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06 決戦は金曜日



 昼を過ぎ、太陽の光は容赦なくおれの上から降り注いでいる。

 その暑さはまるで世界がずべて敵であるかのように錯覚させるが、それでも肩に感じるクーラーボックスの重みだけは、おれを励ましてくれている気がした。

 イチローの部屋までのわずか十数分がもどかしい。

 だからといって、急いで落としてしまったら大惨事だ。

 逸る気持ちを抑え、一歩一歩を確かめるようにして歩く。

 周囲を警戒しながら進むおれは、ともすれば不審者のように見えてしまうかもしれないが、幸い見咎められることもなく順調に距離を稼いでいった。

 問題といえるほどではないが、途中、小学生の集団にこれから釣りか連れて行けと騒がれたのが最大の障害だっただろうか。

 釣竿を持ってないだろう、と答えると「それはレンタルでも何でもあるじゃん」とか言われた。

 いまどきの小学生は生意気だと思った。

 まあそれは年上の余裕で優雅に取り繕い、イチローの部屋に辿りつく。

 すでにレナは来ているようだ。


「悪い、遅れた。すぐ暖めるからテーブルの上片付けておいて」

「おまえはお母さんか」


 おれはおまえの母親じゃないしおまえのような子供はいらん、とは思ったが反応するのも嫌なので、さっさとキッチンに向かってやるべきことに取り掛かることにした。

 掃除した後はいっさい使わないという方法で侵食を免れたキッチンでは、エプロンをつけてゆっくり鍋をかき回しているレナがいた。

 眼福である。


「なにしてるの?」

「タルタルソース作るのに、たまご茹でてるところ。カレーに合うかと思って」


 おれは昨日、カレーに合わせるトッピングを各自持参してほしい旨を通達していた。

 カレーを知らないふたりに不親切な難問であることは承知していたが、大抵のものは問題なくマッチするだろうし、わずかながら、カレーを知らないふたりが用意するものに怖いもの見たさのような好奇心もある。

 しかしタルタルソースか。

 まあ、マヨネーズをかける人もいるそうだから、そんなにおかしくもないだろう。

 傍らには何かのビン詰めが置いてあった。


「こっちのは……漬け物?」

「ピクルス。タルタルソースに入ってるでしょ」


 ピクルスって漬け物なのか。

 タルタルソース以外だとハンバーガーに入れるくらいしかわからないな。

 しかし、そうだ。

 おれはすっかり福神漬けのことを失念していたではないか。

 あるいはらっきょう。


「……タルタルもいいけど、別々のままのほうが合うと思う」

「ゆでたまごとピクルス? あとチーズしか持ってきてないけど」


 チーズ……それにゆでたまごと福神漬け。


「むしろ三種の神器だよ」


 レナ、おそろしい子……!


「なら磯辺揚げも加わって四天王といったところか」

「うん、それは予想してた」


 平常運転のイチローを見て和む。

 近いうちにカレー風味の磯部揚げも作ってやるからな。


「ゆでたまご、ピクルス、チーズ、磯部揚げ……本当に大丈夫なの?」

「ふ、カレーのポテンシャルはそれだけにとどまらない」


 おれは自信満々でクーラーボックスを下ろし、その中からひとつのタッパーを取り出す。

 このずっしりとした重みがたまらない。

 蓋を取り払い、その中身をふたりにむけてさらけ出した。


「え……本気なの?」

「まさかそれほどのモノだったとはな……」


 レナとイチローはまさかそんなものまで、といった様子で、その驚愕を隠す気配もない。

 黒い宝石が縦横三列、計九個、きっちりと荘厳に並んでいる。


「そう、このまろやかな甘みと刺激的な辛さが絶妙なハーモニーを奏で……」


 おはぎだった。


「ません! 違った、こっちだった。チキンカツと、サイコロステーキだ」


 新たに取り出したタッパーを確認して、安堵の溜め息を漏らすふたり。

 別にトッピングにしても悪くはないと思うが、おはぎは食後のデザート用だ。

 そこでふと、レナが怪訝な表情を覘かせた。


「そのカレーって、豚肉入れたんじゃないの?」


 なるほど、その疑問はもっともだと思う。

 牛丼にから揚げをのせるのが一般的でないようなものだ。

 だが。


「まあ、食べてみればわかるさ」


 そのときのおれは、さぞいい笑顔をしていたことと思う。



   ☆



 あらかじめイチローに炊飯しておいて貰ったご飯を深めの皿によそい、オリーブオイルと豚肉の脂できらめくカレーをおたまでひとすくい盛り付ける。

 ご飯を敷き詰めカレーは七分、それがおれ流だ。

 半々にしたりカレーでご飯を全部覆うのもいいが、カレーライスらしさというと、このスタイルになるのではないだろうか。


「これがカレーライスだ!」


 万感の想いをのせて、ふたりの前にそっと配膳する。


「ほう、これが……」

「じゃあ、いただきましょうか」


 まずはプレーンのまま召し上がっていただく。

 カレーのルーが染み渡ったご飯に、銀色のスプーンが差し込まれる。

 ふたりは顔を見合わせてひとつ頷くと、この世界で初めてカレーを食べた人間となった。

 そのまま二口め、三口め。

 イチローはおもむろに磯部揚げをのせると、貪るようにかきこみはじめた。

 それがひと段落するとふと天井を見上げ、おれに右手を差し出してきた。

 つられるように手を出すとハンドシェイク。

 なんか喋れよ。

 レナは若干辛過ぎたようで、せっせとルーにチーズを混ぜ込んで溶かしていた。

 そしてそれを口に入れると、顔全体が蕩けるように緩んだ。

 そんな顔でも女神かわいい。

 さらにスライスしたゆでたまごを土台としてスプーンにのせ、その上にご飯、カレーと重ねてミニカレーライスを堪能していたり、ピクルスを箸休め……スプーン休め? に使ったりカレーライスと一緒に食べてみたりと、ひとりで頷きながら色々な食べ方を模索しているようだった。

 なんか喋ってもいいのよ。

 ふたりはほぼ同時にひと皿をきれいに平らげ、用意しておいた冷たい水を飲むと満足げな吐息を漏らした。


「い、いかがでしたでしょうか」


 観察していたところ口に合わなかったということはなさそうだが、未知との遭遇だっただけに恐る恐る感想を促してみる。


「……おれは、磯部揚げは磯部揚げであるがゆえに磯部揚げという完璧な食品だと思っていた。今まで彼には醤油という友がいた。だが、彼は今日、世界を超えて親友と呼べる存在に出会ったのだ。おれには見える、これから先の磯部揚げ新時代が!」


 長いし大げさだし磯部揚げのことしか言ってないよね?


「完全な洋食ではなく、完全な日本食でもない。だからこそありとあらゆる食材を受け入れるのね。それを支えているのがこの香り、何種類ものスパイスが複雑に絡み合って食欲を強烈に刺激する。それにこの段階を踏む辛さもあいまって、これ以上白いご飯に合うものはないのではないかと錯覚するほどよ」


 長いのはもういいけど、グルメ番組を見ているようで意味がわからない。


「えっと、つまり、どういうこと?」

「おかわり」


 ふたりの声が完全に重なった。

 気に入ってもらえた、ということでいいんだろうか。

 差し出された皿を持ってキッチンに向かった。

 ご飯を盛って、カレーをかける。

 ……しかし最初の一杯はともかく、なぜおれはおさんどんしているのだろう。

 ふたりとも自分でよそってきたらいいのに。

 その後はおれも混じって、それぞれが用意したトッピングを試しながらカレーパーティーを楽しむ。

 おれが持ってきたチキンカツとステーキもなかなかの評価を受けたようだ。

 しかし、今日はあえて持ってこなかったがトッピングの王様はロースカツなのだ、ということを教えたら、物凄く残念そうにしていた。

 カレーが残っていたらスーパーあたりで惣菜を買ってくるのも辞さなかっただろう。

 いや、むしろおれが買いに走らされるのか。

 イチローとおれが四皿、レナも三皿を完食し、冷たい麦茶で一息つく。

 おはぎは……ちょっとすぐには入らないな。


「確かにこれがなくなるってのは、想像できんな」


 食後のまったりとした空気の中、イチローがそうつぶやいた。

 おれの苦悩をようやくわかってくれたようだ。


「おまえだってカレーがなくなったら泣くだろ?」


 おれはあの夜のことを忘れない。


「都合よく嫌いなものがない世界ならよかったのにな」

「もしそうなら今も気付いてないだろうし、嫌いなものだったらなくなっても不自由しないし」


 あるいは、あんこのようにすぐ作り出せるものなら問題なかったな。

 なぜなくなったかは疑問だろうが、それは現状と同じで、今さら考えても仕方がない。


「ふたりとも好き嫌いはダメだよ。でも、いろんな世界があるんだとしたら、ちょっとおもしろいね」

「それをパラレルワールドって言って、磯部揚げがない世界なんだ」

「おまえさ、パクるにしてももうちょっと頑張れよ」


 うろ覚えだった自覚はあるが、うまいこと出てこなかったのだ。

 というかそこはフォローしてくれてもよかったのではないか。


「……でも本当によかったよね」

「スパイスの種類を見たときには無理かもしれないとも思ったものだが」

「自分でやるとは言ったけど、正直おれ自身が一番不安だったんじゃないかな」


 何千種類もの中から必要なものを選び出すのは、おれひとりではほとんど不可能に近かっただろう。


「リッキー、そうじゃないよ」

「もしかしてとんでもないものができあがると思ってた?」


 黄色くてドロッとしてて辛くてスパイシーな料理、という情報だけでは、確かにどんなものができあがってくるか不安になるかもしれない。


「違うよ、おいしいものなのは疑ってなかったし、実際想像以上においしかったし。そうじゃなくて、リッキーがこの世界に来てくれてよかったって言ったの」


 ……そのとき。


「そうだな、おまえのおかげで磯部揚げの新たな可能性が……なんだ、おまえ泣いてるのか?」

「カレーが食べられてそんなに嬉しかったの?」


 おれがここにいることを、認められた気がした。



   ☆



 また恥ずかしくもふたりの前で泣いてしまってからしばらく。

 おれが落ち着き、みんなでカレーの可能性を議論していたら、夜も結構いい時間になってしまっていた。

 おれだけならば午前様だろうが惰性で泊まりこもうが問題にならないが、レナはそういうわけにもいかない。

 カレーの今後についてはまた今度話すことにして、今日のところは解散、おれがレナを送っていくことになった。

 レナはしきりに遠慮していたが、これほど遅くなったのは初めてのことでもあるし、おれもイチローも心配なのだ……ということをイチローが熱弁したことで折れたようだ。

 部屋を出るときに送り出すイチローはサムズアップしていたが、まあそういうことである。

 ふたりきりで夜道を歩く。

 少し前を歩くレナの後姿は、はっきりと見えた。

 街灯もあるし、民家から漏れる光もあって、危ないというほどの明るさではない。

 心臓が鈍器を打ちつけたような音を鳴らしている。

 自分の足音も聞こえていない気がする。

 でも。

 でも、おれは、今から。

 

「月が綺麗だね」


 話しかけようとしたところで、レナがそんなことを言った。

 思わず空を見上げる。

 月……?

 ああ、あった。

 細く弓なりになった、ほとんど見えない月だ。


「わたし、リッキーに話したいことがあるんだ」


 レナはふと立ち止まり、おれのほうに振り向く。

 おれを覗き込むその顔は、笑っているように見える。


「うん。やっぱり、最近変わってきたよね。昔はいっちゃんの腰巾着みたいだったのに、もうわたしたちのリーダーだもんね。でも、だからわかったの。リッキーは臆病なんじゃなくて、凄く優しいんだけなんだって。まあちょっと泣き虫だけど」


 腰巾着……。

 おれはそんなふうに見られていたのか。

 泣き虫も否定したいところだが、最近のおれは確かに涙腺が緩い。

 なんか、微妙に褒められているような気もするんだけど、素直に喜べないような。


「その、つまりね……」


 おれを見ていたレナは、急に視線を外してそわそわしている。

 ……あれ。

 これって?

 まさか?


「……わたしはリッキーが好きです」


 ……。

 ……おお。

 うおおおおお!

 なんでか全然わからないけど、逆に告白された!

 え、これってどうなの?

 おれは喜んでいいの?

 こういうときってどういう対応が求められるの?


「でも、迷惑なのはわかってるから」


 まずは、おれも好きだよ、あたりからか……。

 ……うん?


「実はね、聞いちゃったんだ。ふたりでいるだけで幸せだって。それって好きってことだって」


 聞いた?

 あれ、それ話したときレナはいたっけ?


「好きなんだよね、いっちゃんのこと」


 ……待て待て。

 イチローがなんだって?


「そのとき気付いたの。この胸の痛みは恋なんだって。いっちゃんの部屋の前から逃げ出したときから今日まで、いっぱい悩んだんだよ?」


 物凄いことが起こっている。

 おれがふたり乗りゴーカートに乗り込みレナがやってくるのを待っていると、後ろから魂までも揺さぶるような爆音が近づいてきて、ゆっくりと横に止まった。


「決めたのは……違うね、わかったのは、さっきカレーを食べてるとき。いっちゃんとリッキーがつながってるのを見て、心から応援したいって思えたんだ」


 地べたに座っているような体勢のおれよりも頭ひとつ低い、まるで寝そべるようなドライビングポジションに、ピンクベースにゴールドストライプのヘルメット。

 こちらに顔を向けたバイザーの奥ではかなげにウインクをひとつ寄越したのは、よく見慣れたレナの眼だった。

 レーシンググローブに包まれた手でぴっと二本の指を立てると、前方のスタートシグナルが点った。


「だから、これからずっと、いっちゃんと仲良くしてないと許さないんだから!」


 ブラックアウト。

 咆哮を上げるエンジン。

 焼けたゴムとアスファルトの匂い。

 エクストラパワーを惜しみなく上乗せした暴力的な加速で彼我の距離が開く。

 瞬く間に一コーナーに進入、泣き声のようなスキール音を残して、レナが駆るF1マシンはその姿を消した──。

 ……いやいや、冷静になれ。


「カレー、おいしかったよ。バイバイ」


 おれが必死に理解しようと悩んでいたら、レナは走り去ってしまっていた。

 何か光るものが舞っていたような気もするが、今はそれは置いておこう。

 つまり。

 おれはレナが好き。

 レナもおれを好き。

 でもおれはイチローが好き。

 だからレナは身を引く。

 そしておれはフラれる。


「……なにこれ?」



   ☆



 激動の夏休みが明けた。

 あの後、何度かの話し合いでレナの誤解はどうにか解けたと思う。

 ……解けたはずだ。

 解けていてほしい。

 結局、告白のことはうやむやになったのか、おれたち三人は変わらず今までどおりに過ごしている。

 ひとまずカレーのレシピが完成したことでよしとしよう、と思い込むことにした。

 カレー風味の磯部揚げをを食べさせたことがきっかけとなり、料理をし始めたイチローがとてつもない速度でその腕前を上げているのは新たな学内の噂話としてそこそこ知れ渡っている。

 レナの実家でも裏メニュー的にカレーライスおよびカレー料理を提供するようになり、今のところなかなか好評とのことで、カレーファンを次々生産していくさまは見ていてなかなか面白い。

 これら供給先のカレースパイス消費量が想像以上に早く、いまだにひのきの棒は手放せないが、カレーを普及させるためならばこの程度の労は織り込み済みだ。

 だというのに、最近自家製ちくわにまで手を出し始めたイチローは、この夏の恩を嵩に着て白身魚の調達を依頼してくるようになった。

 今日も近所の小学生どもに纏わりつかれながら、埠頭で鰈を釣ってきたところだ。

 そろそろ鯛狙いに切り替えようと思っているが、レンタル竿では物足りなくなってきたのが新たな悩みの種だ。

 釣果を依頼主に届けた後、軽くなったクーラーボックスを担いで家路に着く。

 今夜はなにやら豪華な夕食らしい。

 ちょっと楽しみだ。


「ただいま」


 ダイニングを覘くと父さんが座っており、食卓には季節のフルーツ盛り合わせなど普段の副菜が並べられ、あとはメインを待つばかりの状態である。


「おう、リキおかえり。おまえは子供のころから計ったように帰って来るなあ」

「さあ、早く手を洗ってきて座りなさい」


 ああ、これが変わりなく平穏な日常というものか。

 よくわからない感慨を覚えながら手を洗い、いつもの席に着くと、ボンベ式のガスコンロに乗せられた鍋がその威容を現す。

 ……なんだろう。


「えっと、これは何鍋?」


 真っ黒な平鍋がガスコンロの上に収まり、普段の鍋物とそう大きく変わらない具材が普段より明らかに少ない醤油らしき汁で煮込まれ、現在進行形で牛肉が熱によってその色を変えている。


「おいおい、これは日本人のソウルフード!」


 イイ笑顔の父さんがそのまま顔だけを向けて、こちらもまたイイ笑顔の母さんに続きを促した。


「すき焼きに決まっているでしょう?」


 ……。

 スキとはなにか。

 焼きと言いながら煮ているのはどういうことか。

 この生たまごはどうやって使うものか。

 色々突っ込みたいところはあるが、まず第一に。


「スキ……焼き、ってなに?」



 もうご理解いただいているでしょうが、本作のSFはスパイスファンタジーです。

 なお作中でサフランが毒であるかのように描写している箇所がありますが、その致死量は十二グラムから二十グラムであり、サフランライスに換算すると七十キログラム以上を摂取しなければならないため、通常問題にはなりませんのでご安心ください。

 お読みいただきましてありがとうございました。

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