至って普通の朝を迎えた気分である。

 室内には誰もいない。

 身支度しながら、ジェンドは言った。

「にゃーお。にゃおう。にゃんにゃ?」

 紋章術を使うくらいなら起こしに来いっての。まったく相変わらず無駄な精神力を使いやがって。俺じゃなかったら普通に死んでるぞ?

 先ほどの声の主――隣人の少女ルテルに向けた苦言だった。ジェンドはある事情で普通の言葉が喋れず、動物の鳴きマネのような声しか出せない。

 室内には誰もいないのに、ルテルの声だけがまるで隣で喋っているかのようにはっきりと聞こえてくる。

『連れを起こすのは一種の様式美なのです。でも、枕元に行くまでにジェンドはだいたい起きてしまうです。そうなったら部屋から出るために費やした五歩分の脚力と、扉を開けるための腕力と、その他もろもろの貴重な体力が無駄になるです。焚書的損失です』

 相変わらず変に理屈っぽい奴だ、とジェンドは肩をすくめた。

 知識が豊富で、ルーンと詞にも恵まれているのに、根っからの引きこもり体質。それがルテルという少女だ。

 普通の人間なら、たかだか五メートル先の隣人を起こすために紋章術など使わない。

 紋章術は、精神に存在する聖書の(コトバ)を具象化する特殊な技術である。ナイフペンという専用の筆記具で詞を描くことで様々な現象を起こすのだ。ナイフペンは描く場所を選ばない。人間の皮膚はもちろん、空中に描くこともできる。多くの詞を複雑に組み合わせれば、それだけ強力な紋章術を発動できる。

 ただし、自分の聖書にない詞は使えないし、一度に描きすぎると精神に負荷がかかり、意識を失ってしまう。また、詞が豊富な者とそうでない者とでは、扱える紋章術の数も威力も大きく違う。

 きしむ扉を開けて、廊下に出る。すぐ向かいがルテルの部屋だ。二人の部屋は二階にある。築ウン十年の木造建築はとにかく狭くてボロい。

 ジェンドとルテルは、廃墟同然の建物ばかりが並ぶ地区に住んでいる。理由は単純。二人とも定職に就けず、金がないからだ。

 一階の台所に降り、そこから狭くて暗い半地下の倉庫に潜る。大家の厚意で譲ってもらった食料から適当なものを確保すると、台所に戻った。パンを二つに切り、ご馳走のトマトを挟んで、見てくれの悪いサンドイッチを作る。それを二つパクついた。昨日は卵があったが、今日はもうない。火を(おこ)すのは面倒だ。煙草はここに住み始めたときに止めてしまったから、マッチがない。火を熾す紋章術をジェンドは使えない。

 テーブルの上に腰かけてリンゴをかじっていると、半地下の倉庫からイモがひとりでに宙に浮いて来た。食器棚から古びたナイフが滑り出て、しゃりしゃりと軽快に皮をむきはじめる。

 ジェンドは空中に向かって「しゃーっ」と叱った。

 だから横着すんなって言ってんだろ。

『横着じゃないです。これはむしろ新しい料理スタイル。ボロアパートの台所が先進的聖地となるです』

「なー」

 何が先進的聖地だ。いいからちっとは身体を動かせ。こんなこと続けてると太るぞ。

『ふとる……!』

 直後、二階で扉が開く音がする。ととととん、と軽快にルテルが降りてきた。

 色白で、小柄な少女である。太股まで届く銀髪が柔らかそうに揺れている。ところどころ、寝癖でハネているのはご愛敬だった。青みがかった銀の瞳で、ジェンドを見る。

「ど……どうです。階段を駆け下りるくらい、私にだって、できますよ……。だからぜったい、太らないのです。確定です。聖書的決定事項なのです……はあ、ふう」

 息が上がっていた。無理するからだ、とジェンドは思った。

 ルテルいわく、太るとお気に入りの睡眠場所に身体が収まらなくなるらしい。今がジャストなサイズなのだそうだ。部屋の惨状が目に浮かぶ。

「なおなお」

 お前はもっと外に出ろ、と言うと、ルテルは細い眉を少しだけ斜めに傾けた。

「ヤです。ジェンドこそもっと自省しろです」

『自省』の部分を強調して、ルテルが言う。お互い足りない部分を重々承知した上での台詞だった。

 しばらく胸に手を当てて息を整えると、ルテルは台所に立った。さっきまで紋章術を使っていた皮むきを、今度は自分の手で再開する。基本引きこもりで不精なルテルだが、なぜか料理と洗濯は嫌がらない。

「今日も坑道に行くですか」

 ふとルテルが尋ねる。ジェンドはうなずく。

 この街には、廃鉱となった鉱山洞窟がいくつもある。ジェンドは便利屋として、そのうちのひとつの探索を依頼されていた。

 ちなみに、依頼主とは正規の契約を結んでいない。どんな契約でも、教会に登録した自らの聖書の詞をサインとして描かなければならないが、ジェンドはそれができないのだ。口約束だと何の保証もされないので、報酬の支払いを相手が拒否した(ばっくれた)こともあった。

 それでもジェンドは、依頼があれば応えるようにしている。

「ジェンドは向こう見ずです」

「ふーっ」

 何を言うか。今度は絶対金になる。そうに決まってる。

「相変わらず根拠のない自信です。契約を必要としない依頼って時点で、使い走り決定じゃないですか。報酬が支払われる確証なんてないです」

「にゃおおう」

 じゃあお前はどうなんだよ。また部屋にこもって成果の出ない『呪い』の研究か。

「もちろんです。ルーンが描けない症状に対する民間療法について、面白い文献を見つけたので」

「にゃ、にゃ――」

 どうせ眉唾だろ、今更――

「駄目です」

 包丁の手が止まる。

「ジェンドの呪いは、私が必ず解くです。使い捨ての駒みたいな馬鹿なことを、もうしなくても良くなるように」

 ジェンドは口を閉ざした。しばらくしてから「にゃお」とつぶやく。

 馬鹿なことかもしれねえが、止めるつもりはねえ。

 地下室の入口脇に立てかけた一振りの剣に、目を向ける。

 詞が描けなくても、紋章術が使えなくても、金持ちになって身を立ててやるから、安心して見てろ。

 包丁の音がまた響き始める。

「馬鹿ってのは、ちょっと言い過ぎたです」

 ルテルが口を開いた。

「仕事の依頼者よりも、自信過剰で戦闘狂で猪突猛進なジェンドに問題があるのでした。そのくせ意外と小っさいこと気にしますし」

「にゃ」

 つまり問答無用で俺が馬鹿だと言いたいんだな。

「そう言われたくなければ、ジェンドも呪いを解く方法を考えるですよ。自分のことなのに放っておくからこうなるのです。もう十年経つですよ」

「にゃお、にゃお」

 放っておいたわけじゃねえ、できることをやってきただけだ。

 ジェンドは言い返した。

 今から十年前――八歳のときに、ジェンドは二つの強力な紋章術によって『呪い』に侵された。

 ひとつは動物語しか喋れない呪い。

 もうひとつは聖書封印の呪い。

 一つ目の呪いはいい。呪いを受けるだけの事情がジェンドにはあり、ちゃんと納得して呪いと付き合っているからだ。

 ジェンドを苦しめているのは、二つ目の呪いだ。

 呪われて以降、ジェンドは紋章術が使えなくなった。それだけでなく、ルーンや(コトバ)を描くことさえできなくなったのである。

 ルーンは直線の組み合わせで成り立つ文字だ。子どもでも大人でも、自分の聖書にあるルーンや詞なら自然に正しく描けるようになっている。それらは本人と一体のものだからだ。

 ところが、自らの聖書が封印されているジェンドがルーンを描こうとすると、ぐにゃりと線が曲がり、文字の形が崩れてしまう。どれだけ集中しても、ゆっくり描いてみても、手を固定しても駄目で、まるでミミズが這ったような字にしかならない。ルーン特有の白光現象も起きない。

 詞どころかルーンの一文字すら描けない者に、まともな仕事は来ない。それどころか「あいつは人としておかしい」と後ろ指をさされる。

 封印前は多くの文字数を誇っていたジェンドにとって、聖書封印の衝撃と影響は大きかった。故郷の居場所を失い、各地を彷徨い、ようやく辿り着いたこの街でもまともに仕事ができない日々が続いた。今も、続いている。

 聖書封印は社会からの孤立だ。

 ルーンが描けない人間は人間じゃないって言うのなら、今ここにいる俺は一体何者だ――十年の間に凝り固まった疑念。ジェンドはその払拭のために、数々の荒事に首を突っ込んできた。ルーンが描けなくても、紋章術が使えなくても、ちゃんと社会の中で生きていけることを証明しなければならないと考えていた。

 もちろん、ジェンドも聖書封印の呪いを解きたいと思っている。ルーンや詞を描けるようになりたいと思っている。だが、これまで様々な手を打ってもそれは叶わなかった。解呪の方法どころか、呪いの構造すらいまだ不明である。

 ならば今、できることを。いつまでもうじうじするのはジェンドの性に合わなかった。

 それに――これは決して口には出さないが――ジェンドのことでルテルまで辛い思いをして欲しくないのだ。

 彼女は、「自分のせいでジェンドが苦しんでいる」と考えている。

 紋章術なしで身を立て、もはや呪いなど関係ないのだと証明できれば、ルテルがジェンドに縛られることはなくなる。彼女のような天才は、もっと明るい表舞台で活躍するべきなのだ。

 食べ終わったリンゴの芯を投げ捨てる。すると近くにあったコップが浮き上がり、ジェンドの後頭部を打ち付けた。

 ルテルの左手にはナイフペンが握られ、空中には橙色の光を放つ四文字のルーンが刻まれていた。グリホア式速記術――一瞬でルーンを描くルテルの得意技だ。

「ゴミはちゃんと壺に捨てるのです」

 ジェンドはテーブルから降り、渋々リンゴの芯を拾い上げる。ルテル謹製の詞入りゴミ壺は、臭いも出さず中の物を分解する。これを売り出せば一財産稼げそうなものだが、ルテルが嫌がるので手放せないでいる。

 外から塔鐘が聞こえた。

 そろそろ仕事場に向かう時間だと、ジェンドは壁際の剣に手を伸ばす。すると剣がひとりでに浮き上がってジェンドの腰に収まった。ルテルの紋章術だった。

「外に出るなら卵を買ってきて欲しいです。買ったらまっすぐ、速やかに帰ってくるですよ。怪我、厳禁です。――いってらっしゃい」

 ルテルの送り出しに軽く手を振って応え、ジェンドは玄関を出た。





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