一〇六 秋風五丈原
~~~五丈原 魏 司馬懿軍~~~
「ごらん張春華。諸葛亮様がお前にと着物を贈ってきてくれたよ。綺麗だねえ」
「…………何よこれは」
「え? だ、だから諸葛亮様が着物を、お前宛にと――」
「この着物ブカブカじゃないのよぉぉ。
大きい。大きすぎるわ。ワタシが着たら裾も袖も引きずるじゃないのぉぉ。
着なさいよ。アンタが着てみなさいよぉぉ」
「わ、私が女物を着られるわけが……。おお、ぴったりだ」
「これはどういうこと?
外に女を作るならまだしも外に男を作るなんて……。
それも敵将と浮気するなんてぇぇ。殺してやる。殺してやるわぁぁ」
「お、落ち着かれよ奥方殿。
これは諸葛亮が司馬懿殿を挑発するために着物を贈ってきたのでしょう。
女のように陣に閉じこもっていないで、出撃してこいという――」
「ははは。まさか諸葛亮様がそんな意地の悪いことを考えるわけはないでしょう。
私の妻の体格がわからなくて、着物を適当な大きさに仕立てたのです。
大は小を兼ねると言うではないですか」
「なぜお前はこんな時に限ってポジティブなんだ!」
「ちょっとアンタ……。さっきの発言は女性差別じゃないの?
わざわざ最前線まで夫を激励に来たアタシを侮辱してるのぉぉ」
「あ、あれは言葉の綾で、決して奥方殿を侮辱しているわけでは」
「その奥方って呼び方も差別よぉぉ」
「……やれやれ。激励に来た夫を殺してたら世話ねえな」
「だが奥が……張春華殿だけではなく、本官ら将兵の我慢も限界に来ております」
「蜀軍にいくら挑発されてもガァァオ! 司馬懿殿は防御に徹してウガァァ!
まったく動こうともしないオォォォン! 肉だ! 肉を寄越せ!」
「こ、このまま陣に閉じこもってたら
張春華や孫礼にあちしたち食われちゃうわよ!」
「……確かに」
「つーわけで抜け駆けすっか。
オレに付き合って蜀軍を襲撃してーヤツはいるか?」
「ま、待て申儀。命令違反は処刑と決まっているぞ!
劉曄殿が偵察に出ている隙に勝手な真似は――」
「要は勝てばいいんだよ勝・て・ば。おわかり? 頭の硬いオニイサマ?」
「待ちなさい。出撃は私が許さない」
「んん? 辛毗のジジイじゃねえか。
親子連れで前線まで何の用だ。出撃の勅令でも持ってきたか?」
「お前はあいかわらず口が悪いな。その逆だ。
陛下はお前たちが司馬懿の命令を無視して
勝手に動かないかと懸念され、私を監督として派遣なさったのだ。
私の目の黒いうちは勝手な行動は許さない。
抜け駆けした者は、勝とうが負けようが極刑に処する」
「チッ……(うるせージジイが来やがったぜ)」
「辛憲英、まずは張春華殿を落ち着かせてくれ」
「はい、お父様。
――あら、司馬懿様。素敵なお召し物ですね。張春華様に買われたのですか?」
「いやいや、これは諸葛亮様が、貧乏で気も利かず
服を選ぶセンスもない私を見るに見かねて、わざわざ贈ってくださったのです。
どうですか。妻に似合いそうですか」
「ええ。少し大きいですが、裾上げすれば張春華様にも着られるでしょうね。
よろしければ私がお手伝いします」
「あらそう……?
辛憲英ちゃんは裁縫が得意だったわね。
うふふふふ。針の使い方を教えてもらおうかしら……」
~~~五丈原 蜀 北伐軍~~~
「司馬懿に着物を贈ってやったですが、挑発には乗らなかったです。
というか挑発だと気付かれなかったです」
「フン。楊儀の策などこんなものだ。着物の請求書は楊儀に回しておけ」
「はいです。特上の着物を選んでやったから三ヶ月はタダ働きさせられるです」
「馬鹿は金がかかって大変であるな。
そんなことより今日の案件を寄越せ。次は誰を棒打ちにしてやろうか」
「……御主人様、働き過ぎではないですか。
棒打ち10回以下の刑なんて、わざわざ御主人様が裁定する案件じゃないです」
「その程度の案件も処理できない人材しかおらぬからな。
どうした。余の心配をするなど頭でも打ったか」
「……御主人様も私もアイコンが一つしかないからわかりづらいですが、
もう50を越えてます。無理の利く年齢じゃないです」
「余は全知全能であるぞ」
「全知全能と不老不死は違うです。……御主人様もいつかは死ぬです」
「そのいつかが間近に迫っているとでも?
くだらぬ。妄言を吐く暇があったら司馬懿でも暗殺してこい」
「……それは命令ですか」
「自分で考えろ」
「私は従者です。命令に従うだけです」
「ならば死ね」
「嫌です」
「フン。40年経ってもこの命令だけは聞かぬか。たいした従者だ」
「丞相、夫婦喧嘩中にすんまへんな。魏軍が陣から出てきよったで」
「誰が夫婦だです」
「と言っても攻めてきたわけじゃのうて、
都から前線の激励に来てた司馬懿のカミさんとかを後方まで護衛してくみたいや。
でも魏軍に動きがあったことには違いあらへん。何か仕掛けまっか?」
「馬鹿め。その女どもが入ってきた時は迎えも寄越さなかったのに、
送って行く時は亀のように閉じこもっていた陣からのこのこ出てきただと?
見え見えの罠だ。放っておけ」
「はあ、そんなもんでっか。ほな、他の将兵にも伝えときますわ」
「…………見たか黄月英。あれが馬鹿どものおつむの程度だ。
余が些細なことでもいちいち裁定を下さねば、
彼奴らはたちどころに足元をすくわれる」
「………………」
「張飛ならば罠を看破しただろう。
関羽や趙雲、馬超ならば罠だろうと構わず個人の武で打開する。
だが今の蜀には四人はいない。余の指示を仰がねば彼奴らは何もできぬのだ」
「……御主人様は変わったです。張飛たち他人の力を評価してるです。
隆中の草廬にいた頃とは違うです」
「フン。凡俗の中にも少しは評価できる者がいないこともない。それだけの話だ」
「それならどうして蜀を守るですか?」
「……なんだと」
「張飛たちがいなくなり、劉備もいない、
凡俗だけの蜀を、どうして御主人様は守るですか?
他人を虫けらだと思い、死のうが生きようが
どうでもいいと思っていた御主人様です。
どうしてそんなに無理をしてまで蜀を守るですか?」
「ただの暇つぶしだ。
劉備の馬鹿にこの国を好きにして良いと言われ、好きにしているだけだ」
「国に殉じて死ぬことが、御主人様のやりたいことだったですか?」
「ああ、やかましい。貴様こそ変わったものだ。
一族郎党を殺され路頭に迷っていたところを拾ってやった頃は、
物言わぬ人形同然だったものが。
フン。蜀の馬鹿どもに感化されて情でも移ったか」
「従者は主人に従うだけです。御主人様が変わったから私も変わっただけです」
「くだらぬ」
「40年も一緒にいればわかるです。御主人様はもう限界です。
御主人様だって人間です。もうすぐ死ぬです!」
「ほう。106話目にして初めて感嘆符を使ったな。
それで余にどうしろと言うのだ。隠居して草廬に帰り余生を過ごせとでも?」
「……従者は従うだけです」
「結局は他人任せか。結構なことだ。
話が終わったなら姜維を呼べ」
「……姜維を出撃させるですか」
「否。……遺言を残してやる」
~~~五丈原 蜀 北伐軍~~~
「委細承知した」
「フン。貴様ならば余が死のうが騒ぐまいと思っていた。
余の死後はその指示書の通りに従え」
「御意。……丞相。死は永遠の離別にあらず。久遠の彼方に再会と祝福を」
「余は死後も貴様らと馴れ合うつもりはない。消えろ」
「…………はい」
「これで用は済んだ。あとは死ぬだけだ」
「曹操は死ぬ前に死ぬほど死ぬ準備をしたそうです。
さすが御主人様です。あっという間に準備できたです」
「当然だ。余を曹操ごときと同列に論じるな。
……フン。時間が余ったな。
黄月英。これまで余に仕えてきた褒美だ。
死ぬまでに何か話をしてやろう。何が聞きたい」
「…………では、劉備の話を聞きたいです」
「クックックッ……。臨終の床であの馬鹿の顔を思い出させるのか。
まあよい。それも一興だ。
そうだな。余は奇跡だと思った」
「奇跡?」
「袁術から奪ってやった玉璽を持つ余のもとに、
皇帝になりたいという馬鹿が現れたのだ。
しかもその馬鹿は余が力を貸してやらねば
絶対に皇帝になぞなれないほどの馬鹿だ。
これを奇跡と呼ばずになんと呼ぶ?」
「…………」
「あれは面白い人間だった。
それまでに、そして今までに一度も見たことのない人間だ。
馬鹿で愚かで脳天気で馬鹿で傲慢で不遜で馬鹿で……実に面白い人間だった。
余が気まぐれで手を貸してやったくらいにな」
「劉備が好きだったですか」
「人間の中では最も面白い者だった。それだけだ」
「劉備が好きだったですね」
「フン。黙れ」
「私は好きだったです。
劉備も、張飛も、関羽も、それに力を貸す御主人様も」
「…………黄月英。貴様は死ぬつもりか。
余が死ねば、墓の前で殉死するつもりか」
「……従者は従うだけです」
「ならば命じる。生きろ。死ぬことは許さぬ」
「…………初めて御主人様に生きろと言われたです」
「貴様を拾ってやった時も死ねと命じたな。
貴様はそれを断った」
「初対面の偉そうなガキに言われて死ぬ馬鹿はいないです」
「そのガキに生涯仕える馬鹿もおらぬ。
貴様は生きろ。死後も貴様に付きまとわれるのは御免だ」
「側に行くのが数年遅れるだけです。従者はついていくです」
「黙れ。死ね」
「嫌です」
「フン。…………それでよい」
~~~五丈原 魏 司馬懿軍~~~
「へ? 諸葛亮様が亡くなられた?
そうですか……。惜しい方を亡くしました。
すぐに弔問の使者を、いや着物の礼を兼ねて私が自らお悔やみに――」
「何を馬鹿なことを言っている!
蜀軍は総退却を始めている。早く追撃にかかるのだ!」
「本官らにお任せください! 待てええい蜀軍! 全員逮捕だああ!!」
「久々の出撃だ! 肉だ! 肉が食えるぞ! ガオォォォォン!!」
「追撃戦っていいよな。楽だし、楽しいし。殺りまくるぜー」
「戦えなかった鬱憤でどいつもこいつもテンション高えな。
ほんじゃ、俺らも行くか」
「ああ」
「陣は私と辛毗、魏平が守ろう。司馬懿もさっさと出撃したまえ」
「え、ええ……」
「どうしたのよ? 諸葛亮が死んで大チャンスなのに浮かない顔じゃない?」
「いや、なんと言いますか……。
私は直接お会いしたことはないのですが、
その、噂に聞く諸葛亮様が本当に亡くなられたのかと、
どうしても疑問に思ってしまいまして」
「総大将のお前が迷っていては全軍の士気に関わる。
下らぬことを考えている暇があったらさっさと出撃しろ!」
~~~五丈原 蜀 北伐軍~~~
「ちきしょうめ! 喪も明けてねえうちに追撃たぁ人情のねえヤツらだぜ!」
「戦争に義理も人情もあらへんがな。そら、右からも敵が来とるで!」
「諸葛亮の棺はあそこか! 本官が生け捕りにしてやる!」
「死んでっから生け捕りは無理だと思うぜ」
「左からも新手だ! これでは冷や汗が止まらんぞ!」
「ぎ、ギヱン! 右だ! い、いや左だ!
ま、待て、それより私を守れ!」
「ガ、ガオン?」
「むちゃくちゃな命令を与えるな! 魏延がフリーズしちまったぞ!」
「おやおや、このままでは全滅もありえますよ。少し落ち着きませんか?」
「みなさん落ち着きやしょう。こんな調子では全滅しちまいやす」
「ご、呉班の言う通りだ! 落ち着いて反撃しろ!」
「へっへっへっ。郭淮サンに気を取られてる間に
背後に回ってやったぜ。誰から殺そうかなっと」
「ワォォォォォン!! 肉だ! 生肉が逃げ惑っているぞ!」
「は、背後にも敵だ! 囲まれたぞ!」
「 」
「どうやら覚悟を決めたほうがいいようですね……」
「承知」
「この大変な時に姜維のヤローはどこ行きやがった!?」
「そういえばずっと見がけねえな」
「がたがたうるさいです。落ち着くです脇役ども。
耳の穴かっぽじって聞くです。目の穴かっぽじって見るです」
「あ、あれは…………」
「クックックッ……。掛かったな愚か者どもめが」
「し、諸葛亮!?」
「生きていたのか!!」
「誰が死んだと? 余は全知全能にして不朽不滅だ」
「罠だ! 罠だったんだ! 殺される……殺されるぞおおっ!!」
「だ、だからお前が動揺したら全軍の士気が――。
そ、そんなことを言っている場合ではない。
諸葛亮が生きていたならこれは罠だ! 撤退しろ!」
「くっ……。無念だがしかたない。引き上げるぞーーッ!」
「丞相! なんでい水くせえな!
罠なら罠だとはじめから言っといてくれよな!」
「それにしても安心しましたぞ! 丞相が健在ならば怖いものなど――」
「い、いや待て。様子がおかしい。こ、これは……」
「も、木像……? これは丞相の木像でっか?」
「はあっ? で、でもさっきしゃべってたじゃねえか。
あれは丞相の声だったぞ!」
「あれは私の声だ」
「うおっ! き、姜維か。
なんだって木像の後ろになんか隠れてたんだよお前」
「丞相が私に掛けられた最期の術だ。私が丞相の声を借りてしゃべっていた」
「そ、それじゃあ丞相はやっぱり…………」
「………………」
「………………」
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かくして魔王は没した。
諸葛亮の棺は成都へと還る。
しかしその途上に波乱は待ち受けていた。
次回 一〇七 魏延の心へ




