〇六〇 空の器
~~~益州 成都~~~
「曹操は関中十部の諸侯を一掃し、関中を完全に掌握しました。
命からがら逃げ出した韓遂にも追撃をかけています」
「馬超は共同戦線を張っていた
漢中の張魯を頼ったき。
曹操は漢中に攻め込む機会をうかがっちゅう。
漢中を落としたら、次はこの益州ぜよ」
「漢中を落としたお祝いに曹操ちゃんが遊びに来てくれるんだね!
わーい! 楽しみー!」
「そんなわけがなかろう!
漢中の次は益州に侵略してくると言っておるんじゃ!」
「曹操は赤壁の戦いに敗れ、
多くの水軍を失った痛手からまだ立ち直っていません。
陸路で攻められる益州を落とし、
劉備、孫権を北と西から包囲するつもりでしょう」
「あ、あのとっても強い曹操ちゃんが攻めてくるの?
こ、怖いよー……」
「益州は天然の要害で兵も多いき、
そんじょそこらの連中にゃ負けやせん。
けんど相手は百戦錬磨の曹操じゃ。
益州の兵も将も戦いの経験はほとんど無いき、
もし戦ったら勝ち目はないぜよ」
「ぼ、ぼくたち死んじゃうの? そんなの嫌だよー……」
「そんなことにはさせません! 私どもに考えがあります。
曹操に対抗するため……劉備殿を招くのです」
「劉備ちゃんって……ぼくの親戚だけど
曹操ちゃんに負け続けてるおじちゃん?」
「いいえ、赤壁の戦い以来、劉備殿は力を付けています。
荊州南部の四郡を手に入れ、諸葛亮や龐統ら多くの人材も集め、
今では曹操と戦える実力を持っています。
彼を益州に招き、曹操と戦うのです!」
「待て。劉備を招くだと? なんという愚かな考えだ。
あの男は義人などという評判とは真逆の、野心にあふれた食わせ物だ!
奴を迎え入れれば、虎を庭に放つのと同じことだ!」
「おまんは曹操のもとで劉備殿と戦ってきたき、
色眼鏡で物を見ちょる。劉備殿はそんな方じゃないぜよ」
「そのとおり。劉備殿ならば曹操から我々を守ってくれます。
殿、お許しいただければ私がすぐにでも
劉備殿に援軍を乞うてきます」
「そう話を急ぐな。劉備は本当に信用できるのか?
我々の懐深くに招き入れて、
もし間違いが起きたらなんとするのじゃ」
「呼んだら劉備ちゃんが遊びに来てくれるの?
わーい呼ぶ呼ぶー!」
「………………」
~~~荊州~~~
「曹さんから守ってくれと劉璋さんが頼ってきとるじゃと?
益州まで行くのはめんどいのう。断っといてくれ」
「そいつはいけませんなぁ。
これは見逃す手のない絶好の機会でさぁ。
断るってのは無しでお願いしやすぜ」
「龐さんにはなんか考えがあるようじゃな。
ほんなら張さん、関さんに行ってもらおうか」
「馬鹿め。劉璋は貴様の虚名をあてにして助けを求めているのだ。
貴様が自ら行かずにしてなんとする。この依頼、受けろ」
「ええー? わしが?
益州くんだりまで? わざわざ? 人助けに?」
「世間的にはいちおう義の人で通ってる御仁の言葉とは思えんな」
「この遠征は貴様にとっていい機会だ。
余はもちろん張飛、関羽、趙雲は置いていけ。
新戦力を鍛えるとともに、貴様には自立心を養ってもらう」
「ち、ちょっと待て亮さん!
張さん関さん龍さん亮さん抜きじゃ……と……?」
「そんなら、やつがれがついて行きやすよ。
諸葛亮と比べたらちぃとばかし頼りねえですがね」
「べ、別に殿が心配なわけではないが、儂もついて行くぞ!」
「ギヱンの新武装を実戦で試したい。我々も同行しよう」
「ほらほら、ちょっと前とは違って戦力もそろってるじゃないの。
アタイらがいなくても大丈夫よ」
「わ、わしが曹さんと戦っとる間、
亮さんたちはなにをしとるんじゃ?
わし抜きで遊んどるのか?」
「つくづく話の通じない男だ。まず戦う相手から訂正してやろう。
貴様が戦うのは曹操ではない。劉璋だ」
「へ? だって、劉璋さんを助けに行くんじゃろ?」
「諸葛亮はね、これを機に益州を乗っ取れって言ってんのよ。
せっかく劉璋がアタイらの軍を招き入れてくれるのよ。
大助かりじゃないの」
「益州を獲り、曹操、孫権と鼎立する
天下三分の計……ってヤツでさぁ」
「おお! 亮さんがはじめに言ってたヤツじゃな!
……でも、劉璋さんはわしを頼ってきてくれたのに、
騙し討ちするようで気が進まんのう。
ほら、わしっていちおう義の人ってことで通っとるし」
「面倒くさいという理由で援軍を渋ってた御仁の言葉とは思えんな」
「たしかに義人という虚名は、
無能の貴様にとって大きな武器であった。
だが今の貴様に必要なのは、虚名よりも実利だ。
益州を獲り、曹操に対抗しうる本当の力を手に入れよ」
「むう…………」
「貴様の軍を囮にして、余は張飛、趙雲を引き連れ
南から益州に攻め込む。益州の首都・成都で落ち合うとしよう」
「そのためにはまず、劉璋の信頼を得て、隙を作らにゃいけやせん。
そのあたりの機微はやつがれが引き受けやしょう」
「劉璋のもとから来た使者――張松と法正と言ったか。
彼奴らは冷遇されていて、
劉備を新たな益州の主として迎え入れたいそうだ。
劉璋に曹操に対抗する力はなく、益州が蹂躙される前に
主をすげ替えたいと考えている者は他にも多い。
主の劉璋自ら庭を開放し、家の中には協力者もいる。
余が出るまでもない楽な戦だな」
「だから諸葛亮じゃなくやつがれでも務まると?
ははは、そこまでコケにされちゃあ、少しはやる気が出ますや」
「ところでこの荊州は誰が守るのよ。
遠征軍に名前が出てなかったから、関羽かしら?」
「………………」
「荊州の留守はこの関羽が引き受けた。安心して参られよ!
――と父は言いたそうです」
「孫権とは同盟を結び、曹操は遠征軍を率いて関中にいる。
当面はこの荊州が攻められることはないだろうが、
益州の平定後も引き続き関羽に任せるには不安が残る。
このものぐさ男は無口すぎて交渉も満足にできぬからな。
そこで腹心をつけてやる。余の知人の馬良だ」
「…………………どくせ」
「え?」
「…………めんどくせ('A`)」
「じ、自己紹介とは思えない言葉が聞こえたのは気のせいッスか?」
「馬良は真性の面倒くさがりです。
面倒くさがるためには命も惜しまないです」
「ははは。それはいろいろと間違っている気がしますな」
「………………」
「………………」
「あ、握手を交わしましたよ。
面倒くさがり同士でなにか通じるものがあったのでしょうか」
「でも、この男にも交渉役は務まらん気がするのだが?」
「心配無用だ。関羽と違い馬良は、
面倒事を避けるためには全力で職務に励む。
交渉は彼奴に任せよ」
「……アンタの友達にはこんなのしかいないのかしら?」
「無駄口を叩いている暇があったらさっさと遠征軍の編成を進めろ。
遅れれば関中を制圧した曹操も益州の攻略に乗り出す。
その前に決着をつけねばならん」
~~~益州~~~
「ようこそいらした。
劉備殿の護衛と案内役を務める楊懐と高沛という者だ」
「御用があればなんなりとお命じくだされ」
「劉璋がお待ちかねです。
長旅の疲れを癒すためにささやかな宴席を用意しています」
「おお、益州の名物は何かのう? 楽しみじゃな!」
「やつがれと法正殿は遠征軍の配備について相談していやす。
ごゆっくりどうぞ」
「悪いのう。そんなら行こうか簡ちゃん、孫さん、黄さん」
「「「はッ」」」
「……さて、法の字。今後の方策について話しやしょうか」
「おう。おまんらの軍は涪城に布陣してもらうことになるき。
漢中の張魯にも、曹操にもにらみを利かせられる要害ぜよ」
「張魯は落ち延びてきた馬超を使って、
曹操に攻撃を仕掛けてると聞いてまさぁ。
しかし当面は大規模な戦いには発展しそうもないようだ」
「張魯と曹操の間の均衡が崩れるまでは、
おまんらの出番はないじゃろう。
――けんど、均衡が崩れる前に蹴りをつけにゃいかんぜよ」
「張魯や曹操が介入する前に益州を乗っ取らないといけやせんな」
「……ワシはこの宴席で劉璋をたたっ斬れば話が早いと思ってたが」
「はは。それはちぃとばかし急ぎすぎでやしょう。
たしかに劉の字は義の人という看板を下ろして
益州を乗っ取るつもりだが、
宴席で主人をたたっ斬ったお方にゃ、誰もついてこないでしょうや」
「はっはっはっ。言われてみりゃそらそうだ」
「のんびりする気はありやせんが、
数年がかりで事を進めるつもりでさぁ。
まずは法の字や張松さんのような、
味方になってくれるお人を徐々に増やしやしょう……」
~~~関中~~~
「ふむ。劉備君が僕らの侵攻に備えて益州に入ったと」
「はい。もっとも劉備の本当の狙いは益州を守ることではなく、
乗っ取ることにあるでしょう」
「全くいまいましいことじゃて!
漢中の張魯が邪魔で攻め込めない間に、
益州を劉備めにかすめ取られるのを、
指をくわえて見ているしかないとはな!」
「いっそのこと電撃作戦で張魯を平らげ、
劉備より先に益州に攻め込むか?
そうしたら劉備は我々と戦うのか、
それとも一緒になって劉璋を攻めるのか見ものだぞ」
「冗談はやめなされ。張魯のもとに逃げた馬超の攻勢によって
押し込まれているのは小生らのほうだ。
制圧したばかりの関中の情勢が定まらぬ隙をつき、
馬超は熟知した地理を利用して効果的に攻めてきおる」
「そもそも漢中は険阻な土地で、容易に落とせるものでもない。
……どうやら引き際のようだね」
「ひ、引き際というともしや……」
「関中十部を平らげ、制圧は成った。遠征の戦果は十分だ。
長らく都を留守にしてしまったし、そろそろ帰るとしよう」
「待たれよ!
関中十部は壊滅的な打撃を受けたとはいえ、馬超は生きている。
馬超は生きている限り、我々の、
いや丞相の首を狙ってくるに違いない!」
「しかし馬超君の敵は僕だけだが、僕の敵は馬超君だけじゃない。
東からは孫権君が不穏な動きを見せていると急報が来ているし、
都でも反乱が相次いでいる。
いつまでもここにはいられないんだ」
「……お言葉じゃが、ワシも楊阜と同じ懸念を持っておる。
ワシらは身をもって馬超の恐ろしさ、しつこさを知っておるからな」
「韓遂君を討つまでは夏侯淵君や曹洪君は残しておくし、
十分な備えはする。いずれは張魯君も討たなければいけないし、
必ずすぐに戻ってくるよ。それで勘弁してくれないか」
「勘弁などと……丞相にそこまで言われては帰す言葉もござらぬ。
しからば長安の守りはこのワシと楊阜に任せていただこう!」
「もちろんそのつもりさ。
涼州刺史の韋康君とも
協力して事に当たってくれたまえ」
「はい。鍾繇殿と連携を密にいたします」
「それじゃあ少し気が早いけど、みんなご苦労だったね。
荀彧君も待ちくたびれてるだろうし、都に帰ったら、
次の戦いに備えて英気を養うとしようか……」
~~~許昌の都~~~
「こたびの遠征も大成功! 丞相は間もなく凱旋してくるそうだ!
いやはや、どうにか無事に都を守ることができたましたな!」
「あはは。少し気が早いですよ王朗殿。
遠征軍はまだ戻ってきていません。
殿の顔を見るまでは安心できませんよ」
「それはそうだが……荀彧殿もようやく気が楽になるだろう。
今回、私は初めて留守居役をやってつくづく思い知ったぞ。
荀彧殿はいつもこんな大変な思いをしていたのか!」
「そんなことはありません。
いろいろと王朗殿にも助けていただきましたし、
殿に比べたら、私にできることなどたかが知れたものですから」
「そう肩肘を張りなさるな。
せっかく丞相が我々へのねぎらいにと、
関中の酒を贈って下さったのだぞ。
ささ、王必殿も一杯飲みなされ」
「言われずともお。もうたあくさんいただいてます。ヒック」
「あはは。お二人はごゆっくりなさってください。
私は少し夜風に当たってきます」
~~~許昌の都 外~~~
「殿……。私は酒などいりませんよ。
荀彧ご苦労だったなと、一声かけてくだされば十分なのです。
私はただそのためだけに、働いているようなものなのですから……」
「ここにいらっしゃいましたか、荀彧様」
「……魏諷か。悪いが、今はお前の顔を見たくない。
下がっていてくれないか」
「そうつれないことを言われますな。
せっかく、丞相からの贈り物を預かってきましたのに」
「殿から? なぜお前がそれを持っている」
「さあ。使いの者が間違えたのでしょう。
とにかくお渡ししましたよ。それでは失礼します」
「…………。
まあいい、殿はわざわざ何を贈って下さったのだ。
そんな気を遣われずとも、私は――。
空の……器?」
(つまり、あなたは丞相の信頼を失ったのですよ)
(都を任されたといえば聞こえはいいですが、
あなたは丞相に利用されているだけなのでは?
儒者との争いが面倒で、あなたを生贄がわりに
差し出しただけではないですか?)
(私はあなたの身の上を案じているだけです。
あなたほどの俊英が使い捨てられないかと、ただ心配で――)
(――荀彧君、もう君の力は必要ないのだよ)
「…………あはは。
疲れているのだな、私は。
疲れているから、そんな馬鹿なことを……」
「おーい飲んでるか荀彧! どうしたそんなところで」
「こ、これは殿下……」
「おいおい、酔ってるのか? 足元に杯が砕けて散らばってるぞ。
危ないから動くな。誰かを呼んで片付けさせてやる」
「いえ、大丈夫です。
――それより、すこしお顔を見せてくれませんか」
「僕の顔を? やっぱり酔ってるだろお前」
「このところ、ますます殿に、御父上に似てこられましたな。
こたびの遠征にも同行され、本当に立派になられた」
「よせよ。僕は遠征軍に兵糧を届けただけだ。
それも長安までだぞ。
都から長安まで行って帰っただけを従軍なんて言うものか!」
「あはは。それでも都を一歩出れば常に危険は付きまといます。
御父上も誇らしく思われているでしょう」
「お前は酔うとおべんちゃらを言うたちなのか?
僕なんて曹丕兄さんや曹彰兄さんと比べたら、
ぜーんぜん父上の役に立ってない。
兵糧を届けたくらいじゃ、父上だって褒めてくれやしないよ。
文学仲間の陳琳でさえ、見聞を広めたいと
無理言って従軍してるのに、僕は――」
(曹植殿下や学者の陳琳でさえ、殿に必要とされて従軍した。
それなのに私は……。
今回に限って王朗殿を都に残されたのは、
私には留守番も荷が重いと考えられたからではないのか?)
「それはそうと荀彧も詩作をやってみないか?
お前くらい頭が良かったら、
そっち方面でも力を発揮しそうだと思うんだ――」
(曹植殿下にはお褒めの言葉一つ掛けなかった殿は、
どうして私には空の器を贈られたのだ?
王朗殿らには、私が飲めない酒を贈られておきながら、
どうしてわざわざ……)
「そうそう、陳琳のヤツが手紙を送ってきたんだよ。
なんでも関中の花は――。お、おい。荀彧? 荀彧、どうしたんだ」
「………………」
「まずい、顔が真っ白だ。誰か! 誰か来てくれ!」
~~~関中~~~
「どうだい陳琳君、危険を冒して従軍した甲斐はあったかな?」
「私は後方に控えて安全圏にいましたが、
それでも馬超に追い回されて肝を冷やしました。
おかげさまでいい経験になりましたよ」
「曹植君に送る前に手紙を見せてもらったけど、
その経験が何気ない筆致にも活かされていたね。
あれを読んだら曹植君も、自分も従軍したかったと悔しがるだろう」
「ありがとうございます。
ところで丞相も荀彧様に杯を贈られていましたな。
しかし、荀彧様はたしか酒をたしなまれないのでは?」
「もちろん知ってるよ。この遠征の間、
僕もいい年だから節制して飲酒はしなかったんだ。
だから都に帰ったら久しぶりの酒を、
荀彧君とゆっくり飲もうと思ってね。
下戸と一緒に飲めば、そんなに深酒しなくて済むだろう?」
「それで酒とは別に、荀彧にだけ杯を贈られたのですな」
「関中の名物の青磁器だったな。あれはいい物だ!」
「そろそろ鄴に新しい都もできるし、
銅雀台の完成も間近だ。
妻たちや荀彧君にも会えるし、酒も飲める。
都に着くのが待ち遠しいよ……」
~~~~~~~~~
かくして劉備はその野心を胸に秘めたまま益州へ入った。
一方、都では稀代の俊英が誤解を抱えたまま生涯を閉じ、曹操は悲嘆に暮れた。
その頃、あの男が復讐を誓い蠢動を始めていた。
次回 〇六一 関中の女たち




