中編
【3】
「はっ、はぁ、収まった……?」
不思議と急に溢れ出ていたものが落ち着き、慌てて男の人を覗き込む。
生気のなかった顔は血色が戻り始めているのか赤みが差し、あれほど感じることができなかった呼吸が、そして僅かに上下する胸を見て、ほっと息を吐いたと同時に脱力して後ろに手をついた。
「よ、よかった……」
「さすが、やっぱりリィナはすごい魔力の持ち主だったわねぇ、見事な治癒術よ」
おっとりとした声が聞こえて、はっと顔を上げる。
「おか、お母さん! 私これからどうしたらいいの……!? 雪女って何したらいいの!? 人食い(男限定)なの!? いやだ硬そう、カニバリズムはごめんなんだけど!」
「リィナ何想像してるのお父さんちょっと怖い」
そうなのだ、怖いじゃないか! お母さんには悪いけど!
実は親が貴族でしたとか王族でしたとかそんな物語はいくつも読んだし憧れもした。中には親が狼男でしたなんてのも読んだ事がある気がするが、これを「あ、よくある話だな」とは流せない。ある意味よくない話である。
「何したら……そうねえ、一般的に言われている雪女って人殺しみたいでちょっと違うのよね」
そういいながら母に手招きされ、父がいまだ眠ったままの男を二階の空き部屋に寝かせてくると担いだのを見て僅かに焦る。だ、大丈夫かそんな持ち方で。彼は模型人形じゃないんだぞ!
とりあえず男を父に任せ、母の話を聞くためにもう一度テーブルにつく。
目の前にある料理はすっかり冷めている。作ってくれた父には悪いが、食欲はわかない。どうせ話すなら食後にしてくれればよかったのに。ご馳走……。
先にあんなプレゼントをもらうことになるとは思わなかった。うう、何がロマンチックだ。限りなく無粋なとんでもないファーストキスだった。
「さて、そうねぇ、何を話したらいいかしら?」
おっとりと微笑む母は、小首を傾げて私を見る。
……こっちはわからないことがわからない状態なのだから、聞かれても困るのだけれど。
「とりあえず、今日は休む? 覚醒したばかりって、ひどく体力を消耗しているらしいわ」
「そっか……いや気になること多すぎて落ち着かないんですけど」
「まぁまぁ。お母さん達、明日どうしても仕事で出ないといけないでしょう? 一応、将来使うかも、と思って雪女についてまとめた本があるの。それを渡して行こうかしら」
差し出された本は手書きで、どうやら母が書きとめてくれたものらしいとわかる。私に伝える為なのだろう、ぱらりと捲っただけでもかなり丁寧にまとめてあるようだとわかった。……母よ、嬉しいけど、今この状態で置いてかれるのはつらいです。
疑問あっても聞けないじゃん、なんて慌てて今のうちに読み進めようとしたが、目が霞んで内容も上手く考えられない。身体が、確かに激しく睡眠を求めている気がする。じんわりと不安で視界が歪みだし、私は慌てて首を振った。
「うん、休む。なるべくはやく起きてこれ読んでおくね、できれば質問できるうちに」
「ふふふ、心配しなくても大丈夫よ」
これ以上は今何も考えられないかも。うう、誕生日のご馳走が……
そんなことを考えつつ、私はよたよたと立ち上がり自室に戻る為に歩き出す。触れる空気が熱い気がした。
疲れて飛び込んだベッドで本を握り締めたまま、あっという間に意識が闇に沈んでいく。
いいや、起きたら考えよう。そこまで考えて、私の意識はぷっつりと途切れた。
「おはようリィナ、調子はどうだい?」
起きて下に下りると父にそう話しかけられて、曖昧に頷く。
ぐっすり眠れた。確かに眠れた。朝起きて、私は結構神経が図太いのかもしれないとか落ち込んだけれど、まあそれは良しとしてだ。
「お父さん、昨日の男の人って……」
「うん? さっき見たときはまだ起きていなかったけれど。気になるのなら後で様子を見に行ってみるといいよ」
そういう父はばたばたと荷物を纏め走り回っている。……そうか。もう、出発するのか。
「……ええっ、ちょっと待って、お父さんもお母さんもでかけたら、私あの人と二人きり?」
「そうよー、大丈夫大丈夫、何かあったら逆にぱくっとおいしく童貞頂いちゃいなさい、かっこいい子だったし」
「どうて……ってええ!? は、ちょ、まっ」
「あら、まだ本を読んでいないのね?」
何を言っているのだ、と口をぱくぱくとさせる私の前で、父と母はさくさくと旅支度を済ませていく。
氷像を運ぶ為に王都まで行くと言っていたから、往復で十日位。よく考えると、なんだか怖くなってきた。一昨日急遽知らせが来て父と母が運ぶのを手伝う事になったというが、その間私は一人きりなのだ。
「お、お母さん。私ちょっと一人は怖いかも……」
街の中なら女の一人暮らしも珍しくないだろうが、こんな人気のない山の中で一人過ごすのはなんだか怖い。というか、一人じゃないか。よくわからない男性付きだ。それってかなりよろしくないんじゃないのか? 主にこの状況、男性側が危ない!
「大丈夫大丈夫。ここには結界の準備もしてあるから私たち以外誰も出入りできないようにするし、食料は十分あるわ。薪もたっぷりあるし、あなたは覚醒したのだから緊急時は魔力で火も水も生み出せるようになった筈。雪女が火属性魔法っていうのも不思議だけどねぇ」
「そんな簡単に使えるの!? 練習とかしなくていいの、え、ちょっといろいろわからないんだけど!」
だから、本を読むのよ、とからからと笑う母にがくりと力が抜けた。
「大丈夫、雪女は人間とは違って魔力量も多ければ扱いもうまいのよ? 決心がつかないうちに襲われるようなら男は氷漬けにでもしておきなさい」
「さらっと怖いこと言わないで! てか襲われるのは私じゃなくて向こうじゃないの!?」
ぶんぶんと頭を振りたくなる。軽い、軽すぎる。
もうこうなれば開き直るしかないのか。まだ眠っている男を放置して無理やり父と母についていくのも何かあったらと気が引けるし、男を連れて出るのも難しいだろう。彼は重傷の怪我人だったのだ。
ぐるぐると頭の中を何かが駆け巡るが、結局私はぐっと手を握り顔を上げた。やってやろうじゃないか。もうどうにでもなれである。人はそれを諦めたと言う。
氷像を運ぶのにどうしても父と母の力が必要になった。仕事だ、それはわかってる。なら、仕方ないじゃないか。いやそれにしても大分きついわ。
本心を押し込んで言い聞かせていると、ふわりと頭を撫でられた。同時に空気が動き、頬に触れた少し冷やりとした空気に、母の手だ、と気づく。
「大丈夫。リィナならできるわ。……あら?」
母が急に手を止めたことに気づき顔を上げる。
あ。
居間の入り口に、男が立っていた。
さらさらの黒い髪、整った容貌の中一際目を引く、美しい赤い瞳。そういえば、父の作品の中にピジョンブラッドの石をはめ込んだ像があった気がするが、あれに良く似ている。ああ、彼の瞳は赤い色だったのか、とぼんやりと見つめ、はっとする。
「あ、あの! 大丈夫なんですか!?」
突然立ち上がった私を見て、ぼんやりとこちらを見ていた男がびくりと身体を震わせ腰の剣を引き抜いた。
その動作に、思わず足を止め息を飲む。だが。
「……娘を傷つけたら、今度こそ心臓から凍らせるわよ?」
ひやりとした空気が辺りを満たし、思わず身体がぶるりと震える。
目の前の男は険しい表情をしたままだったがぴくりと眉を動かし、母の声に反応したようだ。
「……その声。……俺を、助けたのか」
「ええそう、命の恩人でしょう?」
にっこりと微笑んだ母が、一歩前に進み出る。
「まだ魔力が安定していないわ。もう少し眠りなさい」
すっと、見蕩れるような動きで母の指先が揺れると同時に、男ががくりと膝をつく。そのまま転がったと思うと、目を閉じあのピジョンブラッドのような赤い瞳は見えなくなった。
ふむ。
「お母さん。せめてベッドで寝かせてあげようよ……」
「あら。あなたに剣を向けた罰よ、そこに転がして起きなさいな」
それはいくらなんでもだめだろう。
結局父が居間のソファに男を移動させ、二人とも時間だと言って慌しく私を置いて出て行ってしまった。うわお本当においてったよ、この状況で。
父もどうやらこの男と私を残すことに異論はないらしい。なんだか「仕方ないね……それが雪女の定めだし。お、お父さんはこの十六年で覚悟を決めたんだ……っ!」とか不穏な言葉を残していったし。母は母で、「私は生まれてからお父さんしか食べてないけど元気よ」と謎の励ましをしていった。
はあ、とため息をついて、ソファに眠る男を見つめる。毛布をかけながら、大丈夫かな、と不安になって手を握り締め、そこで少し自分が震えていることに漸く気がついた。
慌てて備えて母の置いていった本を開く。きっと雪女の詳しい説明と、魔力の使い方が書いているに違いない。
攻撃魔法のひとつでも使えたほうがいいのだろうか。それとも、治癒魔法? 使い方はわからないけど、昨日は覚醒時に勝手に治癒できてたんだよね。
もう大人だ。こうなりゃこの状況を楽しむ位の勢いでいかないと、と本を読んでいた私は、思わず身体を温めるために飲もうとしていた紅茶を噴出しそうになった。
「なにこれ……っ」
そこに書かれた雪女のするべきことを見て、泣きたくなる。
納得だ。確かに納得だ。そうか、こういう意味だったのか。
「男を喰うって……性的な意味なの……」
愕然と机に突っ伏した。そりゃお父さん生きているわけだわ。
どうやら雪女とは、魔力が高い代わりに男の生気を吸い取る生き物らしい。吸い取る、と言っても吸血鬼のように血を飲むわけじゃなくて、主に性的なごにょごにょごにょ……つまり、私がキスで覚醒したのもようは口からちょっと頂いちゃっていたようだ。なんか雪女というより、淫魔……ゲフン。とりあえず居た堪れないページはほぼ流し見てというより読み飛ばしつつ、ちっとも落ち着かない気持ちで息を吐く。
よく死ななかったなこの人。あんな瀕死の状態でそんなことしたら、下手したら死んでいたんじゃないか? いや、逆にすぐ回復できたからよかったのだろうけれど。
男から生気をもらえないと、どうやら雪女はひどく弱ることがあるらしい。……実感はないし、これまで十六年間平気だったのにそんなことを言われてもすぐ理解できない。
仕方ない、と本を読み進めると、どうやら母はすぐに使えそうな魔法をいくつか、とてもわかりやすく書き記してくれていた。これは助かる。
もともと本が好きだった事もあって、私はつい先を読み進め夢中になってしまった。それこそ、男が身体を起こすまでおきていた事に気づかない程に。
「おい」
「何、お父さ……ってうわあああ!」
「っ……騒ぐな、別に何もしない……先刻は剣を向けて悪かった」
眉を寄せながら男はそう言うと、さっさと立ち上がる。
「世話になった」
「え?」
私が何か言う前に歩き出した男を思わず追う。もしかして、今の今まで眠っていたのに、あんな怪我だらけだったのにもう出て行くつもりなのだろうか。
確かに私が覚醒とやらをした後傷はすべて消え去っていたが、窓から見えた外はいつのまにかもう暗い。さすがに危険だろうと声をかけようとしたとき、玄関の扉を開けた男がぴたりと足を止める。
「おい」
「は、はい!」
「親はどうした」
「……え? あ、出かけ、ましたけど」
「はぁ……なるほどね」
男は頭を抱えると、なんだよこの結界、と呟いた。
「結界?」
ちらりと外を見て、目を丸くする。
すっかり日が落ちた闇の中、うっすらと何かが見える。膜のようなそれがきっと結界なのだと気がついて、そしてそれがきっと母のものなのだと理解した。そういえば結界がどうとか言ってたな、ありがたい。
「えっと」
「閉じ込められた、か。大人しく喰われろってことか?」
ちらりと私を見下ろした男が、まるで嫌悪するような視線で、しかし口元に嘲笑を浮かべた。ぞわりと背筋が粟立って、慌てて数歩後ろに下がる。
「閉じ込める? 結界は、内側からも出られないものなのですか?」
「そのようだな。まぁ、その作りのほうが安全なのだから仕方ないだろうが、この場合はこれで中が安全と言い切れるかどうか」
「そ、そんな。私は、」
「何もする気がないと? ……若い娘を残して見知らぬ男を家に押しこむなんて、と心配すべきか、我が身を案ずるべきか、どちらだろうな」
ぐい、と一歩足を踏み出される。歩幅が、まるで違った。一気に距離を詰められて、見上げなければ見られないその先に、宝石のように輝く瞳が見えた。映りこんだ私は滑稽なほど怯えを露にしていて、男の口角がさらに馬鹿にしたように上がる。
おい母よ! なんで結界から出られないんだ、これじゃある意味軟禁じゃないか!
「どうした、雪女の娘。親に俺を喰えと言われたんじゃないのか?」
「なっ」
うん、怖いのは、怖いのだけど、……いらっとしたぞ。
むっと見上げた瞬間、男の目が驚愕に見開かれ、はっと息を飲んで飛びずさった。戸惑ったのはむしろ私だ。先程までの嘲笑は消え去り、警戒を孕んだ瞳がこちらを睨みつける。
「し、失礼な人ですね、なんなんですか、別に何もしません」
「……お前は」
「わ、私は! そもそも雪女だとかそんなの、今日というか昨日知ったばかりですし! 誕生日だったのにご馳走だって食べれなかったし、急に雪女だって言われたって……魔力だってないと思っていたし、もうこうなっちゃった以上今更になって事実を否定してごねたってダメってわかってるけど、こっちだって驚いてるんですよ!」
そう、散々悩んだし文句がないわけじゃないが、否定してばかりではいたくなかったのだ。だって、母の血筋のことなのだ。私はあまり会えなくても、母が好きだ。父も、好きだ。いきなり自分は人じゃなかったといわれて驚いてはいるが、嫌だとか……怖いとか、そんな、存在を否定するようなこと、できない。……したら、それは自分自身も否定することになる。今そんなこと、耐えられない。
何もしてないのに警戒されているという事実。……逆の立場なら、私は間違いなく警戒する。既知の仲でもなんでもない相手の家に連れ込まれたのだから、当然だ。わかっているからこそ相手に警戒するななんていえなくて、……理不尽なのもわかっていて、怖がらないで、と心が叫んだ。私は化け物か? 少なくとも私は母が怖い存在ではないと思うのに。
今、私がなんであるかを見ているのは、目の前のこの男しかいないのだ。
じわり、と涙が滲んだ気がした。悔しい、泣くなんて、大人になったばかりなのに。
ぐっと歯をかみ締めて必死に涙が零れ落ちるのを防ごうと、前を睨む。泣いて溜まるか、非日常が訪れたのがなんだっていうんだ。あ、憧れのストーリーみたいじゃないか! いや、やっぱなんか違うけど!
歯が痛くなるほど噛み締めても、重力に逆らうことができず視界をたっぷりと揺らがした熱い雫が、とうとう意図せずぼろりと頬を伝った。そして、かつん、ぱらぱら、と音を立てて落ちる。
……ん?
「え、ええっ」
なんだこの音、と下を見下ろした私は、自分の足元で煌く透明の小粒の石を見てぎょっとした、はっとして持ち上げた手のひらに、ぱらぱらと石が落ちる。
「え、え? 何これ、どうして」
いよいよ人外だ。涙が石になったの? 何の欠片? と慌てた私の視界が少し薄暗く染まる。はっとして顔を上げると、はぁ、とため息をついた男が、その場に片膝をついて黒い手袋を外すと、落ちた石を拾い上げた。
「……氷か」
男の指先で、石だと思っていた欠片がじわりと解けて、彼の指先を雫となって伝い落ちる。唖然として自分の手のひらを見れば、ぱらぱらと落ちた欠片はそのまま形を成したまま残り、ぎょっとして涙が引っ込んで視界がクリアになると、それは小さな雪の結晶のようだと気付く。
唖然として動けない私が手のひらの結晶を見つめていると、男はもう一度、どこか視線を彷徨わせたあとため息を吐き、突如私の手をぐっと包むように握りこむ。
「……冷えすぎだ。お前が冷えているから涙が氷り、解けずに手のひらに残るんだろう。魔力が不安定なんだ、まず少し落ちついて呼吸をしろ。……悪かった、お前の事情も知らずに決め付けて、言いすぎた」
握られた手が熱い。届く声が熱い。ああ、私本当に雪女なのか。
少し顔を上げると、こちらを覗き込む瞳が燃える炎のように揺らめいてみえた。ああ、熱い。融かされそうだ。いっそ、融かしてほしい。冷え切った身体に、熱を。
……はっ!? わ、私今何考えた!?
「まっ、は、離れてください。私本当に、魔力がどうとかわからないんです。勢い余ってあなたまで氷らせたら困る! 私本当にあなたに危害を加えるつもりはない善良な一般市民、ん? 一般雪女でして!」
「……一般的な雪女のほうがまずいんじゃないのか?」
「あ! そ、そうなのか、な? え、じゃあもしかしてお母さん一般的じゃない? あれ?」
「落ち着け。確かに、まぁ、一般的じゃない気もするが。ああ、わかった。まず何でもいい、不安や疑問があれば声に出せ。泣いていい。無理に我慢するな、目の縁が氷ってるぞ。……お前一人でどうにかなる問題でもないだろう」
あれおかしいな、さっきまで怖かったのに、なんか優しい。警戒されてたんじゃないのかな、もしかして何か騙すつもり? なんていろいろ考えてみるも、思考はまったく纏まらない。
そもそも、大人の男の人なんて父以外話すことが殆どなかったように思う。彼の行動がどういった理由で起きているのかまるでわからない。なんで、手を握るの。私に喰われたらどうするつもりなの、もしかしてこの人危機感が足りない? いや足りないの私か??
「なん、や、優し、」
「優しい、わけじゃないな。……悪かった。本当はお前の母親が狼に囲まれた俺を助けたのもわかっていたし、本来なら助からないだろうほど深い傷が完治しているのもお前のおかげなのはわかる。礼をしなければならない立場で、きついこと言って悪かった」
「わかる? 私、あなたを助けられたかなんてわからない。選択の余地もなくこんなところに閉じ込めさせて」
「わかるな。まだ魔力に慣れていないせいだろうが、目が覚めた俺がまず感じたのは間違いなくお前の魔力だった。母親のほうじゃない、お前が治癒魔法をかけてくれたんだろう? 今も、互いの意思なしに親の言いなりになろうとは、してないんだろ?」
「うっ、ううう」
泣いていい、といわれても一度引っ込んだ涙は滲むばかりで素直に泣けずにいた私の目から、今度こそぼたぼたぼろぼろと涙が溢れ、手の甲を氷の欠片が打った。
「ご、ごめんなさいー! 私あなたの唇奪って傷の回復させたみたいです、感謝されると罪悪感やばい、うあああん!」
私やっぱり雪女だった、と大混乱で泣き喚く私の前で、目の前の男はどこか困ったようなような様子で私の冷えた手を握り続けてくれた。
【4】
「すびばぜんでした」
毛布を頭から被って膝を抱えて座り縮こまった私は、ぐすぐすと鼻を鳴らしながら男に謝罪する。
あれから三十分以上泣き続けた私の声は見事に枯れている。ついでに喉も痛い、身体が水分を欲している。とりあえず暖かいお茶でも飲んで落ち着こうと思ったら、熱くてカップの中身をぶちまけた。そりゃそうだ、私雪女だった。
結局めそめそと掃除をしている間に男にぬるく入れなおしてもらったお茶を飲み、一息ついてうずくまる私の斜め前で、男は熱いお茶を飲みつつ私の母が残していった本を見ていた。
見せろ、と言われて素直に渡してしまったはいいが、今になって若干後悔している。だって中身、雪女がどうやって男の生気を吸うかとかそんなの書いてた。なんで渡したんだ、私のアホ。この居た堪れない空気どうしよう。
私もまだ最後まで読んでないんだけどな、とぼそぼそ声をかけたが、男は「そうか」と割りとスルーして読み続けた。ひどい。この居た堪れない空気以下略。
今のこの状況を整理しよう。
まずぱっと客観的に見れば、冬の森の奥深くにある山荘に若い男女が二人閉じ込められた、なんて緊張感のある話……のほうがマシという状況だ。
実際は雪女の両親に若い男が生贄として山荘に閉じ込められている、であろうか。やばい私超悪役。喰ってやるぞ~と妖艶に笑ってやるのが小説で言うなら見せ所で、そこに彼の仲間である騎士たちが駆けつけて討伐……えっ、やだ剣の錆びにはなりたくない!
「いや、そもそも『喰ってやるぞ』で妖艶に笑うってなんだ? せめてもう少し色気のある台詞に変換できないのか、お前は」
「だって獲物を目の前に悪役ぶるとしたら、って、え!? 私声に出しましたか!」
「急に喰ってやるぞとか聞こえたら普通に驚くがまぁ、色気はないぞ。小物感も半端ないな」
「し、仕方ないじゃないですか、初めてなんですよ! 小物どころか初心者ですよ、雪女見習いです!」
「はいはい、ついでに言うと騎士はこないから安心しろ。それと、初心者雪女見習いサン、お前これできるのか?」
ぺら、と見せられたのは母の置いていったあの本で、口付けをしたら舌がどうとか、男の体液がどうとかそんなことがかかれて思わず先程読み飛ばしたページだった。図解はされてない、よかった。
思わずばっと視線を逸らしてごめんなさいと謝った私は悪くない。現実逃避と言われようが、男性向けのそういった本を見つけてしまったような気まずさだ。いや持ち主私だけど。
「この程度でそれで、喰えるのか」
「こ、この程度!? いやいや、でも、しょ、正直食べなくてもなんとかなるかなー? なんて」
へへ、と笑った私の前で、男がぱたんと本を閉じてため息を吐く。少しどこか遠くを見つめた男は、まず、と急に姿勢を変えた。斜め前から私の正面に座りなおし、私の顔を覗きこむように少し身体を前に屈められて、思わず被っていた毛布を頭巾よろしく顎の下で握りなおす。
「……まず、お前の両親が雪女のことを隠していた理由はわかってる、な?」
「えっと、もしかしたら私が雪女の血を覚醒しない可能性もあるから、掟? として、とか」
「そうだ。いや、そのようだな。まぁ、お前からしたら不満はあるだろうが、これは仕方ないと思ったほうがいい。ただの人間として暮らせる可能性を考慮したんだろうし、お前を思ってということもあるだろう。掟、と言われたからには、俺にはわからないが重要な、雪女にとって守るべき戒律の可能性もあるが、お前は放置されたわけではない」
ぺら、と見せられたのは本の最後のページのようだ。手書きで「今まで何も説明してあげられなくて本当にごめんね」と書かれているが、間違いなく母の字である。何度も手紙のやりとりをしたのだから、間違うはずがない。
おっとりとしている母であるが、私にとって間違いなく大切な母だ。それは人間ではなかったとしても変わることはなくて、いろいろ複雑な思いがまだ胸に渦巻いているが、それだけははっきりしている。
「……はい」
なんとか返事をすると、男は少しの間沈黙し、そっと本から手を引いた。
「それで」
「は、はい」
ひどく硬い真剣な声音にびくりと肩を震わせると、男の赤い瞳がひたりと私を見つめる。
「親が、というよりお前の母親が俺をここに連れてきたのはある意味正解だ。これによれば雪女は十六の誕生日に覚醒だけでも済ませなければ身体に害があるとのことだし、どうしたって急ぎ誰かが必要だ。だが下手な男を用意して娘が逆に襲われ傷つくことがないようにしたんだろう。どうせ予め好いた相手がいないか探りを入れられていたんじゃないか? いない場合、瀕死の俺なら、何も問題なかっただろうしな」
「た、確かにいませんけど、問題大有りですが」
「結果命を助けてもらったんだ、俺はそうは思わない。それと、お前の話を聞くに雪女は恐らくずっと男を襲い続けなければいけないわけではない。この本を見ても、長く生気を受けられなければ弱る、とは書いてあるが、今すぐ不便があるわけではないだろう?」
「えっと、はい。体調が悪いことはない、です。母も父しか食べないとか妙なことを言い残していきましたけど、思えば母はあまり家にいる人ではなかったしそんな短い期間で食べる必要がないのかも……?」
「であれば、だ。今この状況で、どちらかと言えば危険なのは俺じゃない、お前だな。お前は今男を喰う必要がない、ただの女だ。対し俺は男。雪女と生贄じゃない、男と女だ。……少し危機感を持つべきはお前のほうだな、何を思ってお前の両親は俺を残していったんだか」
に、と笑われ、口角の上がった口元を見て唖然とする。
「その発想はなかった」
「ああそうだろうな、ずっと青い顔して、手を握り締めてるんだから。喰う喰わないも何も、この本すらまともに見れないお子様のようだし」
「ひょわぁ! そ、そそそれは仕方ないような、す、すみません!」
またしても目の前に開かれたページの文字にぎょっとして視線を彷徨わせる私の前で、男が笑う。……わ、笑ってる。本当に私のこと、怖くないのかな。
ちらりと見ると、赤い瞳を細めて男が面白そうな笑みを浮かべる。……よく笑う人だったのか。いや、笑ってるというより面白いものでも見つけたみたいな感じなのが癪だけど、警戒されるよりずっといい。
「えっとその、騎士、様は、な、慣れ……」
「慣れって、何にだ。女か? さすがに雪女には慣れてないが……というか、そうだな。命の恩人に名乗らず、失礼した」
そこでぽんと膝を打ち立ち上がった男はソファから横にずれると、一歩踏み出して私の前に跪き、腕を前に構えて頭を垂れる。うぇ!?
「私は王国騎士団第七部隊隊長ヴァルハイル・ネカルド。危うき所命を救っていただき、御礼申し上げる」
「ええっあ、えっと、わ、私はマリーナです。マリーナ・エセル! リィナでいいです。お礼はほんと、その、襲ってごめんなさい!」
さらさらと目の前で黒髪が流れる。やはり騎士だった。それも王国騎士団隊長とか言っていなかったか? 騎士団の隊長職って、大体貴族様のような気がするのですが、と混乱する私の前で、すっと赤い瞳に視線だけを向けられてびくりと背筋が伸びた。
「エセル……やはりここが。父君の名前はリンク・エセルで間違いないか」
「はい、そうです。父の名に間違いありませんが……?」
「実は、俺の今回の任務はエセル殿の新しい城の守護氷像の運搬だった。途中、少し問題が起きて本隊とはぐれ、氷像の魔力維持は俺の役目だった為にどうなるかと焦っていたんだが……なるほど、それでお前の両親は王都に出ざるをえなくなったか。雪女ならば、氷像の魔力維持はお手のものだろうし、確かエセル殿は城の守護氷像だけは妻との合作と言う噂だしな」
製作者なら当然無事に氷像に篭められた魔力を守りきるだろう、とぶつぶつと呟く男、じゃない騎士様……ヴァルハイル様を呆然と見つめる。守護氷像……詳しい。彼は間違いなく、運搬にあたるはずだった騎士なのだろう。
「お前がこの大事なときにここに一人知らぬ男と残らなければならなくなったもの、俺の失態のせいだろう。今から追うにも、俺の魔力がまだ回復しきっていないか。……謝っても謝り足りないな。いっそ、本当に俺を喰ってみるか?」
「え、いえ、それは結構です!」
急に先程までのからかうような笑みもなく真剣な表情で顔を覗きこまれてそんなことを言われても、とぶんぶんと首を振る。
大丈夫間にあってます。いや間に合ってないのかもしれないけどとりあえずその綺麗な顔を近づけないで鼻血出そう。かっと熱くなった頬を隠すように覆った手のひらが、自分で言うのもなんだが温度差が恐ろしいほどで、冷たい。
とりあえず、なんだかいろいろ事情はわかった気がする。じっと見つめてくる赤い瞳をなんとか見つめ返して、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「大丈夫、です。食べません。正直今は状況についていくのがやっとですし……おなかすいてないし、ほらその、最初から高級料理食べたら、あとが大変そうだし……? えっと、山奥の何もないところで騎士様には申し訳ありませんが、魔力が回復? するまでゆっくりしていってください。手を出さないって約束するので!」
「……高級料理」
「高級料理、ですね。むしろ王宮料理かも」
そう答えたところで、例えるなら肉料理かな、アツアツの肉汁たっぷりなステーキにしっかり野菜が溶け込んだ深みとコクのあるソースがかかって彩りもあり品良く盛り付けられているような、なんて彼を例え、美味しそうな料理を思い浮かべてしまったのがまずかったのだろうか。
きゅるる、と確かに自己主張するように鳴り響いたのは、私のお腹の虫……っては、恥ずかしい!
「……ははっ! 褒めてるのか、それは。しかも、腹が減ってないっていいながら、本当に……ふっ」
急に弾かれたように笑い出したヴァルハイル様が、くつくつと喉を鳴らしながら私の頭を少し乱暴に撫で回す。まるで子供のような扱いにむっと乱れた頭を押さえると、子供だろう、と再び笑われた。
「確かに、腹が減ったな。ここに閉じ込めるような真似をするってことは、食材は恐らくあるんだろう。まず何か食って腹ごしらえするか」
「は、はい! 確かに母はいろいろ用意してたと思うので、何か」
慌てて立ち上がった私は、お腹の虫を誤魔化すように俯いていたくせに、しっかり足元を見ていなかった。被っていた毛布につんのめり、お約束といわんばかりにそのままヴァルハイル様の胸に飛び込んでしまい、ぐ、っと全身が固まる。やっちまった!
思い返しても恋愛小説でお約束展開といわんばかりの行動をとってしまうのだから、情けない。やばい、何やってんだ私離れろ! と胸を押し返したところで広くて硬い胸板にぎょっとして慌ててしまい、見上げて再び固まった。
「なんだ、やっぱり、俺を喰いたいのか」
「わあああ!? ち、違うの分かってて言ってますよね!? いやちょっと、腰、腰に腕を回すなぁ!」
「大丈夫、そうださっきの言ってみろ。喰ってやるぞ、だったか?」
「なんで! 色気がないとか散々こき下ろしたのになんでそれ!」
「見本、見せてやるよ」
は、と見上げた私の目の前で、赤い炎が揺らめく。
熱い。
射抜くように見下ろす赤い瞳が、私の唇のあたりを捉えていた。いつのまにか腰に回された手とは反対の彼の手に顎を捕らえられ、親指がゆるゆると私の下唇を撫でる。
これあれだ。町の女の子たちが憧れてそうなあれ。恋愛小説でもいやというほど出てくる甘いシーン。いやいや、待って、今そういう雰囲気じゃなかったよね!? 喰うべきは私のほうでしょう!?
視線を逸らそうにも顎を固定されているせいで、おろおろと彷徨うばかりだ。熱を孕んだ瞳が熱過ぎて、慌てて下げた視界の先で、彼がゆっくりと、赤く濡れた舌で己の下唇をなぞっていく。
やばい、融ける(確信)
次の瞬間、彼が何か言おうとその口を開いたその時、防がなければ、と慌てて「わあああ!」と叫んだ私に、彼が弾かれたように笑う。
「もう十分、十分ですから!」
「まだ何もしてないんだけど」
「十分したでしょううう!?」
腰抱き寄せたとか! 顎クイ? とか! あと唇触った! とかぎゃんぎゃん言い返している私に、はいはい、とあきれたように笑いながら手を頭に載せてきたヴァルハイル様は、最初の怖そうな雰囲気もなくて。私のことを怖がったりも、しなくて。
ほっと、これなら両親が帰ってくるまでなんとかなるかも、雪女のネックである、生気を吸わないと体調が弱るとかそんなこと、ありませんように。なんて願ったそのすぐ次の瞬間。
「くっ……ぐ、くはっ……!」
「え……? え!? ヴァルハイル様!?」
ドン、と彼の膝が床に崩れ落ちるとすぐ、鎧が床を打ちつけた。
急に苦しげに全身を強張らせ、息を乱したのは、私ではない、ヴァルハイル様だったのだ。