〇五四 孫家の女
~~~許昌の都~~~
「あはは。劉備と孫権の妹が結婚とは参りましたね。
両軍が結束したらますます厄介なことになりそうだ」
「フン。そんなことにはなりそうもないという口振りじゃな」
「あはは。引退したとはいえ程昱殿の慧眼は衰えませんね。
見抜かれちゃいましたか。
――孫権、いや片腕の周瑜は若さに似合わず老獪な男です。
ただの政略結婚ではなく、劉備を陥れる計略が裏に潜んでいるでしょう」
「あわよくば共倒れになってくれればいいんじゃがな。
そうすれば楽に中原統一にこぎ着けられる」
「おやおや、これは程昱殿とは思えない穏便な意見ですね。
引退して丸くなってしまわれたんですか?」
「フン。現役ならいざ知らず、一線を退いたら後進の者には
楽をしてもらいたいと思うのは当然じゃろう。
だいたい年寄り扱いするでないわ。
ワシは頭脳が衰えたから引退したわけじゃないぞ」
「……やはり、孔融殿の処刑が引退の理由ですか」
「フン。理由の一つではあるな。ワシはこの通り口の減らない男じゃ。
殿に余計な口を叩いて、孔融のような舌禍を招かんとも限らんわい」
「殿はそのような方ではありません!
あれは孔融殿が、亡くなった曹沖様を
ないがしろにするようなことを言ったからで――」
「孔融はあのとおりの男じゃったが、
あくまでも儒学者としての意見を述べただけじゃ。
それで処刑はやり過ぎだろうて」
「……私も殿に再考を求めました。
しかし、こと賞罰にかけては
いったん命じたことを引き下げることはできないと――」
「いや、お前や殿を責めているわけではない。
処刑されずとも、遅かれ早かれ孔融は身を滅ぼしていたじゃろうよ。
ワシもそろそろ引退しようと思っておったんじゃ。
いい機会だったというだけじゃ」
「………………」
「それよりお前の身のほうが心配じゃ。
殿と儒学者どもの間で板挟みになってるんじゃろ?
顔色が優れんぞ。ろくに寝ておらんのじゃろう」
「あはは。心配はいりませんよ。
今は殿も都に留まってくれていますし、
私の仕事は格段に減っています。
程昱殿こそ、引退して気が抜けて、
ぽっくり逝ってしまわぬように用心してください」
「フン。憎まれ口を叩きおって……」
~~~会稽 劉備軍~~~
「劉備先輩にも困ったッス。
尚香先輩に夢中で、すっかりメロメロになってるッス。
荊州に帰る気がなくなったんスかね?」
「その可能性はおおいにあるな。
劉ちゃんはあのとおりのんきな性格だから、
毎日遊んで暮らせればいいと思っておる」
「しかしいつまでもここに逗留しているわけにはいきません。
曹操も今は鳴りを潜めていますが、いつ動き出すことか……」
「でも明日も明後日もずーっと先まで、
孫権先輩の重臣たちとの宴会の予定が入ってるッス。
それを勝手に取り消したら劉備先輩、激怒するんスよね……」
「へそを曲げられたら、ますます帰る気をなくすぞ。
諸葛亮の言ってたとおり、そろそろバッサリ斬っちまうか?」
「お、お待ちください。
軍師はたしか、このような時に備え、
御友人を頼るように言っていました」
「ウスッ。その友人に連絡を取りましたッス。
そろそろ来てくれるはずなんスけど――」
「えーと。やつがれを呼び出したのはあんたさんらかい?」
「おっ。ひょっとしてアンタが諸葛亮先輩の友人の」
「おお、やっぱりそうかい。
やつがれは龐統ってもんだ。よろしくやってくだせぇ」
「龐統!?
そ、その名はたしか軍師の異名である伏龍と並び称される――」
「ああ、鳳雛かい?
いかにもやつがれの異名でさぁ。
もっとも、あの薄気味悪い諸葛亮の奴と
いっしょくたにされるなんて、いい迷惑ですがね」
「諸葛亮先輩の友人ではないんスか?
あ、サーセン。自分は趙雲っていう者ッス」
「雲の字かい。そっちは簡の字と孫の字と。
気が向いたら覚えときまさぁ。
で、誰が誰の友人だって?
よせやい、諸葛亮に友人なんているわけねえでしょうよ。
ああ、馬良とかって変人がいたな。
あれは変人同士で気が合ってるだけでさぁ。
やつがれは違いやすよ」
「馬良といえば白眉の異名で知られる荊州一の名士です。
軍師は馬良とも知己だったのですか……」
「あんたと諸葛亮の関係はおいといて、知恵を貸してくれるんだろ?
これこれこういうわけで、うちらは困ってるんだ。どうにかしてくれ」
「ふーん。劉備の家臣でもないやつがれに、劉備をどうにかしろと?
諸葛亮の奴はあいかわらず無理難題を押し付けるねぇ」
「諸葛亮は困ったらあんたを頼れと丸投げしとった。
そういえばあんたのことを荊州一いい男だとも言っとったぞ」
「けっ。この通りの面相のやつがれに、ただの皮肉でさぁ。
都合のいい時だけ持ち上げやがって」
「龐統さん、お久しぶりです」
「し、諸葛均殿? いつの間においでなさったのですか?」
「兄はそろそろみなさんが困られて、
龐統さんを頼る頃合いだと思い、
私に手助けに行くように命じたのです」
「諸葛亮はとうとう千里眼まで身につけたんかい?
どんどん化け物じみてくるなあいつ……。
ともかく扇動の名手の均の字が来たなら、やることは決まったかな。
それじゃあみなさんらにも手伝ってもらいやすぜ。
なーに。難しいことじゃありやせん。
ちょいと一芝居打ってもらうだけでさぁ……」
~~~会稽 軍議場~~~
「曹操が荊州と合肥方面から南下を開始しただと?」
「はい。赤壁の敗戦の雪辱を晴らすため、
数十万の軍勢を動かしたそうです」
「荊州は劉備のヤローに任せるとして、問題は合肥だな。
合肥のすぐ南、濡須の防備はどうなってる?」
「徐州攻めに失敗した呂範さんと、
太史慈が守ってるッス」
「周泰と董襲、
それに蒋欽を援軍に向かわせろ。
場合によっちゃあオレも出るぜ」
「フッ。それには及ばない」
「あぁん? 戦下手のオレじゃ足手まといだって言いてェのか?」
「そういう意味ではない。
曹操の南下は、まやかしだと言っているのだ」
「まやかし?」
「私が集めた情報によると、
曹操の目は南よりもむしろ西に向いている。
彼らはいまだ赤壁の敗戦で受けた痛手から立ち直ってはおらず、
水軍の整備も進んでいない。
あの曹操がそんな不完全な陣容のまま、南下を企てるだろうか?」
「前置きはいいから結論だけ言えや」
「曹操の南下は、諸葛亮が流した偽情報だ。
これは曹操に備えるためという名目で、
劉備を荊州へ帰すための策だ」
「しかし、実際に合肥から多くの民が
戦乱を避けて濡須へと避難していますよ。
これは戦の兆候ではありませんか?」
「合肥の守将だった劉馥が没し、
代わって入った張遼は、強引な統治を進めていると聞く。
圧政を嫌った民を諸葛亮が扇動したのだろう。
長坂の戦いの際にも、諸葛亮は民を意のままに操り、
曹操に対する盾とした。扇動はお手のものだ」
「はっはっはっ。弟はずいぶんと暗躍しているようですね」
「諸葛センセーは、劉備一人を取り戻すために、
そんな大掛かりな策を講じてるってのか?
にわかには信じらんねェ話だな」
「劉備らが荊州刺史として担ぎ上げている劉琦が、
重病で危篤に陥っているという情報もつかんでいる。
劉琦を失えば、劉備らが荊州を占領している大義名分も薄れてしまう。
一刻も早く劉備を奪回したいのだろう」
「ふーん。オレの知らねェ情報をそうバンバン出されちゃあ、
ぐうの音も出ねェな。
だがどうするよ? 劉備を骨抜きにして、
あわよくば吸収合併しちまうって策は諦めんのか?」
「劉備を孫権さんの一族に迎え入れ、
軍勢を丸ごといただいちゃうってのが最善でしたが、
諸葛亮さんが動き出したらそうはいかないッスね。
いっそのことバッサリ行っちゃいましょうか?
あ、尚香さんがいるからダメか」
「いや、尚香も孫家に生まれたからにゃあ、
いつでも家のために死ぬ覚悟はできてんだろうよ。
いざとなったら遠慮はすんな。バッサリ行っちまえ」
「そう話を急ぐな。必ずしも殺す必要はない。
劉備は我々の手の内にあるのだ。
要は劉備を江東から出さずに――。
なんだこの声は。外が騒がしいぞ。何かあったのか」
「い、一大事です! こ、この軍議場が包囲されています!」
「包囲だと!? さては劉備のヤローだな!
先手を打ってくるたァいい度胸だ。
だが包囲されるまで駐屯軍は何をしてやがったんだ!?」
「そ、それが――」
「おいバカ兄貴!」
「なっ!?」
「聞いてんのかよバカ兄貴!
てめェ、おれの旦那に手ェ出そうたァいい度胸じゃねェか」
「も、もしや包囲軍を率いているのは……」
「おれだよ! この軍議場はおれたち劉備軍が包囲した!」
「劉備軍ってことはあ、劉備さんもそこにいるんスかあ?」
「へっ。敵に答えてやる義理はねェな」
「……尚香、てめェも孫家の女なら、
家のために死ぬ覚悟はできてるはずだ。
おとなしく劉備をオレたちに引き渡しな。
さもねェと躊躇なく殺すぜ。
嫁いで十日と経ってねェ相手にどこまで義理立てする気だ?」
「十日だろうと三日だろうと関係ありません」
「あ、義姉上までいんのか!?」
「私も嫁いで一年と経たずに孫策様に先立たれました。
ですがこの想いは今も、これから先も孫策様とともにあります。
夫婦とはそういうものです」
「あー。その、なんだ。オレはいま尚香と話してんだ。
わりィが義姉上は、ちょっと下がっててくんねェかな」
「いいえ、下がりません」
「し、小喬……」
「孫権様、あなたの立場もわかりますが、尚香の気持ちも考えずに、
夫婦の仲を裂こうなどという考えには賛同できません」
「……さすがに二喬様は討てないッスよね」
「兄貴はさっき、孫家の女なら死ぬ覚悟があるかと言ったな。
あるに決まってんだろ!
孫家の女は、旦那のためなら兄貴と一戦する覚悟は
いつでもできてらァ!」
「くっ……。
まさか尚香がここまで劉備のヤローに惚れ込んでるとはよォ」
「どうしたバカ兄貴!
おれが邪魔なら正々堂々と一騎打ちしようじゃねェか!
弓腰姫とうたわれた、
おれの弓の腕を恐れねェなら出てこいや!」
「………………」
「待て孫権殿。ここで尚香殿を討ってなんになる?
小喬は夫として私が討つとしても、大喬殿まで手にかけるのか?」
「………………チッ」
「それに劉備の姿が見えないのが気にかかる。
おそらく劉備はすでに、この都から脱出しているに違いない。
劉備の後を追うのが先決だ」
「……あいつらは劉備が逃げるまでの時間稼ぎをしてるってことか」
「外の諸葛亮の陽動に気を取られて、
内の動きに気づかなかった私の失策だ……」
「権や。あなたの負けですよ」
「お、オフクロ!」
「あなた方が尚香たちと戦うなら、私も敵に回ります。
孫家の女の怖さは、よく知っているでしょう?」
「フッ。ご母堂まで出てきてはかなわないな」
「確かに権や尚香をたきつけたのは私ですが、
娘の結婚を政治利用するのは感心しませんね。
それに……私も婿殿を、劉備殿を気に入りました」
「へ?」
「なんですかその顔は。
母と娘の男の好みが同じでも不思議はないでしょう?」
「オフクロ! 危ねェから早くそこを離れろ!
おれの矢でとばっちり食らっても知らねェぞ!」
「私は構いませんから、よく狙いなさい。
旦那さんの敵を、しっかりとね」
「……そういやあ孫策の兄貴が言ってたっけな。
尚香はオレたち兄弟の中で一番、オヤジに似てるってよォ。
けっ。見てみろよ弓ィ構えたあの男勝りの勇姿を。
ガキんときに見た、オヤジそっくりじゃねェか……」
~~~会稽 西~~~
「やつがれの策なんて、ぜーんぶ無駄になっちまいやしたね」
「たしかに尚香様のおかげで脱出できたようなものですが、
しかし尚香様に全て打ち明けて協力を仰ごうと考えたのは、
龐統様ではありませんか」
「別にいばることじゃありやせんよ。
やつがれは江東に長いこと住んでて、
あんたさんらよりも、尚香さんの気性を知ってただけのことでさぁ」
「それにしてもやっこさんには驚かされたな。
まさか自分が孫権の城を攻めるから、その隙に逃げろと来るとは。
まったくたいした女だ」
「お言葉に甘えて出てきちゃったッスけど、
尚香先輩は大丈夫ッスかね」
「なーに心配はいりやせんよ。
孫権の二人の義姉までついてってんだ。
孫権もあの二人にまで手を上げることはないでしょうよ」
「むしろ問題は……」
「ぐおー。ぐおー」
「……目が覚めたら劉備先輩、激怒するでしょうね」
「尚香に勧められるままに浴びるように飲んどったからな。
まあ、江東を脱出するまでは起きやせんよ。
起きても当分は二日酔いだ。どうとでもごまかせる」
「それにしてもいい女でしたなあ。
旦那のために命まで張る、あんないい女を
置いてかなくちゃならんとは、実に惜しい」
「でも、尚香先輩は劉備先輩の
どこにあんなに惚れ込んだんッスかね?
言っちゃ悪いけど劉備先輩ってどこからどう見ても駄目人間なのに」
「……お前がそれを言うか」
「おっ。諸葛均殿が追いついて来ましたよ」
「まずは首尾よく行きましたね。
孫権は追っ手を差し向けてきましたが、
尚香様の反乱鎮圧に手間取って、だいぶ後手を踏んでいます。
尚香様も無事に孫権と和解したようですよ」
「均の字こそご苦労でさぁ。不発に終わった扇動だったが、
合肥の住民を大勢、江東に移住させたそうで」
「曹操陣営には大打撃だったでしょう。
扇動も無駄ではなかったと思いますよ」
「それじゃあ、孫権の追っ手は自分が引き受けるッス。
お気をつけて、先に行っててください」
「趙雲も気をつけて。
――ところで、龐統様はどうなさるのですか?
我々に同行しているところを見ると、
このまま劉備様に仕えてくださいますか?」
「やつがれがあんたさんらに協力してたことも、
おいおい露見しちまうでしょうからね。
まずいことになる前に、劉備さんにご厄介になろうかと
思ってやすが、構いませんかね」
「こっちは大歓迎だぞ。うちには頭脳派が少ないから助かる」
「そいつはありがてえ。
諸葛亮のヤツにも、手伝わせた報酬をもらわないとな」
「うーん。むにゃむにゃ。えへへ。
尚香さんや、もうちっとこっちゃ来い……」
「……劉備様の置かれた状況を
的確に表す言葉があった気がするのですが」
「知らぬは亭主ばかりなり」
「だな」
~~~~~~~~~
かくして劉備軍は周瑜の罠を脱した。
孫尚香に策を阻まれた周瑜は、見果てぬ夢のため、ついに立ち上がる。
だが彼の背後には死神の影が迫っていた。
次回 〇五五 美周郎の夢
 




