〇六八 五斗米道の地
~~~漢中 南鄭城~~~
「曹操軍が漢中の境を越えたか」
「人の子は身の程知らずだな」
「漢中の土を踏んだからには一人として生きては返さぬ」
「我らの妖かしの術の前に人の子は無力だ」
「だが油断はするな。
馬超の監視につけていた楊白は術を破られたと聞く」
「劉備のもとには有象無象が集まっている。
我らの眷属がいたとしても不思議ではあるまい」
「しかし曹操は別だ。彼奴はあらゆる妖かしの業を遠ざけてきた。
彼奴のもとに我らの眷属はいない」
「ならば恐れるに足るまい」
「ケッケッケッ。
五斗米道に逆らったことを地獄で後悔させてやりましょう!」
「それじゃあね。手始めにね。楊昂と楊任が迎え撃つのね。
楊昂と楊任にね。この縦縞の布をかぶせるの。
それで3つ数えてさっと外すと縦縞の布が横縞になって、
楊昂と楊任が前線に送り込まれちゃうわけ。
面白いでしょ? これ南鄭3丁目の肉屋の劉さんには好評だったのよ」
「さすがは兄者だ!」
「師君バンザーーイ!!」
~~~長安~~~
「韓遂を討ち果たし、ただいま帰還した!」
「ご苦労様。これでようやく関中も平定したと言えそうだね」
「ヒヒヒ。馬超、韓遂ら関中十部の諸侯は全て灰燼に帰した。
愚かにも我々に逆らうからこうなるのだ」
「馬超はまだ劉備のもとでくすぶっているがな」
「丞相、いや魏公の推薦してくださった郭淮が役に立ち申した。
関中の地理を熟知する彼がいなければ、
もっと苦労したことでしょうな」
「わっはっはっ! 本官の力など微々たるものであります。
侯選殿や楊秋殿ら元・関中十部の方々にも
ずいぶんと助けられました」
「関中は我々にとっては故郷だからな」
「お安いーーッ! 御用だーーッ!」
「この勢いで漢中を制圧し、
さらに馬超や劉備を逮捕と行きましょう!」
「頼もしい限りだね。遠征帰りで疲れてるところ悪いんだけど、
このまま夏侯淵君や張郃君に
漢中攻めの先鋒をお願いしたいんだが――。
そういえば張郃君はどこだい?」
「神出鬼没の男だからな。
どこかで我々の窮地を救うために潜んでいるのだろう。
――そうだ、忘れるところだった。殿に紹介したい男がいるんだ」
「……韓遂の参謀を務めていた成公英です」
「同じく、韓遂の護衛をしていた閻行だ」
「二人は韓遂を見限って投降し、小生らに協力してくれた。
韓遂の潜伏先を突き止められたのも彼らのおかげだ」
「ふむ。僕は韓遂君とは旧知の仲だから、
彼の考えはだいたいわかるつもりだ。
見限ったんじゃなくて、
韓遂君に僕に降伏するよう命じられたんだろう?」
「! ……そ、そのとおりです」
「自分に代わりこれからの国の行く末を見届けるよう命じられました。
そのためには、曹操様に降るのが一番良いと」
「国の行く末か。きっとそんな殊勝な心がけじゃないと思うよ。
彼は関中に、いや全土に乱の種を蒔いたんだ。
その種がどんな花を咲かせるのか、見届ける者が欲しかったんだろう」
「……我々には、よくわかりません」
「彼は馬騰君や馬超君に振り回されるだけの男ではないということさ。
――それじゃあ、二人は僕たちの遠征軍に加わってもらう。
力を貸してくれたまえ」
『はっ!!』
~~~漢中 魏軍~~~
「五斗米道とは張魯の父が興した教団じゃ。
信徒は布施の代わりに五斗の米を納めることで、
張魯の庇護を得られる。
漢中の民のほとんどは信徒と言えるじゃろう」
「宗教でつながった連中か。
家臣や民を含め上下の結束は堅いだろう。厄介だな」
「加えて漢中は険阻な土地で大軍は容易に進めぬ。
山や谷に部隊を分断されたところを、
地理を熟知した敵兵が山猿のように襲い掛かってくるぞ」
「兵力で勝る益州軍も何度も撃退されたと聞いています。
攻め方を考えないといけませんな」
「とりあえず経験豊富な夏侯淵君らに正攻法で攻めさせてみた。
彼らが何か糸口をつかんできてくれるだろう」
「……五斗米道に関しては妙な噂も聞いておる。
奴らは妖かしの術を用いるとな」
「妖術だなどとそんな馬鹿な話があるか!
賈詡殿ともあろう方が、そんな世迷言を口にされるとは」
「いや、あながち嘘とは言えません。
この目で見たわけではないが、
五斗米道には妖かしの術を用いる者が確かにいると聞きます」
「見たわけではないのだろう? 単なる噂ではないか!」
「まあまあ、落ち着きたまえ。
もうじき夏侯淵君から連絡が来るよ。それを待とうじゃないか」
「か、夏侯淵将軍から急報を預かって参りました!」
「さっそく来たな。どうした」
「も、申し上げます!
夏侯淵、張郃将軍は休息中に敵の奇襲を受け敗走しました!」
「き、休息中に? いったいなんという体たらくだ!」
「いや……様子がおかしい。詳しく話しなされ」
「将軍らは敵の先鋒を発見し、まず陣を張りました。
夜になると半数の兵を眠らせ、残りの半数に夜襲に警戒させました。
しかし……朝になると、兵が全員、眠りに落ちていたのです」
「全員!?」
「全員です。敵の奇襲を受けようやく目を覚ましましたが、
反撃もままならず撤退するのが関の山でした。
幸い、主だった将は無事に逃げ延びています」
「……信じられない話だね。
いくら彼らが遠征続きで疲れていたとはいえ、
全員が眠りこけるなんてことはありえない話だ」
「妖術……だろうな」
「そんな馬鹿な!」
「とにかくこれでは戦にならない。
夏侯淵君たちに代わり、夏侯惇君を前線に出すんだ。
彼らが眠ってしまっても救援できるよう、
すぐ後に于禁君の軍を続けさせたまえ」
「は――――
~~~漢中 時の狭間~~~
――――
「…………うん?
これは……時間が止まっているのかな」
「さすがは曹操。理解が早いな」
「君は誰だい? 時間を止めたのは君なのかな」
「我が名は左慈。仙人をやっている」
「ほう。いろんな人材を見てきたが仙人に会うのは初めてだね」
「苦労しているようだな曹操。手を貸してやろうか?」
「僕のために漢中の妖術師を打ち破ってくれると?
どういう風の吹き回しだい」
「簡単なことだ。奴らが気に入らんのだ。
半人前の仙人気取りどもがな。
だが半人前でもお前たち人の子の手には余るだろう。
だから手伝ってやる」
「それはそれは。君たちの世界のことはよくわからないけど、
五斗米道の諸君は、仙人ではないということかな。
仙人ではないのに妖術を操るから、仙人である君のしゃくに障ると」
「そうだ」
「それはいいことを聞いた。だったら君の手を借りるまでもない」
「なんだと?」
「五斗米道の諸君は仙人ではなく人間なのだろう?
仙人だったら打ち倒すのに骨が折れる。殺すのはもっと大変だ。
だが人間なら、仙人よりは楽に殺せる。
死なない人間などいないのだからね」
「…………なるほど、それがお前の考えか」
「だから君に用はない。帰りたまえ。
ああ、もちろんその前に
止めた時間を戻していってもらえると助かるね」
「……人の子にしては恐ろしい男だ。
ここでお前を殺しておかなければ、我らの災いになるやもな」
「それはどうも。でも安心したまえ。
僕の敵に回らない限りは手出しするつもりはないよ」
「我らに殺されることは恐れぬのか?」
「時間を止められるなら、
僕を殺すことなんていつでもできるだろう。
そうしないのは、殺せない理由があるからさ。
殺戒と言ったかな。仙人は人殺しをしたら
神通力が失われるんじゃないのかい」
「さあな。
だが人の子よ。我らは容易に殺せぬぞ。
百回刺されても死なぬ。火や水の中でも眠りにつける。寿命もない。
そんな我らをどうやって殺すつもりだ?」
「そうだね。
とりあえずは百一回刺して、それから次の手を考えるとするよ」
「……お前は人の身でありながら、
我らに限りなく近い存在のようだ。
我が誘いを断ったことを後悔するなよ、曹操」
「あいにくと僕は今まで一度も後悔したことがないんだ」
~~~漢中 魏軍~~~
――――ッ! すぐに連絡いたします」
「ああ、頼んだよ」
「それにしても、本当に相手が妖術師だとしたら手を焼くのう。
ワシらの側には妖術師はいないのじゃろう?」
「いるものか!
もしいるのだったら頭を下げてでも力を貸して欲しいわ!
そうでしょう魏公!」
「…………面目ないね、王朗君」
「は?」
~~~漢中 張魯軍~~~
「クックックッ……。
私の催眠の術にかかれば曹操軍といえども赤子も同然よ」
「楊昂、次は俺にやらせろ!」
「お前の術は集団向きではあるまい。次も私に――」
「待てい!」
「な、なに!?」
「怪しげな術を用い人心を惑わす者よ。
お前たちにも決して変えることのできない心があることを知れ!
人、それを『不屈』と呼ぶ」
「何者だ!」
「お前たちに名乗る名はない!
喰らえ! バーストキィィ――」
「瘟!!」
「zzzzzz……」
「ふう……危ないところだった。
なんだこのヒーローもどきは?」
「たしか張郃とかいう奴じゃなかったか。
口上を唱えてる間に結界を張られるとは間抜けな奴だ。
ちょうどいい、人質に使おうぜ」
(張郃の馬鹿め!
説教している暇があったら不意打ちすればよかったものを)
(いや、いい囮になった。
張郃に気を取られている隙に、この距離から……射抜く!!)
「おっと危ねえ!」
「なッ!? 俺の矢をつかみとっただと!?」
「に、人間業ではない……」
「はっはっはっ! 恐れいったか人の子よ!
これが俺様の能力の――」
「ィィィィィック!!!」
「ぎゃああああああ!!」
「なにィ!?」
「はっ! お、俺はいったい……。
一瞬だが気を失っていたような……」
「わ、私の術が破られただと? そ、そんな馬鹿な。
も、もう一度眠れい! 瘟!!」
「…………紙切れを投げつけてなんのつもりだ?」
「な、なぜだ。なぜ呪符が効かぬ!?」
「張郃、伏せろ!!」
「うげえええええ!!」
「おお、夏侯淵殿。そこにいたのか。
その距離から一発で仕留めるとは流石だな」
「大将を討たれて敵兵は逃げ惑っておりますぞ!
待てええい! 全員逮捕だああっ!」
「……それにしても妙だな。
彼奴らめ、急に妖術が使えなくなったようだ」
「私のおかげだ、人の子よ」
「新手か!?」
「そんなニセ仙人どもと一緒にされては困る。
曹操に伝えよ。これで貸しを作ってやった。
見返りとして以後、我らに関わるなと」
「どういうことだ?」
「我らは曹操が怖いのだよ。
人の子でありながら、我らを殺し得る曹操が」
「おお……鶴に変化して飛び去ってしまった……」
「よくわからんが、とにかく好機だ。
新手の妖術師が現れる前に、奴らの拠点を落とすぞ!」
~~~南鄭城~~~
「た、大変でゲス!
楊昂と楊任が討ち取られ、陽平関が落とされました!」
「口ほどにもない連中だ。五斗米道の面汚しめ!」
「とにかく戦況は悪いですね。
陽平関の後には、この南鄭まで大した要害はありません。
曹操軍はたやすく迫ってくることでしょう」
「兄者、私を第二陣として送ってくれ。
本当の妖術というものを人の子らに教えてくれよう」
「お待ちください。
下等の使い手とはいえ楊昂らは人の子の手には余る妖術師でした。
彼らを殺したということは、
曹操軍は我らの妖術を破るなんらかの手立てを得たということです。
妖術を破られれば、単純な膂力では人の子に敵いません」
「だったらどうするでゲスか!」
「簡単なことです。人の子の相手は人の子に任せればいい。
龐徳を使いましょう」
「龐徳? 馬超の副将を務めていた猛将か。なぜ漢中にいる?」
「馬超が劉備に降伏した時、
彼は重病で同行できなかったのです。
義理堅い人の子ですから、
我らに恩を返すまでは漢中を離れられないと考えています。
今こそその恩を返させましょう」
「あのね。ここに銅貨があるのね。
この銅貨を手の中に握り込んじゃうの。
それで三つ数えて手を開くとね。
銅貨の裏の絵柄が表に、表の絵柄が裏に入れ替わって、
君たちの背後に龐徳が現れるってわけ。
この銅貨すごいでしょ? 東急ハンズで50銭で売ってたのね」
「ここは……察するところ、軍議場であるかな。
我が呼ばれたということは、曹操軍と戦えというわけか」
「話が早いでゲス!
わかったらさっさと曹操軍を迎え撃つでゲスよ!」
「受けた恩は返さなくてはならぬ。承ろう……」
~~~曹操軍~~~
「前方の城を龐徳が守っているだと?」
「関中の戦いでは苦しめられた相手だな」
「なんの、率いているのが龐徳でも兵は五斗米道の弱兵だ。
一息に踏みつぶしてやれ!」
「待たれよ。
龐徳は重病のため馬超に同行できず、やむなく漢中に残っていた。
此度の出陣はその恩返しといったところだろう。
五斗米道に帰依したわけではあるまい。
ならば無理に矛を交える必要はない。
離間の策を用いて降伏させましょう」
「賈詡君の十八番だね。面白い、任せるからやってみたまえ」
「はい」
「むう……復帰早々に計略を用いられるとはさすが賈詡殿だ。
おい華歆、お前も油断してはいられんぞ」
「……どういうことだ」
「私は賈詡殿が復帰すれば
お前が軍師団から落選すると思っていたが、
今回は運のいいことに若僧の蒋済が落ちた。
ならば次は当落線上にいるお前が落ちるのが道理だろう?」
「誰が落ちようと、それが私であろうと構わぬ。
私は与えられた役目を全力で尽くすまでだ」
「それに客観的に見て当落線上にいるのは王朗のほうだ」
「え? わ、わはははは。
これは劉曄殿、さすがに冗談がお上手ですなあ!」
「くだらんことを話している場合か!
お前らも賈詡の手伝いをせい!」
~~~~~~~~~
かくして緒戦は曹操軍が制した。
そして人と仙人と妖術師の間で闘争が繰り広げられる中、
一人の剛直な武人が、己の武勇のみを頼りに曹操に挑もうとしていた。
次回 〇六九 束の間の平穏




