彼女はSに飢えている
平日午前7時35分発各駅停車上岡行き。俺はいつもこの電車の5両目の2番ドアから乗るようにしている。朝の喧騒としたラッシュアワーとは相対した車内の左端に座る。これはいつもの習慣で、別に俺が予約しているわけではないのだけれど、どこが空いていてもついつい座ってしまうのは人間の習慣は第二の天性と呼ばれている所以なのかもしれない。何となく、この席に座らないと落ち着かない。そう、高校入学時から変わらない何気ない朝の通学風景。これがきっと、高校を卒業するその日まで続く。
こんなありふれた通学に、少しの色を指してくれるのは、俺が乗った川原駅から2駅離れた真坂駅から乗ってくる女子高生だった。
名前は知らない。知っているのは、彼女がこの辺りでは知らない人はいないと言われる名門女子高・桜花女子の生徒であるということと、彼女が美少女だと言うこと。
栗色のさらさらの髪、大きな丸い瞳、色白なのに赤くて小さな唇。一見して、いわゆる甘い顔立ちで可愛い系なのにその雰囲気は綺麗系という、不思議な美少女。うちの学校は、可愛い子が多いことで有名で、実際可愛い子も多いけど、彼女ほどの見た目も雰囲気も美少女っていう女子はいない。さすが桜花女子の生徒っていったところなのか。
彼女はいつも、音楽を聴きながら3番ドアから乗ってきて、右端から2つ目の席に座る。そして、桜花女子の最寄駅である葉山駅まで、本を読んで、乗り過ごさないためにか一つ前の駅である玉園駅で顔を上げ、再び本に目を移す。残念ながら、彼女が何を読んでるのかまでは見えないけれど、知的な印象があるからおそらく崇高な文学なんだろう。何か似合う。ちなみに俺はというと、朝っぱらからストーカー行為に勤しんでるわけじゃなくて、時に朝の単語テストの勉強をしたり、携帯をいじったり、音楽を聞いたりしながら、彼女の降りる葉山駅の隣の戸波駅で降りて学校に向かう。そんな日常。
彼女が何年生かはわからないけど、たぶん俺は卒業するまで彼女と同じ電車同じ号車に乗って、後年高校時代の甘酸っぱい思い出の一つとして語ることになるのだろう。
そう思っていた。その時までは。
人生っていうのは、時に思いもよらない方向へ転がるらしい。小さい頃から顔を合わせれば喧嘩ばっかしていた幼馴染の男女が夫婦になったり、地元の地図すらわからない人間が大学で地理を学び地図を作る仕事をしていたり、まぁ人生何があるかわからないことの連続だということだ。
俺はその話を聞いたところで、稀有な例だと思っていたし、俺にそんなことは起きないと思っていた。何たって、自分で言うのも何だが、俺は普通だったのだ。普通の見た目で普通に高校に通って普通に友達もいて普通に恋もして普通に振られたり、とにかく普通で、これほどサンプルらしいサンプルもないだろうと思うほど卑近な例だった。きっとこれからもそう。
そう思っていた矢先に、卑近でない例が飛び込んでくるものらしい。
たとえば、電車で見かける美少女が遮断された踏切の中にいる、とか。
それは、9月中頃の夜もだいぶ更けてきた午後10時半過ぎ。
俺は玉園のドラッグストアでバイトをしてて、その帰りだった。
玉園には踏切がある。これを通らないと俺は駅に行けないので、必ず通る。この踏切、めちゃくちゃ通行時間が短くて、この踏切が長いせいで何度遅刻しかけたことか。そんな踏切なので、俺が通る頃に空いてたらラッキーで、今日は珍しく目の前に見えた踏切は空いていた。
急いで俺は踏切を渡ろうとしたが、残念ながらあと数メートルってとこであえなく踏切が遮断された。50メートル8秒台の鈍足が憎い。
仕方なく俺はゆっくり歩いて踏切で待とうとしたんだけど、踏切の中には女子がいた。
(えっ、ちょっ、えっ、意味わかんねー!なんで動かねーんだよ!!)
「おい!危ねーよ!!!」
俺は思わず叫んでみたが、女子は全然見向きもしなかった。
まだ電車が来る前なんだから急いで渡れば出られるのに、女子は全然動かなかった。何なんだよ!!俺は歩きから走りに変えて、踏切の中に入っていった。どうか電車こないでくれ!!!女子もアレだけど俺もこんなとこで死にたくねー!!!!
電車か通る警告音が耳に入る。ほんとやべーだろこの状況!!!
間一髪ってとこで俺はその女子の腕をとって、踏切から出た。た、助かった。鈍足でも何とか間に合った。
ゼーハー言いながら、女子の方を見ると少し驚いた顔をしつつも特に関心がない様子だった。その態度に俺はキレた。
「あんなとこいたら危ねーだろ!!死ぬとこだったんだぞ!!」
自殺志願者か!!!命は大事にしましょうって道徳で習うだろ!!
いきなり見ず知らずの男にキレられて、怯えたり泣いたりするかもしれないと思ったが、それは仕方ない。女の子は泣かしちゃだめって習っててもこれはセーフ案件だろ!
しかし、女子はそんな素振りを全く見せないどころか、女子は制服のスカートの土埃を払っていた。落ち着きすぎだろ……。
「おい!聞いてんのか!!助けてくれてありがとうくらい言えねーのかよ!!!」
普段温厚キャラな俺だが、こういう時は別だ。さすがに何も言わないとか何なんだよ!!助け損とは思わねーけど、何か違うだろ!!
俺がキレているのを女子は少し見て、冷静な口調で言った。
「わたしが『いつ助けて』なんて言ったの?」
「はっ?えっ?」
意表をつく言葉に俺は言葉を失った。逆ギレ?いや、逆ギレするならこんな冷静さを見せないはずだ。
それにしても、この制服とこの顔に既視感があるような。
「教えてちょうだい。わたしがいつそんなこと言ったの?わたしがそんなこと言ってたら謝らなきゃいけないしお礼も言わなきゃいけないと思うけれど、わたしはそんなこと一言も言ってない。したがって、謝る理由もお礼を言う理由もないわ。何か反対意見は?」
あまりに理路整然とした回答に俺は何も言えなかった。可愛い系の顔立ちの美少女からこんな言葉が繰り出されるとは。
可愛い系なのに綺麗系の雰囲気。そして、このセーラー服。
もしかして。
「……あれ?どっかで見たことある顔ね。どこだっけ?最近告白してきた青葉高の八坂くん?いや、もっとオラオラ系全開だった気がするし。富岡高の高木くん?もっとナルシストオーラ全開だったし違うか。いつ告白してきた人?」
全然的外れな回答に、俺は叫んだ。
「朝!同じ電車に乗ってる!青葉高の松岡颯太!!!」
桜花女子の美少女は、あぁと言った素振りをした。
「なるほどなるほど。朝いっつもわたしのこと見てる普通を絵に描いたようなストーカー系青葉高生かー。だから見覚えがあったのか」
普通を絵に描いたようなストーカー系青葉高校生って。散々な印象だ。しかも、毎日こっそり見てるのバレてたのか……。
「まぁいっか。松岡クン時間ある?」
「はっ?」
「助けてほしいなんて一言も言ってないけど、わたしのせいで怪我したっていうのは事実だから、手当くらいはするよ」
見ると、さっき彼女を助けた時にできたらしい腕の擦り傷。大した大きさじゃないんだけどどうやら深かったらしく、血が滲んでる。意識しはじめたら痛みが出てきた。擦り傷って結構痛い。生憎俺は絆創膏だとかそういうのは持ち合わせてなかったから、このまま血を垂れ流して帰って母さんにドヤされるということは火を見るよりも明らかだったので、彼女の提案に従った。それに、この子がどうしてこんな真似をしたのか気になったし、この機会を逃したらもう会えない気がしたし。
俺らは来た道を行き返し、角を曲がったとこにある公園へ行った。
夜の公園っていうのは閑散としていて、賑やかな昼間とは違う性格を持っている。
電灯の周りには小さな羽虫が飛んでいて、そのすぐ側のベンチに座った。
ちょっと待ってて、と言った彼女はバッグを置いて水道へ向かった。
彼女のバッグとともに取り残された俺は、何だかよくわからなかった。
いっつも朝の電車で一緒になる美少女と、たまたま出会って、彼女の自殺を止めて?彼女に手当される?非現実的すぎる。
大体あの子何て名前なんだろう。俺はそれすら知らなかった。
ふと、彼女のスクールバッグを見ると、定期券が飛び出していて、彼女に見られないようにそれを見ると。萩原亜美。何て読むんだこれ。
「おぎわら、あみ?」
「はぎわらつぐみ!!」
「おわっ!!」
声が降ってくると、俺は思わず仰け反ってしまった。いつからいたんだよ……。
「ったく、人の定期見るわ人の名前間違うわほんと最低なストーカーね」
「いや、だからストーカーじゃないって!!」
萩原さんは俺に梨ジュース缶を渡した。何で、アップルジュースでもオレンジジュースでも缶コーヒーでもなくて梨ジュースってチョイスなんだろう。たぶん萩原さんのお礼なのでありがたくいただいておく。
「というか、ストーカーのくせにわたしの名前すら知らなかったの?」
「ストーカーじゃないって!!」
そりゃ、萩原さん見てちょっと生活に潤いを得ていたけれども!!
「ふーん。まぁ良いわ。そういう点は君と同じ高校の八坂くんと違うってことで評価しとく。わたしは萩原亜美。次、『あみ』なんて呼んだらストーカー容疑で警察突き出すからね。『つぐみ』って呼んで良いわ。見ての通り、桜花女子の2年。君は?」
「君はって?」
俺が何のことかわかんないという顔をすると、つぐみさん(呼んで良いって言われたのでありがたく呼ばせていただく)は、舌打ちした。美少女の舌打ちっていろんな意味で攻撃力高い。
「自己紹介しろって言ってんの。ほんと頭悪いね。まぁ青葉高だから仕方ないか」
愛校心なんて全然ないけど、一応在籍する青葉高の名誉のために言っておくが、青葉高は偏差値56の中堅校だ。決してそんなに学力が低いわけではない。けれど、桜花女子高生に言われたらぐうの音も出ない。桜花女子高はじいちゃんばあちゃんの時代から知られる名門女子高だ。それはただ単にお嬢様高校というわけではなく、県下有数の進学校だった。偏差値65。つまるところ、つぐみさんは中堅校の青葉高を馬鹿にできるほど賢いということだ。
「あぁ、なるほど。えっと、松岡颯太。青葉高2年、です」
「ふーん。同い年」
そんな感想を述べつつ、つぐみさんは器用に肘の怪我を洗って持っていた絆創膏で患部を塞いだ。美少女に手当してもらうとか役得で、少し助けてよかったかもと思ってしまう悲しい男の性である。
「あ、ありがとう」
「今度から気をつけるのよー」
誰のせいでこうなったと思っているのか。
まるで体育で怪我して保健室に行った時の保健の先生みたいな口ぶりである。
つぐみさんは俺の梨ジュースと一緒に買ってきたアイスココアを飲んでいた。
なんだこの状況。
この何がおかしいんだかもはやよくわからなくなってくる状況を打開するために、俺は口火を切った。
「なんで、踏切に入ろうと思ったんですか?」
思わず敬語になってしまう俺。同学年なのに。
「うん?」
きょとんとした顔でつぐみさんは俺を見てくる。その顔が最高に可愛い。可愛い系と可愛い仕草のコラボは最強だ。ぐうの音が出るほど可愛い。
「そんなの、自殺しようとしてたに決まってるじゃない」
アホじゃないの?と言った目で見てくる。
自殺?自ら命を断つ行為?
「それって英語にすると、スーサイドって訳すー」
「それ以外何だと思うの。遮断された踏切から出ない上に出ようとしない、助けてほしいなんて言わない、状況証拠から見ても火を見るよりも明らかでしょ」
さも自分が自殺するなんて当たり前だと言った口ぶりである。
いやいや、自殺って!!!
「……なんで?」
こんな可愛くて、こんな頭良くて、どうやらめちゃくちゃモテて、どう見てもリア充で人生イージーモードなのに。
というか、そもそも自殺者オーラなんて出てないし。(自殺者オーラとか言ってみたものの、実際そんなオーラを放ってる人を見たことがないのはご愛嬌だ)。
「決まってるでしょ?」
もしかして、こんなに可愛いから同じクラスの女子から虐められてて、とか、家庭に何か問題があるとか?「女は生まれながらの女優なのよ」なんてことを洋画に影響されまくりの姉ちゃんが言ってたことは本当で、こんな調子でも実は大きな悩みを抱えてるとか。
「つまんないからに決まってるじゃない」
ここで今日一番の沈黙が落ちる。
「つまんない、って。えっ?」
どういうことだ。つまんないから自殺?何だそれ。自殺の原因って将来に対する不安とか人間関係とかじゃないのか!つまんないから自殺ということを理解する人生経験を俺はまだ積んでいない。というか、積むと思わなかった。
俺の動揺を見て、つぐみさんは不思議なものを見る目をした。
「何がおかしいっていうの」
全部、って答えたらどうなるんだろうか。全く以ってつぐみさんの思考がわからなかった。いや、女の子の考えることってぶっちゃけ全然わかんなくて、良かれと思ってやったことが実は勘に触ったりするらしい。普通体型の女子が「痩せたい」って言ってたから「そんなに痩せてもモテないよ」って返したらキレられた。わけがわからない。後で姉ちゃんに聞いたら「女はね、モテたくて痩せるんじゃないの。可愛い服を着て可愛い自分を演出して男を捕まえたいから痩せたいの」とか言われた。意味がわからない。結局モテるためじゃん。そんな感じなので、俺は女の子が考えることなんて全くわからない。さらに、つぐみさんのように全てにおいて意味がわからない女子の思考なんて読めたもんじゃない。
「いや、えっと。充実してそうに見えるから」
可愛くて頭も良くて他校の男子からもモテる。何がそんなつまんないのか。もしかして友達がいないとか?
「確かにわたしはお嬢様高校に通ってて、ストーカーがつくくらい可愛くてモテて、勉強も人間関係も至って問題ないの」
またストーカーって言った。だから、ストーカーじゃない!!たぶん!!!
「でもね、何もかもつまんないの。全部が普通すぎてつまんない。きっとこの先もテンプレートみたいな人生を送るの。わたしの人生って決まりきったことなの?そう考えたら生への渇望がなくなった」
「……」
俺が頭が悪すぎるんだろうか、それとも、つぐみさんが頭が良すぎるんだろうか。全くわからない。やっぱり普通の女子以上にわからない。
「だから、自殺を考えた。怨恨で殺されるのって面倒くさいし、じわじわ痛むのも嫌。薬で死ぬのも味気ない」
「それで踏切?」
「そう。ストーカーの君ならわかるだろうけど、わたしが毎回玉園駅の辺りで外を見てたのは近くで踏切があるとこだったから」
「ストーカーじゃないって」
俺の必死の抗議につぐみさんは耳を貸さない。
「だから、誰にも邪魔されない時間にあそこにいたのに」
じっと睨まれた。つぐみさんは可愛い系美少女だから、睨まれても可愛いんだろうなって想像したけど、どうやらそうじゃなかった。普通に怖かった。こっちが怨恨で殺されそうだ。
「っ、でも、自殺って選択肢は、良くないと思う」
つまんないなんて短絡的だと思うし、人生に見切りをつけるのに、同い年の俺が言うのもおかしいけど、つぐみさんは若すぎる。
「じゃあ、普通のことしか起きない人生にどうやって生への渇望を創出すればいいの。普通はつまんないの」
「じゃあ、普通じゃない状況を作ればいいんじゃないですか」
「普通じゃない状況って何よ」
俺の提案につぐみさんはムッとした表情をした。……確かに。普通じゃない状況って何だ?今も普通じゃないことは普通じゃないのだが、つぐみさんはそれ以上の普通じゃないことを望んでいる。
「えっと……」
「具体案の提示ができないならはじめからさも具体案があるように言わないでちょうだい」
つぐみさんがそっぽ向いた。
まずい。何がまずいのかあんまりよくわからないけど何かがまずい。
「たっ、たとえば!」
「たとえば?」
「俺と!付き合う、とか」
いつになく頭を回転した先にあったのは、俺自身もよくわからない具体案だった。
言ってみて俺は頭を抱えた。
(何言ってんだよ俺!!なんでここで告白?意味わかんねー!!これでつぐみさんが普通じゃないと思う状況を作り出せるわけがないだろ!!!!)
これほど反省したのは、前に好きだった女の子への失言以来だった。その子の好きな人の悪口を、うっかりその子の前で言ってしまったのだ。
つぐみさん無視してくれるかなぁと思ってつぐみさんを見てみれば、俺に助けられた時より驚いた顔をしていた。えっ、ちょっと、えっ。何か言ってください!!
少し経って、つぐみさんから返ってきた言葉は意外なものだった。
「……それ、面白いかも」
「へ?」
「自殺しようと思って引き止められたのはストーカーで、しかも、そのストーカーが付き合ってほしいって言ってきた。これは普通じゃないわ」
うんうんとつぐみさんは頷きながら言った。だから、ストーカーじゃないって。いや、もしかしたらストーカー要素が大事なのかもしれない。
「良いよ。付き合おう。自殺も阻まれちゃったし、告白されるのもうんざりしてきたし」
「えっ、それ本当に?」
「君から提示してきたんでしょ。えーっと、颯太くん?」
いや、確かにそうだけど!!
まさか受け入れられるとは思いもよらなかった。
「これからよろしくね。言っとくけどわたし、つまんなかったらすぐに別れるし、自殺するからね」
何て言うヤンデレみたいな台詞。
でも、つぐみさんは色々と本気だ。
「返事は?」
満面の笑顔。畜生、超可愛い。何なのこの人。しかも、今日一良い笑顔。そこらへんにいる男なんか一瞬で惚れさせる破壊力。チートすぎる。
そんな、チート・つぐみさんに勝てるわけもなかった。
「……はい」
こうして、死にたがり享楽主義者のハイスペック美少女・萩原つぐみさんの普通じゃない状況を作り出すという任を、普通すぎるほどにも程があると言われる俺・松岡颯太が承ったのである。