〇六九 束の間の平穏
~~~鄴の都~~~
「……遠征軍は漢中を完全に制圧したか。
ふむ。父上にしてはずいぶんと苦戦したようだね」
「もし殿下が指揮を取られていたら、
もっと早く制圧できたでしょうな!」
「おいおい、僕はそこまでうぬぼれてはいないよ。
こと戦においては父上に敵う人物はいない。
父上が苦戦したならば、それだけ漢中が攻略困難な地理で、
五斗米道がよく抵抗したということさ」
「その五斗米道ですが、魏公(曹操)は解体はせず、
大半の信者を北方に移住させるだけに留めたそうです。
反乱の芽を摘まずにおいて、大丈夫なのでしょうか……」
「父上は新しもの好きだからね。
この国には土着の信仰があるばかりで、組織だった宗教はまだ少ない。
組み上がったばかりの五斗米道がこの先どうなるのか
興味深くて、解体しなかったのだろう。
それに教祖の張魯や閻圃ら主だった重臣は、
おとなしく降伏した功績により
地位を与えるという名目で都に呼ぶそうだ。
頭を人質に取られていれば、信徒にはなにもできはしないよ」
「き、教祖がこの都に来るんですか。気持ち悪いな」
「降伏といえば、馬超に仕えていた龐徳様も
魏公に降ったそうですね……」
「ええ。兄の張魯が降伏してもなお抵抗を続けた張衛や、
魏公と裏で通じていた楊松らは
反乱分子として斬られたそうですが、
龐徳はそれ以前に賈詡殿の計略によって孤立させられ、
降伏を余儀なくされたそうです」
「魏公は漢中を落としたことよりも、
龐徳を得られたことの方を喜んでいるそうですよ。
筋肉馬鹿ならもう掃いて捨てるほどいるでしょうに」
「龐徳様はただの筋肉馬鹿ではありません。
確かな戦術眼も持つ知勇兼備の名将だと、
間近で見てきた私が保証します。
……ああっ!
私ごときが出しゃばったことを言って申し訳ありません!
決して! 天に誓って決して呉質様に反論を唱えたわけではなく――」
(あいかわらずこいつ面倒くせえ……)
「おや、あそこを歩いているのは弟君の曹植殿下ではありませんか」
「曹植君とそれに何晏君のようだね。
ふむ。詩の談義でもしているのかな」
「詩などと愚にもつかない物にうつつを抜かすとは
のん気なぶげらあああっ!?」
「愚にもつかないのは君の方だよ呉質君。
文学こそ国家の大業であり、不朽のものさ。
……父上に戦働きで敵わないのはまだしも、弟に文学的素養で及ばない。
これこそ僕が真っ先に克服すべき弱点だね」
~~~鄴~~~
「ホホホ。あなたの兄君がこちらを見られてるわ。
おや。また呉質殿を殴っておられる。
あいかわらず腰の入った良いパンチね」
「……兄上は文武両道に優れ、なんでもできる方だからな。
以前、酒席の余興でだが、剣の師匠と打ち合って圧倒していたよ」
「ホホホ。人には得手不得手がありますよ曹植。
あなたには兄上も、それどころか父上も
及びもつかない詩の才能があるじゃないの」
「男子たるもの、戦場で功績を挙げることが本懐さ。
詩がいくら書けたってしかたないよ。
……兄上はもう何度も従軍して功を立てている。
僕は父上にいくら掛け合っても戦場に立たせてすらもらえないのにだ」
「戦功を立てたいだなんて、そんな野蛮なお考えはおよしなさいよ。
陳琳を見なさいな。
見聞を広めたいって従軍したのはいいけれど、
怪我と疫病をもらって寝たり起きたりの毎日よ。
文学者は机に向かってればいいの。……それともまさかあなた」
「馬鹿なことを言うな。
君や楊脩がいくら騒いだって、
僕は父上の後継者に名乗り出る気なんて無いよ。
曹操の後継者にふさわしいのは兄上さ」
「だったら曹丕に張り合って戦働きなんてしなくていいじゃないの」
「別に兄上と張り合いたいわけじゃない。
僕は父上に、曹操という男に少しでも近づきたいだけだ」
(……妻のお父様のことを悪く言うつもりはないけど、
あんな化け物に対抗意識を燃やしてどうすんのよ……)
「殿下、ここにいたのか。曹休が呼んでいるぞ」
「曹休が? 何か異変でもあったのか」
「孫権が動いたそうだ。
曹休が迎撃に出るから、君や曹丕に留守を任せたいらしい」
(……年少の曹休でさえ出て行くのに、
また僕は留守番をさせられるのか)
「殿下?」
「わかった。すぐに行く」
~~~鄴 書庫~~~
「――そもそもまつりごととは徳をもって行うことであり!
――であるからして、礼節を重んじることこそが!
――義を見てせざるは勇なきなりと昔から言うように!」
「崔琰殿。もう少し声を抑えることはできませんか?
そんな大声で話されていてはわたしどもの仕事に差し障ります」
「しかたないであろう。
子弟に講義をする教室は、
侵攻してきた孫権に対する軍議場として使われておる。
講義をしたいならここでしろと曹丕殿下に言われたんじゃ」
「魏王が余計な部屋はいらないと
建設段階で多くの部屋を取り払ってしまわれたから、
手狭になっているのです。
我々にしわ寄せが来るのは当然かもしれませんね」
「さすがはわしが認めた王粲じゃ!
誰かと違って話がわかるな!」
「……話がわからなくてあいすみませんこと」
「それに蔡文姫殿ともあろうお方が、
横でわいわい騒がれた程度で仕事に支障が出るのかな?
これは評価を下げることを検討した方がよいかのう」
「わたしの仕事は散逸した父の書物を、
幼い頃に読んだ記憶を頼りに復元することです。
他よりも集中力を要するのです」
「蔡文姫様の記憶力には驚かされます。
私が亡父様からいただいた書物と試しに照らしあわせてみましたら、
一字の間違いもありませんでした」
「お前は蔡文姫の父が亡くなる前に、
多くの書物を譲られていて、それをよく研究していたから、
娘と協力して一冊でも多くの書物を復元しようとしているのだろう。
ふん、そんなことは都の人間なら誰でも知っているわい。
だからと言ってだな、このわしに授業を小声でやれなどと――」
「うるさい。授業をやりたいなら駄弁はやめて早く続けなさい。
私も書庫の隅を借りて政策の起草文を書いているのだ。
授業はまだしも駄弁は邪魔になる」
「これは失礼いたした陳羣殿!
それでは陳羣殿のお許しをいただいたことであるし、
大声で授業を再開いたそう!」
「……魏公が漢中への遠征から帰られたら、
部屋の増築をお願いしましょうか」
「無理よ。今度はすぐ孫権の討伐に出て行くに決まってるんだから」
「安心しろ。私がいま書いているのは、その増築の請願書だ。
孫権討伐に出て行く前に決裁をもらっておく」
「おお、さすがは陳羣さ――」
「――であるからして! 衣食足りて礼節を知ると言うように!!」
「崔琰殿! こちらにいらっしゃったか!
質問があります!」
「おお、なんなりと聞くがいいぞ!!」
「待て応瑒! お前の質問はいつも長すぎる。
先に私に順番を譲りなさい」
「いやいや、順番くらい守れないような者に
おいそれと譲るわけにはいかん!」
「ならば崔琰殿の裁定を仰ごうではないか!
崔琰殿! どちらに先に質問させていただけるのか!」
「私には左右に耳が付いておる。
同時に質問してくればよかろう!」
『おお! さすが崔琰殿!!』
「………………」
~~~建業~~~
「お、お待ちください尚香様!!」
「うるせェ。止めんな周善!
妻が旦那に会いに行くことの何がおかしいってんだよ」
「そ、そのような小舟で益州まで渡るなど無謀な――。
い、いえ。それよりも勝手に劉備に会いに行くなど許されません!」
「おい周善」
「は、はい?」
「てめェの主君は誰だ。おれの兄貴だろうが。
主君の妹の旦那を呼び捨てたァ、偉くなったもんだな、おい」
「も、申し訳ありません!
り、劉備様、でございます……」
「おれの呼び方も間違ってんぞ。
尚香じゃねェだろ。孫夫人だろうが!」
「は、はい。孫夫人……」
「尚香、いつまでわがままを言っている」
「孫夫人」
「従兄の私にまでその呼び名を強要するのか……」
「てめェらはおれに対する敬意が足りねェ!
おれの話をもっと聞きやがれ!」
「……孫夫人と敬意を払われたければ、それ相応の振る舞いをしなさい。
これ以上、周善を困らせるな。
孫権も心配している。今日は戻るんだ」
「チッ……」
「いやはや……助かりました、孫皎様」
「尚香が苦労をかけるな。
……だがあの子といい、二喬様といい、
孫家の女たちは夫に恵まれない。
かわいそうだが、劉備のもとへ向かわせるわけにはいかん。
気の毒だと思ってやってくれ」
「もちろんです」
「……しかし、もし尚香が弓を構えてお前を脅したら、
すぐに逃げろよ。死ぬぞ」
「………………」
~~~益州成都~~~
「――こちらの案の方が私は良いと考えますが」
「おまんの意見には賛同できんな。ここは変える必要はないぜよ」
「さっきから議論が堂々めぐりしているだけで一向に結論が出ないこれ以上の議論は現時点では無駄であると私は考えるいったんこの話は棚上げにしてまずは商取引の法制定を先に行いしかるのちにこの議論に立ち戻ろう少し頭を冷やせばまた別の画期的な意見が出るかもしれないし急ぐべき課題でもないことは明白だ」
「は、はあ……」
「みんな精が出るのう。
――ところで今は何をやってるんだっけか?」
「法の制定だと何回言えばわかるのだ。
国を造るにはまず法が必要だ。
法さえあれば貴様のような無能が主君でも国は保てるからな」
「おお、それは助かるのう。
……でも、伊籍さんや馬良さんを
荊州からつれてきちまって大丈夫なのか?
関さんは困っとりゃせんかな」
「益州には政治家が少ない。人手が足りぬのだ。
荊州の統治よりも法制定が先決だ。
法さえ定めれば関羽のような野卑な男でも統治はできる。
全てはつながっているのだ」
「ふーん。でも人手が足りないってわりには、
亮さんはさっきからなんも手伝ってないように見えるんじゃが?」
「余はすでに法の根幹を造り上げた。
今はこの三下どもに細部を詰めさせているだけだ」
「三下…………」
「余の貴重な時間をこんな些末事に割けるものか。
第一この程度の職務もこなせぬようでは、彼奴らは余の三下も務まらぬ」
「要するに御主人様はサボってるです。
馬良でさえ働いてるのに自分は面倒くさがってるです」
「ははは。そういうことか。働け亮さん」
「…………貴様がどの口でそれを言うか」
「あわわわわわ。冗談じゃよ冗談!
す、すまんかった! お、怒るな亮さん!」
「あっはっは。諸葛亮殿は他の誰よりも働いていますよ。
それがわかっているから、
我々は何を言われても彼に従っているのです」
「……だからと言って暴言は聞き捨てならねえけどな。
いちいち反応してたらこいつと付き合えないってわかったから、
我慢してやってるけどよ」
「暴言ではない。正論だ」
「あぁん?」
「そ、そうだ軍師! わ、我々は益州を平定してまだ日が浅いです。
国内が落ち着かない隙を突いて、
曹操が攻めてくる恐れはありませんか?」
「無い」
「……即答したが、本当に断言できるのか?
曹操は漢中を落とし、目の前まで迫っている。
その勢いのまま益州の境を侵すことも考えられよう」
「余の意見に異を唱えるとは愚かな。
だがその無謀さを評価し教えてやろう。
余は以前に愚弟に命じ、揚州の民を扇動し、江東に移住させた。
それをさらに加速させ、
魏の揚州の要である合肥の統治を揺るがせた。
孫権はそれを見逃さず、今こそ合肥を落とす好機と大軍を催した。
魏は全力を挙げてそれを迎撃にかかる。益州を攻める暇はない」
「さ、左様であるか……」
「全ては余の掌の中にある。理解したらさっさと仕事に戻れ」
(……なんだかんだ言って亮さんは、
普段わしらに対するよりも親切に説明しておるな。
亮さんは亮さんで益州のみんなに気を遣っているんじゃろうな)
「馬鹿な。余が三下どもに気を遣うわけがなかろう」
「あ、あれ!? わ、わしの心を読んだのか亮さん!?」
「貴様の顔を見れば、その浅はかな考えなど読める。
余は全知全能であるからな……」
~~~~~~~~~
かくして漢中は魏の手に落ちた。
凱旋した曹操は魏王に任じられ、いよいよ権勢を強める。
一方、東方では孫権が決意を胸に兵を進めていた。
次回 〇七〇 合肥の戦い




