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幕間 それぞれの見解と思惑

今回は主人公視点ではない幕間となります。

雪女は日本に伝わるような存在ではなく独自の設定となっております。


「本当にあの子を残してきてよかったのかい?」

 不安そうな夫を前にして、氷像の魔力維持に集中し意識を向けていた女がゆるりと顔を上げた。

 儚げな美しいその容姿は今や深く被られたローブに大部分を隠されている。これは、彼女の目の前にいる夫による配慮だった。

 雪女と呼ばれる種族の純血である彼女は、その種族的な要因もあるのだろうが、いっそ背筋が冷える程の美貌を持つ。氷像運搬の騎士たちは当然男ばかり、夫は彼女の身を案じたのだ。

 容姿と魔力を武器に男を惑わせ、連れ去り、生気を奪って己を維持する。それがこの世界に存在する雪女の特徴であり、一般的に周知されていることだ。あながち、間違いではない。そうした残忍ともとれる行動を取る雪女と呼ばれる種族は、確かにいるのだ。……が、それは真実とはまた異なる。

 正確に言えば、雪女というのは種族名ではない。女が『純血』、女の娘が『雪女と人間の間の子』であるのがその証明であろう。雪女と呼ばれる女たちは古来氷雪山一族と呼ばれた万年雪山に暮らす一族の子孫であり、由来は氷属性の魔法の扱いに長けた特徴であったから、と言われている。そう、人と多少違う特徴はあれど、暖かな気候で育った人と使う魔法が多少違うだけで、とくに異種族と呼ばれることはなかった一族だ。

 その寒さから身を守る為か基礎体温が低くとも活動でき、狩りをする男たちとは違い家の守りの為に魔力がそちらへと特化。また、その寒さの中子を生す女たちが一族の男から力を、暖を得ていたのが始まりであったのか、確かにその血を受け継ぐ女たちは男たちより氷雪山一族の特徴とも言われた氷の魔力と特徴が強い。長きに渡りそうして命を繋いでいた一族は血筋極まってそれは強い魔力と弱さを宿すようになった……というのが純血である彼女の知る歴史だ。

 だが、国が発達し僻地の村にも外よりの知識が大分遅れながらも増え、少しずつ若者たちが減り、一族の村は次第に過疎化した。その頃村でも力の強い一部の者たちは十分ただの人との違いがわかるようになり、とくに女はあまりの体温の低さや特徴から、村を出たとしても『違い』により迫害を受けるようになる。女たちの未来を危惧した当時の村の重鎮とも呼べる者たちは、漸くそこで村民たちに外に出ることを禁じたのだが、遅かった。

 既にその頃には、特に力が強く特徴的な行動を取る一族の女性たちは『雪女』と呼ばれ、人とは違う、『異種族』であると分類されてしまっていたのである。


 実際は、彼女たちはただ愛を求めているだけだった。


 極寒の地で生きてきた彼女たちは、その特徴的な生活の中で弱さを生み出してしまった。冷えやすい身体は万全の体調を維持できず、同じ種族であれど身体が丈夫な男たちから熱を貰い、家と子を守る強すぎる魔力を維持する、ある意味依存とも言える特徴を生み出してしまった。男たちより強い魔力を得た代わりに、女たちは男たちよりそれを維持する力、生命力を受けとるようになっていたのである。

 いつしか当人たちも「そういう種族なのだ」と納得してしまうほどには特異となったその体質に、一部の女たちは身を隠し、一部の女たちは存分にその力を利用した。ただ、それだけのことなのである。


 純血である女は残してきた混血の娘を想い、夫のとなりで一度、そっと目を伏せた。

 女は幸運だった。いまや『異種族』である人間である夫と心から愛し合い、結ばれ、子を産めた。既に氷雪山一族と呼ばれた一族は過疎によりその人数を激減させ、一族の者たちも種族繁栄を望んでいるわけでもなく、ただ女たちの強い魔力を利用されないために、ひっそりと隠れ生きている者ばかりだ。

 愛し合って夫婦になれる者など、今の雪女の中にはほぼいない。生涯独身を貫く者も多い。……その道を知りながら『娘』を産んでしまった自分は責められるべきなのだろうかと悩んだこともあったが、彼女の夫はそうではないと女を支えた。雪女は、本質的な意味で人に害を与える者ではない。私は君に助けてもらったのだよ、と。雪女と呼ばれる特徴があることを卑下しないでくれ、と。娘を否定してはいけない、と。異質であろうとその特徴は、いくらでも生かすことができるものであったはずだと。

 親の我侭エゴだろうか。きっとそうなのだろう。違う、ともいえるかもしれない。それでも、女にも、夫にも、愛し合った人と家族を作りたいという願いはあった。散々夫婦で悩んだものだ。意見はいろいろあれど、夫と共に精一杯を生きてきた彼女は、娘の幸せを願っている。何年もかけて娘の為に、それなりの準備をしてきたつもりであった。

 本当は、娘の覚醒の時と共に、娘に好いた男がいなければ、隣国に行くつもりだったのだ。雪女を怖れるこの国より、『吸血族』にも、『狼族』……獣人にも気を配り、そしてこの国には滅多にいない『精霊に愛された』種族も存在していて、守っているという隣国。氷雪山一族は雪の精霊に愛された種族である、と古来の一族の者は誇りにしていたと言う。きっと隣国なら。その為に、何年もかけて夫はその資金を溜め、女は隣国を調べ仲間を探し味方を作る為に隣国を走り回っていた。準備は、順調であったと言える。

 だが。

 全てを打ち明ける日である娘の誕生日。朝早く、女はこれが運命であるのかと、息を飲んだ。

 雪女と人間の子である女たちは魔力が体内に燻り、十六の誕生日に覚醒を促す為に男に力を分けてもらうのが慣わしだ。覚醒の兆しがなければ、そのまま人としての道を歩む。十六まで雪女の血筋を秘密にするのは、子を想う氷結山一族の願いが篭められた掟であった。

 だが、女の娘は十六より前に、既にその兆しを見せ始めていた。女は焦った。娘には、好いた相手がいる気配はない。娘の覚醒の為に、申し訳ないとは思いつつも事情を知る数少ない一族の者を母に持つ若い男に覚醒を頼むも、直前になって男に愛した女ができたと断られ、その誠実さ故に依頼した女としては惜しむも断念。かくなる上は夫に頼むしかないか、だがしかし肉親では効果がないと聞く……と不安を抱えながら愛しの娘と夫の元にと急いた彼女の目の前に現れた、黒髪の青年。射抜くような、『赤い』瞳。騎士でありながら、たかが狼ごときにその命を散らしそうになっていた男は、明らかに何か『呪い』に囚われていた。ひどく強い魔力によって作り出される呪い。これを解ける人間など、と考えて、娘の姿が脳裏を過ぎる。

 騎士だと気付いて、己が最後の仕事として国に氷像を納品しにいかねばならない理由に思い至り、女は少しばかり男を恨んだ。これがなければさっさと隣国に行く支度をしていただろうに。だが、見捨てることはできなかった。歌うのが好きな娘の歌声が、魔力を滲ませて周囲を明るくしていたことには、気付いている。娘は恐らく強力な治癒術士の才があるのだろう。だからこそこの国を離れるべきか、医療が発達している隣国なら、と、娘に真実を告げ選択させるつもりであったが、今は時を急いでいた。死に掛けているが、その瞳に強い生への執着を漲らせる、雪女にとって極上の男。

 ただ、その指先に触れさせてくれるだけでいい。覚醒はそれで事足りる。だが治癒術を発動させるにはもっと多くの力が必要だろうか。娘の様子を見ながら判断しなければならない。最悪の場合はその辺の村の男に転んだ振りでも装って体当たりでもさせるか、と少々怪しい解決方法に頭を悩ませていた女は、少しの間逡巡し、結果、男を助けた。狼ごとき、女の敵ではない。この呪いの程度では、どうせ街医者も匙を投げる。目の前の男が生きる方法は一つしかないだろう、と。


 思い返し長い間視線を漂わせ考えを巡らせていた女は、そっと隣を歩く夫に漸く視線を合わせると、小さく頷き、そして小さな声で答えを返した。


「ええ。……我が一族の血を引く女は、強くならねば。それが、私が勝手に押しつけたひどい運命であったとしても、あの子が私を恨んでも、私は生涯命を持ってあの子の幸せを願います」

 雪女は男の生気を喰らう。……でも、相手を殺すわけでも、まして淫魔のように喰らうわけでもない。本来は、ただ温かさを求めるだけだ、愛さえあれば。家族を思う雪女の特徴であった。人の持つ生きるという力をほんの少し分けてもらうだけ。体液などが、よりその力が強いのは間違いないが、愛されていると、守られているとわかる雪女たちは、その想いだけでも力が溢れる。今はまだ恋を知らないらしい娘を守るには……。

 悪く言えば勘だった。ただそれだけだが、女はあの黒髪の男に力を感じた。娘を支えてくれるのでは、と。呪いなんぞを身に宿し、厄介な身の上なのは間違いないであろうが、あの男には少しも淀んだところはなく、まっすぐな生気を感じたのだ。

 王都から戻るまで往復十日ほど。様子見だ。あの男は、間違いなく娘に手は出せない。魔力が違いすぎるのだ。娘の力は、圧倒的だ。呪いを身に宿す男に、負ける筈がない。拒否の気持ちだけで、十分男の動きを封じることが無意識に出来るであろう程。


「だがあの服は……赤いマントは王国騎士団の隊長クラスだなぁ。行方不明になった騎士の名はこの隊を率いる副隊長という男から聞かされなかったが、厄介でないといい」

「……赤、ですか」

「そういえば、彼は瞳も見事なピジョンブラッドだったね。確かに淀んだ感じはなかったが、あのような美しい色を見たのは、君の兄上にお会いしたとき以来だ。それでも父としては……ああ、リィナは大丈夫かな」

 少し心配そうに一度後ろを振り返った夫を見て、女は強行軍であったことを心中で詫びた。同時に、夫の人を見る目を信用している女は、そっと息を吐く。あの青年が厄介であることは間違いない。万が一の場合山の間の記憶を消去し、自分たちが他国へ逃げた跡地に残すしかないだろう。それか、もしかしたら、男を連れて他国に行く事も、あるかもしれない。……残ることも、あるかもしれない。なんにせよ、娘の為に。

 赤い瞳。


 もしそうであるのなら彼は。



「はやく、仕事を終わらせて戻らないとね」

「ええ、そうしましょう」


 氷像をちらりと見上げた女は、胸にそっと手を当てて、その視線を再び白く雪が広がる地面へと落とした。




 ◇ ◆ ◇



 やりすぎた、とヴァルハイル・ネカルドは眉を寄せた。

「わ、私は! そもそも雪女だとかそんなの、今日というか昨日知ったばかりですし! 誕生日だったのにご馳走だって食べれなかったし、急に雪女だって言われたって……魔力だってないと思っていたし、もうこうなっちゃった以上今更になって事実を否定してごねたってダメってわかってるけど、こっちだって驚いてるんですよ!」


 ――生まれを、知らなかった?


 泣きそうな顔で震える手を握りこんでこちらを睨むように見つめる少女は、必死に己を保っているように見えた。

 失敗した。完全な八つ当たりだ。目が覚めてすぐ、死にかけていた己の傷が完治したのは、明らかにこの少女の魔力のおかげであると気付いた筈だったのに。

 狼に遅れを取り、生きるか死ぬかの瀬戸際で、雪女と思わしき美しい女を雪の深い山中で見つけた時、絶望したのは間違いない。強い魔力だった。俺はここで喰われるのか、と一瞬諦めかけたほどに絶望的な魔力の差。己も騎士団の中では十分すぎるほどの魔力を持っていたが、だからこそその格差に気付いたのだ。

 警戒していた。騎士として強い魔力の持ち主も、そしてきっと、雪女も。だが、目の前の少女も、ヴァルハイルを狼から助けたらしい少女の母親も、『彼女』ではないというのに。

 記憶にちらつく、美しい銀髪の、折れそうな細い身体の女。美しいのに、触れられないほど冷たい女。冷え切って冷え切って、あっさりと幼い頃死んでいった、己の知る雪女ははおや

 母の昔を知る家の使用人頭の男は、仕方なかったんです、と寂しそうにしていた。母が愛した男は、母を見ることはしなかったという。

 父は、いや養父は、俺を殴りながら言った。お前の母親は、卑しい雪女だ。本当の父親を喰おうとして捕まりそうなところを、俺が助けてやったのだと。母親を救ってやった恩に報いてお前が俺の役に立てと。

 結果養父は己の野心に喰われた。いろいろと策謀していたようだが、計画に念を入れすぎた男は誰にも頼ることなく疑心暗鬼となり、結果信頼していたはずの使用人頭すら無視して侯爵の身分でありながら独りで企みを遂行しようとし、謀反を疑われた末に死んだ。策士策に溺れる。養父は結局、最大の切り札らしい『義理の息子』を使う暇なく死んだ。

 ヴァルハイルは当時十五歳。養父の策略によって、周囲には養父の隠し子であったと五歳の頃引き取られてから十年経ち、決して楽しい日々ではなかったものの恵まれた運動神経を生かし騎士になるべく修行していた中でのことだった。

 侯爵家は爵位剥奪までならず、謀反を疑われたものの決定的な証拠もなく、養父の血の繋がった息子である長男が結局あとを継いでいる。この国の男子が成人とされるのは十六歳。残り一年簡単に家を出ることが出来ず、しかし義兄に疎まれていたヴァルハイルは、特例として認められる実力を見せることで騎士団に見習いとして入団し、成人までの一年を過ごした。今や王国騎士団第七部隊隊長まで登りつめる事ができたのも、ヴァルハイルの努力の結晶である。家柄の力がなかったかといわれれば隊長職は貴族の家柄ばかりの為に否定しきれないが、それでも努力なくしてその地位を得ることはできなかった。

 義兄はどうやら養父に本当のことを聞かされていなかったらしく、義弟であるヴァルハイルを半分は血の繋がった兄弟であると疑っていないようであった。養父は徹底して周囲を疑っていたのだなと心中で哂うと同時に、隊長まで登りつめた義弟に「せいぜい俺の為にさらに精進するといい」と尊大に言い放つ義兄を冷めた目で見ていた。

 だが、ヴァルハイルは知っていた。己が確実に義兄と血が繋がっていないことを。二十一の誕生日に、老齢となっていた、幼い頃から己を気にかけてくれた唯一の存在であった使用人頭の男より、自分の本当の父親であると思わしき男の名を聞かされたのだ。


 ――冗談じゃない。

 いったいどこの大衆小説の話だ。そう思ったのは、仕方ない事だっただろう。そして恐怖した。黒髪は珍しくはないまでも、多くもない。自分は、実父の若い頃に、似てはいないだろうか、と。いや、面影があるからこそ、ヴァルハイルが二十一のときまで黙っていたその事実を、使用人頭は死の間際に悩みながらも伝えたのだろう。



『いずれ気付く人間がいるかもしれません。貴方が、現王の落とし胤であるのだと。お逃げください。雪女と呼ばれる強い魔力を身に宿す女性を母とした貴方は、魔力も強い。この国の重鎮たちは笑顔の裏で、隣国を攻め落とさんと虎視眈々と、浅はかにも狙い続けています。王家の血に、強い魔力を欲しています。幸いなことに、好色な王は戯れに手をつけた貴方の母親の存在を覚えておりません。狙われる前に、利用される前に、逃げるのです。王家も、後宮も今、乱れています。王太子も、決まっておりません』


 幸せに生きてください。そう言い涙した使用人頭の言葉を思い出す。……あれから迷いつつも過ごし、使用人頭を看取ったのは半年後。身の振り方をを考えねばと思った矢先、確かに自分は何者かに呪いを受けた。きっと恐らく気付かれたのだ。いや、もしかしたらただ若くして隊長職についたことを妬まれただけかもしれない。なんにせよ時折発作が起き、魔力が乱れ、制御に苦心するようになって数ヶ月。次第に呪いの力は強まり、つい先月迎えた二十二の誕生日の頃には、一時では済まぬ間を発作で苦しむようになってしまった。

 解呪の方法はもちろん探したが、魔力の扱いに長けたものの少ないこの国では、医術はまだしも治癒魔法や解呪の術はまだ発展途上。隣国は随分と医療系の技術が発達しているらしいが、この国では恐らく無理であろう。こっそりと相談した、目をかけてもらっていた騎士団長からもそう告げられ、恐らく氷像を運ぶ任務が最後の仕事になるのではと挑んだ結果が、これだ。

 この山にたどり着く直前の村で副隊長に呼び出されたかと思ったら、一人山中に残された。タイミングよくおきた発作。暴れまわる魔力に反応して群がる狼。これが答えなのだろう。己より年上の副隊長は、何者かに依頼されていたようだった。

 それでも生きたかった。あっさりと儚く散った母の姿がふっと思い浮かんだその時、狼の群れの先に……彼女の母親を見つけた。畏怖するほどに恐ろしいまでの魔力を纏った、女。己の母親とは似ても似つかぬ強い魔力に、本能的に恐怖を感じた。


 今目の前にいる少女も、負けず劣らずの魔力の持ち主、なのだが。男が感じたのは、不安定さを含む少女へ対する困惑だった。


 戸惑うヴァルハイルの前で、とうとう少女の瞳から膨れ上がった涙が溢れて零れた。ぽろり、と頬を伝った涙は、彼女から離れるとはらはらと雪のように舞い始め、次第に氷粒となって床に落ちる。一瞬美しいと思ってしまった己を責めたい。


 失敗した。彼女は雪女であると知らなかったという。生まれを知らず育ち、それを告知された時の衝撃は、己もよく知っていたであろうに。


「え、え? 何これ、どうして」

 混乱した彼女の瞳からさらにぼろぼろと涙が氷となって零れ落ちる。自らの涙を手のひらに載せ慌てる彼女を見て、ふと違和感を抱いた。あの程度の小さな氷が、人肌に触れて融けずに在る。……もしやと恐怖して近づきその落ちた欠片を拾い上げれば、やはり己の指先で彼女の氷はとろりと融けた。

 いつ触れても冷たい印象しかなかった、冷え切った母が脳裏に過ぎる。幼い頃には亡くなってしまった母のことはあまり記憶にないが、迷いは一瞬、幼い頃と同様、温めねばとその少女の手を取った。冷たい。

「……冷えすぎだ。お前が冷えているから涙が氷り、解けずに手のひらに残るんだろう。魔力が不安定なんだ、まず少し落ちついて呼吸をしろ。……悪かった、お前の事情も知らずに決め付けて、言いすぎた」

 お前まで融けるな、とどこかで考えた気がする。だかその願いがヴァルハイルの中で形となる前に、目の前の少女は目に見えて慌て出す。……母とは随分と違う反応だ。白かった頬に僅かに赤みが戻り、ほっとする。

「まっ、は、離れてください。私本当に、魔力がどうとかわからないんです。勢い余ってあなたまで氷らせたら困る! 私本当にあなたに危害を加えるつもりはない善良な一般市民、ん? 一般雪女でして!」

「……一般的な雪女のほうがまずいんじゃないのか?」

 この国で一般的に伝わる雪女とは、男を喰って生きながらえる種族として伝わっているものも多い。最早騎士団の真夏に行われる怪談話ですら面白おかしく語られる程だ。

「あ! そ、そうなのか、な? え、じゃあもしかしてお母さん一般的じゃない? あれ?」

「落ち着け。確かに、まぁ、一般的じゃない気もするが。ああ、わかった。まず何でもいい、不安や疑問があれば声に出せ。泣いていい。無理に我慢するな、目の縁が氷ってるぞ。……お前一人でどうにかなる問題でもないだろう」

 彼女の母親はまぁ確かに一般的な母親ではないかもしれない。若い男を大切な娘のいる家においていくなよ、ましてこんなに若い、可愛らしい容姿の少女を、と考えて一瞬眉根を寄せる。そんなこと言っている場合ではなかった。まずは混乱しているらしい目の前の少女の体温を取り戻さねばならない。あまり知識はないが、雪女だからといって体温が低くてもいいということではないはずだ。母は冷え切って死んだのだから。


 そうして、彼女が彼女の母親のことを言えないだろうどこか抜けた思考の持ち主らしいと気付き苦笑しつつも、彼女からなんの悪意も感じず安堵してなんとか宥めようと声をかけていた筈が、衝撃の事実を知らされるとは思いもしなかった男が固まるまで数分。


「ご、ごめんなさいー! 私あなたの唇奪って傷の回復させたみたいです、感謝されると罪悪感やばい、うあああん!」


 まるで幼い子供のように泣き喚く少女の前で、男は頭を抱えた。自分はどうやら、傷を治させるために彼女に相当迷惑をかけていたらしいと気付いて。



 ◇ ◆ ◇



「くっ……ぐ、くはっ……!」

「え……? え!? ヴァルハイル様!?」


 慌てたように飛んできた少女が己の身体を支えようとする。が、いくら魔力があろうと細腕では支えきれない己の身体が床に転がったことに、ヴァルハイルは舌打ちしたい気持ちで床の木目を睨みつけた。温かみのある筈の木の床が、今はひどく冷たい。

 確かに身体の傷は消えた。だがやはり、呪いは解呪されていないのだ。今度はどれ程続くのであろう。発作が起きるたびその強さが増していったことには、気付いている。最初はほんの一瞬、そしてそれが次第に数秒続くようになり、今では長ければ十分だ。昨日の発作は、もう少し長かったかもしれない。魔力が不安定になる発作なんぞ、身体を内部から壊されるようで、意識が飛びそうになるほど苦痛だ。どこかの国に伝わる呪い返しの術を手に入れたいと何度願ったことか。

 ふと、床の木目を睨みつけていた己の視界に、美しく輝く宝石が転がった。……否、これは少女の、リィナの涙であると、すぐ気付く。視線をなんとか上げれば、ぼろぼろと美しい瞳に困惑と涙を滲ませ、少女は己をまっすぐな瞳で見ていた。


「く、苦しいんですか!? えっと、治癒魔法で治りますか!? でもあの、治癒魔法がわからないんです。母は治癒魔法が使えなかったみたいで、本にもやり方が載ってなくて」

「……はっ、……これは、違う。呪い、だ。治癒じゃ、治らないはず。気にするな、数分で、落ちつ……ぐっ……」

「の、呪いぃ!? な、なんでそんなもの! ちょ、ちょっと待ってくださいそれなら、父の書斎で魔法に関する本でも、漁ってきますから! どうせなら、呪い返しがいいですね! ま、任せてください、貴方に見える鎖、弱そうだし!」

「は? うっ……ま、待っ……」


 ばたばたと若干物騒な発言と突っ込みたい鎖発言を残し忙しない少女の足音が遠ざかる。鎖ってなんだ。それより、そんなことはいいから、行くな、と声が掠れた。不安だった。己の呪いは、まだいい。いくら魔力が暴れまわっても、彼女の母親が張った強力な結界の向こうには気付かれないだろう。狼に襲われる事はない。自分がただ、耐えれればいいだけだ。だが、彼女は。

 どうやら彼女は気付いていなかったようだが、彼女の母親が残した本の最後のページに挟まれた、二つに折りたたまれた小さなメモ。ヴァルハイルに残されたらしいその手紙は、彼女の母親からのものだった。

 本を読んだだけでも彼女の母親が娘を大切に想っていることは十分わかっていた。……残されていたその手紙は特殊な魔力が含まれており、ヴァルハイルが触れた瞬間解けて文字が浮かび上がった。

 娘の魔力の覚醒に巻き込むようなことになってすまない。どうかあの子を守ってほしい、貴方の本来の仕事を引き受ける代わりに、騎士である貴方に頼む、と。

 貴方の呪いは恐らく娘の魔力があれば上書きできる。融けるだろう。だが娘は人の身にその魔力を宿し、覚醒時は非常に不安定の筈、と。こんな時に娘を残して仕事に出なければならいない原因の貴方を恨むと同時に願う、と。この仕事だけはどうしても完成させなければならない事情があると書かれたその手紙には、何度も娘を頼む守ってくれと書かれていた。

 少女は元気そうにしていたが、手紙には『呪いに負けず生きる力の強い貴方がただそばにいてくれるだけでいい』と書かれていた。どうやら一般的に伝わる雪女と雪女の真実は少し相違があるらしい。


 離れるな。


 書斎がどこかなど、知らない。だが自分がこうして惨めに床に転がっている間に、あの明るい少女に何かあったら。この家は、実家ほどではないにしろ、広い。

 女っ気がない、と同期に言われたことがある程、ヴァルハイルは女に近づかない生活を送っていた。育ての親と言っても過言ではない使用人頭に、女性関係には十分注意するように言われ続けていたのだ。今なら分かる。あれは、不用意に王家の血筋をばら撒くなという意味だったのだろう。さすがに口付けや抱擁がはじめてだとは言わないが、ヴァルハイルはその言いつけを守って生きてきた。女に特に興味が湧かず、ひたすら剣の修行に明け暮れたせいもあるかもしれない。

 だがあの少女は、恩人。そう、恩人なのだ。騎士として、守らなければ。依頼人は彼女の両親。そう、俺には守る義務が。


 嘘をつけ。


 転んだ彼女が己の胸に飛び込んできたあの瞬間、ヴァルハイルの腕は無意識に彼女を抱え込みそうになっていた。会って数刻。まさかそんなと自嘲するも、確かに己は存外あの娘を気に入ったらしい、とは気付いている。それが色恋に結びつくものであるかどうかなんてまだ分かるはずもないが、守らねばという想いは、いやいや胸の内に生まれたものではない。

 今はそれでよかった。震える手足を叱咤して身体を僅かに床から浮かした男は、次の瞬間ざっと全身の血の気を引かせる。


 ドタン、と響き渡る大きな音。僅かに聞こえた、少女の悲鳴。その瞬間、ヴァルハイルの足は床を蹴っていた。胸を押さえ、苦しみに呻きながら、ヴァルハイルは叫ぶ。


「リィナ! くそ、どこだ!」



次で一旦完結です。その後こちらの作品は暫し番外編更新となります。

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