母のスープ
とある独裁国家K国の犯罪者に対する粛清は苛烈で知られているが、一つだけ死刑囚にある慈悲をかける習慣があった。それは死刑執行の前日、その死刑囚の望むものをどれか一品食べさせてやるというものである。K国の犯罪者のほとんどは貧しさ故に罪を犯すため、死ぬ前に贅沢な食事や美食を食べられるとなるとそれだけで死刑執行に対しての抵抗が大幅に減るのだ。
ある日、いつものように死刑を宣告された囚人に看守が独房の柵越しに食べたい物を尋ねた。その囚人は少し思案した後、「母のスープが、母のスープが死ぬ前に食べたい。」と言った。看守はその願いを調書に取りまとめると、「承知した。」とだけ言い独房の前から去って言った。(母のスープとは俺も土壇場で知恵が回ったぜ。)1人になると囚人は虚空を見上げながら自分の母なる人物を思い返した。記憶の中の母はいつも酔っ払って自分を罵倒するか酒瓶を投げつけているかだった。酒と薬に溺れた娼婦であった母が、堕胎する金も無いから誰の子とも知れぬ赤ん坊を産み落としたというのが囚人の出生であり、物心ついた時から囚人は盗みや物乞いをさせられていた。当然、どんなに記憶を探っても9歳で家出するまでの母と過ごした時間にスープを作ってもらうなどといった行為をしてもらったという思い出は浮かんでこない。(この最期の晩餐の習慣はクソ国王がありもしねえ自分の寛容さや威厳を国民や役人たちにアピールする意味合いもある。実際今まで希
望通りの食事が与えられなかった例は無え、与えられなきゃ国王の沽券に関わるって訳だ。)つまり囚人の狙いは無理難題をふっかけて、それまでの間少しでも生きながらえることだった。(母には9つの時以来会ってねえが今もスラムにいるだろう。住所も戸籍も存在しないスラムから名前だけで探し出すのは相当時間がかかるはずだぜ。ひょっとすりゃあ死んじまってるかもしんねえがな。それでもその事を証明するのは難しいはず…)今までにも調達不可能な物を頼むと頼んだ時に断られたり、後から変更させられることはあった。しかし調達が可能である物ならば、どれだけかかっても望み通りの物を与えるのが常であった。(最期に思い出の料理を食べたいと思うのは一見ありがちだ。だからこそすんなり要望は通った。少なくとも1週間はかかるだろうから、あの女が見つからなかった時の為にまた無理難題でも考えるか。)囚人はベットに腰掛けると壁に向き直った。暗い独房は人を飲み込む怪物の口の様に見えた。
囚人の思惑通り要望から1週間は何の報告も無く過ぎた。これはこのまま母親は見つからないかと囚人は思ったが、その翌日看守が囚人の独房を訪れた。死刑執行の日取りが決まったと言うのだ。それはつまり囚人の要望が叶えられるということである。(あの母親が…。)囚人の心には死刑執行の絶望よりも母親のスープが食べられるということに対する驚きの方が大きかった。(スラムから見つけ出したのか…いやそれよりも、あの母親が俺にスープを…。)囚人が母のスープを所望したのは単に時間稼ぎの為ではなく、母親に自分が死刑になる事が伝わり、自分がスープを作って欲しいと願ったと知れば、自分には無いと思っていた母子の絆が人生の最期に確認できるのではないかという考えが頭の片隅にあったのだろう。囚人はその報告に涙を流し、それから死刑執行の日まで心安らかに過ごした。
そうして執行の日となり、囚人に最期の晩餐が供される事になった。テーブルにつくと、そこにあったのは予想に反して人1人は入ろうかという寸銅だった。「全く苦労したぞ。お前の要望には。魚やら肉のスープと言えばすぐにでも用意できたものを母のスープと来るんだからな。」囚人はもはや目の前のスープを早く食べたいという気持ちでいっぱいだった。「1人分にしては多いな。しかしお前の要望だから、こっちが勝手に量を決めて出す訳にもいかないからな。」囚人は看守の声も耳に入らなかった。頭の中では初めて盗みが上手くいった時、自分の頭をでっぷりと太った手で撫でてくれた母の姿が思い出された。「しかしお前も珍しい願いをするもんだよなあ。でもお前の経歴を考えれば特に驚く事でもないのかもな。」囚人はそれまでの自分の人生を振り返っていた。強盗となり残虐な殺人行為を繰り返していた毎日、孤独に苛まれて人を愛することも無かった毎日だったが今は違う。こうして目の前に母の愛情の証である大量のスープがあるのだ。「ああそうそう。それが我々の適当に作った物でなく本物だという証明がまだだったが心配はいらん。」囚人は最後まで聞かずに蓋を取った。「頭は1番上に置いておいたから。」
ありがとうございました。