〇六二 濡須口の戦い
~~~濡須北部 曹操軍~~~
「馬超は予測通り関中で決起したものの、
楊阜らの反乱により撃退されました。
張魯のもとへ逃げ帰りましたが、
夏侯淵将軍らの追撃により大打撃を受け、
しばらくは再起もままならないでしょう」
「韋康君や人質に取られた者が何人も殺されてしまったが、
まずは首尾よく行ったね。
これで安心して東へ兵を向けられるよ」
「……今回の出兵の最大の目的は馬超を釣り出すことにあった。
その目的が果たされたいま、
孫権と戦う必要性はさほど無いと思うのだが?」
「赤壁の戦いにも劣らない大軍を率いておいて、
何もせずに帰れと言われるのか?」
「俺たちはともかく、将兵は
濡須口を攻めることこそが本命だと考えてます。
ここで撤退しろと言われても、
はいそうですか、とは行かないでしょうね」
「戦いもせずに兵を引けとまでは言わない。
だが最大の目的は達成している以上、
濡須口の攻略に執心する必要はない、と言っているんだ。
孫権との戦いは一定の戦果を得られればそれでいい。
丞相はその線引きをどう考えているのか伺いたい」
「そうだね。孫権君の顔を見られればいいと思っているよ」
「か、顔を?」
「赤壁では奇襲を受けて大混乱に陥ってしまったからね。
孫権君の顔を見られなかった。
この戦が初対面だから楽しみにしているんだ。
聞けば彼はずいぶんと個性的な顔をしているらしい。
いったいどんな顔なんだろうね……」
~~~濡須口 孫権軍~~~
「ちっきしょーめ! くしゃみが止まんねェぞ、おい!
オレの噂をしてやがんのは誰だ?
都に置いてきた張昭が悪口叩いてんのか?」
「ははは。あるいは曹操が
艦長の噂をしているのかも知れませんよ」
「曹操のジジイか。
赤壁ん時はてんやわんやでツラを拝めなかったからな。
乱世の奸雄サマはどんなツラしてんのか楽しみだぜ」
「張昭さんがいたら
『曹操に肉薄するほど前線に出るおつもりなのか! まったく!』
って言うところッスね」
「おお、すげー似てるじゃねェか魯粛!」
「ウイッシュ。徹夜して練習した甲斐があったッス」
「……ええと、そろそろ陣立てを
説明したいのですがよろしいでしょうか?」
「おうよ。遠慮せずやってくんな」
「まず前衛として韓当、黄蓋、周泰が布陣しています。
遊撃隊として甘寧、蒋欽が後方に控え、
水軍は董襲と徐盛が率いています」
「対する曹操軍ですが、前衛に張遼、徐晃、臧覇。
遊撃隊には曹休、楽進。水軍は于禁と李典が率いてます。
つまり、あっしらと全く同じ布陣ですね。
同じ戦法をとれば、兵が多いほうが勝つ。
ま、理にかなった考えだ」
「正攻法ですか。それゆえに崩しづらいですな」
「で、どう対抗するんだ呂蒙軍師サマは。
今回の戦は全面的におめェに任せっから、好きにやってみろ」
「待ちましょう。
あっしらは曹操軍を殲滅する必要はないし、
そもそもそんなことはできやしません。
曹操だってこんな大軍をいつまでも遠征させることはできない。
あっしらは持久戦をとりつつ、反撃の機会をうかがいましょう」
「……昔の呂蒙からは考えられない言葉だな」
「おいどんらの知ってる呂蒙は誰よりも無鉄砲でごわしたからな」
「急にガリ勉になってさー。
付き合いが悪くなったなこいつと思ってたら、
軍師ヅラしてオレらを指図する立場になってんだもんなー」
「ガリ勉ばかりで剣の腕が衰えてんじゃねえだろうな。
ちょっと表に出ろ。試してやる」
「あっはは。こいつは手厳しい。
わかりました、お付き合いしましょ」
「待ったッス。
呂蒙とはこれから細かい作戦を詰めていかなきゃなんないんでえ。
つれてかれたら困るッス」
「しかし、あっしから申し上げられることなんて、
別にありませんよ」
「とにかく待って、相手の隙をつく。
軍師殿が言えるのはそれだけなのですか?」
「はっはっはっ。
文官と武官から板挟みにされて困ってるぜ呂蒙のヤツ」
「参りましたね……。
ひとつ言えることは、待てば必ず勝機は訪れます。
曹操軍は巨大な、それこそ海のような溜め池で
水軍を鍛えてきましたが、それでも長江とはわけが違います。
長江の機嫌までは、さすがの曹操も読めはしません。
波が荒れ、河が怒り狂ったその時こそ、あっしらの攻め時でしょう」
~~~濡須 孫権軍~~~
「長江は荒れ狂い、敵味方問わず多くの艦船が被害を受けています!」
「……呂蒙。おめェが待ってたのはこいつか?」
「あっはは。ここまで激しいのはちょっと想定外ですね。
これじゃあ反撃どころの騒ぎじゃないでしょう」
「大変ッス! 水軍を率いていた徐盛の旗艦が、
曹操軍のまっただ中に流れ着いたそうッス!」
「この荒れ模様では曹操軍もすぐには包囲できません。
すぐに遊撃隊を救援に向かわせましょう」
「ついでに董襲にも、
徐盛の二の舞になる前に引き上げろって伝えてくんな」
「了解です。ただちに向かいます!」
「報告です。前線の韓当、黄蓋、周泰ら各将軍が
独断で兵を進めています。
『待ってたら好機が訪れたから予定通り攻める』、とのことでした」
「聞いたか呂蒙。おめェの思ってた通りに事は進んでるじゃねェか」
「……あっしも昔は似たようなものでしたが、
兵法を知った今となっちゃ怖くて真似できません。
将軍らはこの荒波の中でも自在に船を操れるでしょうが、
それでも心配ですね。あっしも後詰めに向かいましょう」
「駄目ッス。まだ昔の気質が抜けてないようッスね。
周瑜みたく軍師はどっしり構えてえ。後方にいるものッス」
「いや、何もかも周瑜にならうこたァねェよ。
周瑜は周瑜。おめェはおめェだ。呂蒙、おめェの好きにやんな」
「わかりました。それではひとつ前線に出て指揮をとります」
「……戦う軍師ッスか。頼れるけど危なっかしいッス」
「なーに。周瑜だって荒くれ者のあいつらには振り回されてたんだ。
周瑜のヤツは好き勝手に動き回るのをうまいこと予測して、
作戦に組み込んでやがった。
だが呂蒙はあいつらの中に入って、
内側から制御しようってんだろうよ。
荒くれ者の心をよく知ってる、呂蒙らしい軍師っぷりじゃねェか」
「なるほど……。さすが荒くれ仲間の艦長の言葉ッス。
心からガチで納得できるッス」
「だろ?
さて、お手並み拝見といこうじゃねェか。がんばれよ呂蒙……」
~~~濡須 曹操軍 前衛~~~
「こんな荒波の中を突き進んでくるなんて、あいつら正気か!?」
「さすがは長江と暮らし長江と育った江東の御仁よ!」
「か、感心してる場合じゃねえだろ……。
あいつら次々と上陸して来るぜ……」
「大丈夫か臧覇の旦那? 顔色が悪いぜ」
「大丈夫なものか……。俺はもともと山賊だぞ……。
山の物なら虎でも熊でも恐れんが、水だけは不得手だ……」
「あんたほどじゃねーが、オレたちだって満足に戦えそうにねえ。
ここは退くしかねえか……」
「ダンナ方! 曹操のダンナから撤退命令が下ったぜ。
殿軍はおれっちの水軍が引き受けるから早いとこ逃げちまいな!」
「かたじけない。負傷兵を急ぎ収容し引き上げようぞ!」
~~~濡須 呂蒙軍~~~
「曹操軍の前衛は総崩れです!
韓当将軍らは逃げる敵軍に猛追をかけています!」
「さすがは韓当さんらだ。
だが曹操相手に深追いはちょっといただけない。
遊撃隊の甘寧さんを敵の背後に回して、撹乱してもらいましょうか」
「そ、その甘寧将軍ですが、
すでに決死隊を募って敵の本陣に切り込んでいるそうです」
「あいつ毎度毎度、命令無視すんなよな!」
「ま、それが甘寧さんのお人柄ですからね。
こうなったらあっしが敵の背後に回るとしますか。
凌統は駱統さんと一緒にこのまま進み、韓当さんらの援護をしてくれ」
「わかった! この命に代えてもやってみせるよ!」
~~~濡須 孫権軍 水軍~~~
「わしは退かぬ」
「し、しかし将軍! このまま暴風にさらされていては危険です!
転覆の恐れもあります!」
「水軍を任されているのはわしだ。
わしが退けば、せっかく追撃にかかっている前衛は
退路を気にして勢いを失う。
前衛が崩れれば後方の本陣も危機にさらされる。
ここで水軍を下げるわけにはいかぬ」
「……船と運命をともにするつもりですか」
「船ではない。わしは孫権艦長と運命をともにするつもりだ」
「……わかりました」
「……何をしている。座り込んでなんのつもりだ」
「わ、私は将軍と運命をともにさせていただきます!」
「お前はまだ若い。死に急ぐな」
「死ぬと決まったわけではありません!
たとえ船が沈んでも、荒波の中に投げ出されても
死ぬと決まったわけではない!
ここで待ちましょう! 我らの勝利を!」
「フン。わかっているではないか」
~~~濡須 曹操軍 本陣近く~~~
「やべー。囲まれたんじゃねーのこれ」
「ふっ……。本陣の危機を感じて戻ってきて正解でしたね。
我ながらエクセレントな判断でした」
「は? アンタがしゃべってるのは何語デスカ?
オレ、頭がわりーから中国語でしゃべってくんねーかな」
「あいにく教養のない方とトークするつもりはありません。
そろそろ死んでもらいましょう」
「あぁん? やれんのか? マジでオレをやれんのか?」
「やらなくていいですよ甘寧さん」
「ホワット!? さらに敵が現れただと!?」
「いいえ、とんでもない。あっしは一人ですよ。敵はあちらです」
「曹休様! 本陣の背後に伏兵の蒋欽が現れました!
早く逃げないと包囲されつつあります!」
「わ、わかりました。みなさん、至急エスケープしなさい!」
「おや、これは懐かしいお顔だ」
「……呂蒙か。孫権軍を率いているのはお前なのか?」
「さあ、ご想像にお任せしますよ」
「……士、三日会わざればなんとやら、だな。
次はこうは行かない。退却するぞ!」
「おーっと。退却なんてさせねーけど?」
「待った待った。……あそこをご覧なさい。
敵の伏兵がいますよ。華歆さんは無防備に出てきたりしません。
追撃したらあっしらをはめるおつもりだ」
「チッ。マジで伏兵がいやがんな。じゃあどうすんよ呂蒙?」
「敵は逃げながらも反撃の態勢を整えつあります。
韓当さんらもぼちぼち危険でしょう。
戦果は十分だから、あっしらも引き上げるのが上策です」
「……呂蒙の読みは当たりまくってもんな。わかったよ。帰るとすっか」
「ちょうど帰り道になりますから、
ついでに韓当さんらがぶつかってる
于禁軍の中を通っていきましょうか」
「ははっ。なんつーか、呂蒙。
アンタ、頭は良くなったけど中身はあんま変わってねーのな」
「あっはは。褒め言葉として受け取っておきますよ」
~~~濡須 曹操軍 前衛~~~
「背後から呂蒙に甘寧が攻めてきたって?
そろそろおれっちもやばくなってきたかな……」
「敵は焦りの色が見えるぞ! 一気に突き崩せ!」
「へへっ。まだまだ御老体には負けませんよっと!」
「引っ込め韓当! この若僧はワシが倒す!」
「死にぞこないはどいてろ! 俺がやってやる!」
「ち、ちょい待てよ! さ、三人がかりは卑怯だろダンナ方!」
「知るか! こいつらは無視して俺とだけ戦えばいいだろ!」
「邪魔だ韓当周泰! お前らは寝てろ!」
「俺の刃の巻き添えになっても知らんぞ老いぼれども!」
「じ、冗談じゃねえよ!」
「……于禁。楽しそうですね、はい」
「り、李典か! ちょうどいいとこに来た。手を貸せ!」
「貸しません。
向こうに船を着けましたからそこまで逃げましょう、はい」
「了解! おれっちもこんな連中は相手にしてらんねえよ!」
「がっはっはっ! どうやって逃げる気だ愚か者め!
貴様らの船はこの徐盛が乗っ取ってやったわ!」
「徐盛!?
てめえ、敵のまっただ中に漂着して死んだんじゃなかったのか?」
「ワシがあの程度で死ぬものか!
助けが来ないから暇つぶしに付近の雑魚どもを蹴散らしてたら、
おあつらえ向きに船が捨ててあったんじゃ!」
「むちゃくちゃだこいつら……」
「呆れてる暇はないですよ、はい。
困りました。別の逃げ道を探しましょう」
「生きてるか于禁! 李典!」
「張遼のダンナ! 逃げてなかったんですかい」
「兵は徐晃と臧覇に任せて、
オレの手勢だけで戻ってきてやったんだよ。
曹操の旦那も反撃に移っている。もう少し持ちこたえろ!」
「こしゃくな! 一人や二人増えたところで問題ないわ!」
「曹操の本隊は一人や二人じゃありませんよ。
早いとこあっしらのほうが逃げましょう」
「呂蒙! なぜ敵の背後を襲っていたお前がここにいる?」
「韓当さんらが無茶しないよう、
ちょいと敵中を突破して止めに来ました」
「……単身でか? お前のほうがよっぽど無茶ではないか!」
「安心したぞ呂蒙。お前はなんにも変わってない」
「あっはは。まあ固いことは言いっこなしで。
それよりほら、急いで逃げますよ」
「面白そうなヤツが出てきやがったな!
待て! オレと勝負しろ!」
「それはまたの機会にお願いします」
「呂蒙! 韓当!
こっちだこっちだ! ワシの奪った船に来い!」
「こいつは助かります。
――徐盛さん、まさか右腕が……」
「がっはっはっ。片腕を持っていかれたわ!
なあに、かすり傷だ。つばでもつけとけば治るわい」
「……みなさんにはかないませんよ」
「逃がすかてめーら!」
「じきに甘寧さんと凌統も駆けつけます。
さあ、もうひと踏ん張りですよ!」
~~~濡須 孫権軍~~~
「……そうか、董襲は最期まで隊列を守って、
船とともに沈んじまったか」
「私だけは運良く岸に流れ着くことができました。
おめおめと逃げ帰って申し訳ありません……」
「いや、責任を問われるべきは策を立てたあっしです」
「その論でいきゃあ、
最終的に悪ィのは主君のオレになっちまうわな」
「……そいつは困ります」
「オレも困る。なあ呂蒙。
この戦に勝てたのはおめェのおかげだ。
おめェがいなけりゃ、勝手に突っ走ってた韓当や甘寧も
生きては帰れなかったろうよ。
しかも天候が味方したとはいえ、
曹操の水軍にも大打撃を与えて追い返しちまった。
これ以上、何を望むってんだ?」
「……しかし、策を立てたのが周瑜さんだったら、
もっと味方に被害を出さずに、もっと楽に勝っていたでしょう」
「おめェは周瑜じゃねェだろうが。
鏡でも見てこいよ。周瑜と比べたらたいした色男じゃねェぞ。
おめェはおめェにできることをやった。オレらはそれに満足してる。
――なあ、そうだろてめェら?」
「俺は認めるぞ! 呂蒙は俺たちの軍師だ!」
「ああ、ワシらとともに戦う軍師だ!」
「オレは難しいことはよくわかんねーけど、
オレの部下がみんな無事だったのは呂蒙のおかげっしょ」
「みなさん方……」
「つーこった。呂蒙、今後もよろしく頼むぜ」
「…………はッ!」
「それにしても成長したものッスね。ガチで驚きました」
「おう、周瑜や張紘は死んじまったが、
オレらにゃあ魯粛や呂蒙がいる。なんも心配してねェよ」
(……いや。俺が驚いたのは孫権さん、あなたの成長ぶりッスよ。
あなたこそ、俺らがガチで誇れる主君ッス……)
~~~濡須 曹操軍~~~
「呂蒙の成長ぶり、
あの荒天の中でも抜群の働きを見せた孫権の水軍。
全て私の認識不足でした」
「いや、君の責任じゃないよ。
僕だってあんな嵐の中でも戦えるとまでは想像できなかった。
水軍だけじゃない。陸戦の指揮も見事なものだった。
呂蒙君か。江東にはまだまだ隠れた人材がいるようだね」
「だがこれでまた水軍の編成は振り出しに戻った。
沈められた船も十や二十ではきかないぞ」
「やはり江東を攻めるには、いや、
孫権と戦うにはまだまだ準備が足りませんでしたね」
「だがこの戦いの最大の目的は二つとも果たせた。
それに満足するとしよう」
「二つ? 馬超を誘い出したことと……もう一つはなんですかな?」
「孫権君の顔を見られたじゃないか。
無名の呂蒙君を抜擢した眼力。
董襲君に死をもいとわせなかった人望。
あれだけの個性的な面々をまとめる統率。
すべて戦でしか見られない、孫権君の顔さ」
「……たしかに。孫権こそ、江東で最も頭角を現した男でしょう」
「こんなことを言ったら曹丕君たちに悪いから内緒だけど、
孫権君のような息子がいたら、さぞかし頼もしいだろうね……」
~~~~~~~~~
かくして濡須の戦いは呂蒙の果敢な戦術により孫権の勝利に終わった。
――舞台は移り、益州の地。
長き雌伏の時を経て、ついに劉備は夢の第一歩に挑もうとしていた。
次回 〇六三 益州奪取




