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05 何度でも



 困難な一日を乗り越え、変わらず溜まり場となっているイチロー宅に集合する。

 予定では一昨日、昨日と使って香辛料を探すはずだったものの、昨日は朝からずっと喉やら腹やら諸々痛いわ味はわからないわ鼻は利かないわで、おれが行動不能だったために今日にずれ込んだのだ。

 イチローには先約があったはずだが、今日はこちらを優先することにしたらしい。

 さすがにあの唐辛子大試食会はやりすぎたと思ったのかもしれない。


「それで、一昨日はどうだったんだ?」


 どうだった、とはまた曖昧な聞き方じゃないか。

 だが、そのうすら笑いを見ればレナとのことだとわかる。

 そうだな。

 行きがかり上ふたりで食事をしたわけだが、特に明言しなくてもこれはデートといって問題ないだろう。

 ふたりきりで食事はこれで通算二十四度目だ。

 すべてのシーンを昨日のことのように思い出せる。

 美味しいものを食べたときのレナは、それはもう天使のようにかわいい。

 万が一、毎日三食ずっとその姿を見せられたら、おれでなくとも惚れてしまうだろう。

 あるいは保護欲をかきたてられるだろうか。


「おれ、思ったんだ。ただふたりでいるだけで幸せを感じられる。それは好きってことなんだって」

「ほうほう」


 改めてそう思う。

 レナのことを考えるだけで幸せなのだ。

 それ以外の答えなどあるわけがない。


「それに、今回のことでも実感したよ。おれを信じてくれて、おれのために動いてくれてる。だからおれも頑張れるんだ」

「へえそれで?」


 イチローの返事が最初から適当なのは気になるが、もうこの想いをとどめておくことは出来そうもない。


「カレーが完成したら、おれ、告白するよ」


 言ってしまった。

 証人がたかがイチローひとりであろうと、口に出してしまったことはやり遂げなければならない。

 この震えは、恐怖か、高揚か。


「完全な死亡フラグだな」

「死ぬってなんだよ! サフランかよ!」


 ……いや、まてよ。

 意外と当たってるのか。

 もし本当にレナと付き合えることになったら、幸せすぎて死ぬかもしれない。


「意味がわからないんだが。サフランじゃ死なないだろ」

「いや、死ぬらしいよ」

「マジか。あ、臼井からメール来た……ちょっと遅れるってさ」


 ……あれ?

 そういえばおれ、レナから返信以外のメールとか貰ったことないような?



   ☆



 今日の目的地はイチローの家とレナの家からほぼ等距離にあることもあって、現地で合流しようということになった。

 駅から離れ、山間に差し掛かる直前の、古い民家が立ち並ぶ通りの一角だ。

 そこに、周囲と同化しているような木造の店舗があった。

 申し訳程度に据えつけられた看板には店名らしき文字が書かれているが、かすれていて読むことはできない。

 イチローが言うには、かつて共同の製粉所だった建物を、現店主が借り受けて開いた店であるらしい。

 いったいどこ調べの情報なんだ。

 レナの合流を待って店に入ると、なんともいえない複雑な匂いが室内を満たしていた。

 壁が見えないほど配置された棚には、袋詰めだったりビン詰めだったりする商品が所狭しと陳列されている。

 面積としては一般的なコンビニの三分の一程度だろうか。

 おれは魔女の店に迷い込んだような感覚で、ふらふらと商品の棚を眺めていく。

 どうやらレナも似たような行動を取っているようだ。

 すると、少し離れたところでイチローが手招きしているのが見えた。

 棚にぶつからないように気をつけながらそちらに行ってみる。


「これがおまえのベストリアクションを引き出した唐辛子なわけだが」


 なんだ、そんな用事か。

 えーとなになに、キャロライナ・リーパー。

 取り扱いの際には手袋を着用してください、強烈な刺激物なのでたいへん危険です。

 かわいらしい手書きのポップには『ハバネロの十倍の辛さ!』と書かれている。


「もうそれ食べ物じゃないよね」


 爪楊枝の先にほんの少し取ったものを舐めたんだが、冗談じゃなくのたうち回ったものだ。

 たぶん小さじ一杯とか口に入れたら死ぬ。

 用法用量を正しく把握してお使いください。


「ふたりとも目的忘れてない?」

「おっとそうだった。とはいえ、どれが正解かはリキしかわからないものだからな。ほらリキ、その棚から順に行け」


 それしかないとはわかってるけど、この数を見ると心が折れそうになる。

 一段にだいたい二十種前後、棚ひとつに十一段、棚がぐるっと七個に中央四個で、少なく見積もっても、えーと、二千数百種以上だ。

 本当にこれ全部別の種類なんだろうか。

 同じものを別の場所に小分けにしてるとかそういうことしてない?


「ターメリックみたいに、見たり聞いたりしたら思い出すのもあるんじゃない?」

「ここのオヤジに聞くのが手っ取り早いかもな」


 というわけで、店主に直接聞いてみることにした。

 入店してからずっとニコニコしてこちらを見ていたが、インドネシアとかマレーシアとか、多分そっちのほうの人っぽい。

 日本語通じるんだろうか。

 というかあのかわいらしいポップはこの人が書いたんだろうか。


「すいません、カレーに使うスパイスを探してるんですけど」

「カレー? 聞いたことないよ。どこの国の料理だよ?」


 通じた。

 微妙に独特なイントネーションがあるが、気になるほどではないし、きっとおれたちの使う英語なんてもっと酷いだろう。

 横から肘打ちとともに「カレーって言ってもわかるわけないでしょ」というレナのツッコミが入ったのは流すことにした。

 もしかしたら知ってるかもしれないじゃないか、結果としては失敗だったけど。

 というかあのかわいらしいポップはこの人が書いたんだろうか。


「インド料理です」

「インド? 日本食じゃないの?」


 あれ、これは言ってなかったか。

 言ったような気もするんだけど。


「インド料理なら、そこの棚にあるミックススパイスがよく使われるんだよ」


 指差されたほうを見ると、これまたかわいらしいポップに『インド料理の定番!』と書かれた棚があった。

 近づくと、なんとなくどこかカレーっぽい香りが濃くなったような気がする。

 ミックススパイス……。

 これか。

 確認用の試供品があったので、栓を外して鼻先に近づけてみる。

 色々な香りが充満している店内ではわかりにくいかとも思ったが、まったくそんなことはなかった。

 他を押しのけて香ってきたのは、鮮烈な生の香気。


「カレーの匂いがする!」


 これだ、間違いない。

 胸いっぱいにその香りを吸い込む。

 ああ、まるで探し続けた数十年来の友人と、思っても見なかった場所で再会したような気分だ。

 まあおれは二十年しか生きていないし、カレーにしてもまだ一年までは離れていないのだが。


「日本では馴染みが薄いかもしれないけど、インドではそれをガラムマサラって呼ぶんだよ」

「ガラムマサラ! 聞いたことある! ガラムマサラ!」


 うしろでイチローが「そんなマサラ」とかつぶやいているが、放置である。

 というかマサラってなんだよ。


「なんだ、最初からここに来てれば全部揃ったんだね」


 あ。


「ガラムマサラはおふくろの味って言われるんだよ。家ごとに使うスパイスが違うんだよ。だからあなたもそこにあるスパイスを使ってオリジナルブレンドを生み出すんだよ」


 そして、カルダモン、クローブ、シナモン、ナツメグ、コリアンダー、クミン、フェヌグリーク、フェンネル、アジョワンなど他にもいくつか、勧められるままにインドで使われるという香辛料を購入した。

 あのかわいらしいポップは店主の娘さん小学校五年生が書いたそうです。

 最近は変な日本語ばかり覚えてきて困っているそうな。

 そんな店主の愚痴に付き合ったり、顔を出した日本人の奥さんにスパイスティーなるものをごちそうになったりしてから店を後にした。


「ブレンドか……」

「調合するのか。お、やったな。ひのきの棒の出番だ」

「わたしたちも手伝うからね」


 うん。

 それは嬉しい。

 嬉しいんだけど。


「ありがとう。でも、ここから先はひとりでやらせてほしい」

「そんな、ここまで一緒にやったんだから三人でやろうよ! いっちゃんもどうして黙ってるの!」


 違うんだ、と思った。

 おれは、おれが食べたいからカレーを作るんじゃない。

 もちろんカレーは食べたいが、もうそれだけが目的ではなくなってしまっている。


「臼井。こいつの眼を見ても同じことが言えるのか」


 ずっと考えていた。

 おれがこの世界に来た理由。

 おれがこの世界にいる理由。

 この世界にカレーがない理由。

 考えても考えても、おれには答えが見つからなかった。

 でも、それはどうでもいいことだった。

 そう、気付いた。

 イチロー。

 レナ。

 もしかしたら「おれではないかもしれないおれ」に付き合ってくれた、大事な存在。

 おれはおれで、おれはここにいる。

 それでよかった。

 それに気付かせてくれた。

 だからおれは、こいつらに、おれの作ったカレーを食べてほしいんだ。



   ☆



 八月六日、晴れ。

 まずはシチュー一人前に気が済むまでターメリックを、カイエンヌペッパーを適度に、ガラムマサラを少々加えてみた。

 うん、まあカレー風味のシチューが完成した。

 別に悪くないが、これがカレーかと聞かれたら全力で否定する用意がある。

 やはりシチューベースには無理があるようだ。

 あったから使ったが、カイエンヌペッパーと一味唐辛子って何が違うのだろう。


 八月七日、晴れ。

 今日はすりこぎでスパイスをゴリゴリやっていたが、湿度がヤバい。

 どのぐらいヤバいかというと、擂っていると粉末が湿気を吸ってペースト状になるぐらいヤバい。

 さて、これはどうしようか。


 八月八日、曇り。

 湿度は続くよどこまでも。

 もったいないので昨日のペーストを炒って湿気を飛ばしてみることにした。

 想像以上に強い香りが出たが、ペーストは粉には戻らなかった。

 やり方が悪かったのか、こういうものなのか。


 八月九日、曇りのち雨。

 今日はレナがうちにやってきた。

 大学をうろついていたら馬場ちゃんから様子を見てきたらどうかと提案されたらしいが、それはイチローの差し金だろう。

 嬉しくなんてないんだからな!

 カレーに関しては進展はなかった。


 八月十日、雨。

 手早く擂りあげたスパイスをすぐさま密封パックする作業を続けた。

 腕と腰が痛い。


 八月十一日、雨のち曇り。

 筋肉痛が酷いので、各種スパイスを調合したりしていた。

 塩と胡椒は別にしたほうがいいことに気付いた。


 八月十二日、曇り。

(この日の記録は書かれていない)


 八月十三日、晴れ。

 あんこうめえ。


 八月十四日、晴れ。

 レナが来た。

 活を入れてもらった。

 明日から気合を入れていこう。


 八月十五日、曇り時々晴れ。

 とりあえずカレー粉と呼んで差し支えないものが完成した。

 試しに肉と野菜を炒めて、水を入れて、野菜が柔らかくなるまで煮て、カレー粉を入れて、塩胡椒で味を調えた。

 カレースープができた。

 しかしなにかが違う。

 色々足りないが、何が足りないのかわからない。

 そういえばカレー風味磯部揚げを作って食ってみた。

 これはそのうちイチロー用に作ってやらなければならないだろう。


 八月十六日、曇り。

 炒めるときにニンニクを、煮るときにコンソメを、隠し味的にショウガを加えてみた。

 スパイスを投入前に乾煎りしてみたりもした。

 かなり近づいた気がする。

 でもまだなにかが足りない。


 八月十七日、曇り。

 さらに鶏がらスープの素やウスターソースなど、コクや味の深みになりそうなものをいくつか投入してみた。

 これでそこそこ満足のいくカレースープが完成した。


 八月十八日、晴れ。

 カレースープはできたが、おれが望んでいるものではない。

 とろみをつけるために寒天やゼラチンなど試してみたが、冷えるとプルンプルンになるだけでどうしようもなかった。

 他の方法を考えなければならない。


 八月十九日、晴れ。

 母さんの助言でカレースープに水溶き片栗粉を入れてみた。

 とろみはついたが、これも違う。

 そう、これではまるで、カレーあんかけだ。

 あんかけカレーはアリだろうか、ナシだろうか。



   ☆



「本日は急なお話にもかかわらずお集まりいただきまして、まことにありがとうございます」


 あの決意の日から二週間。

 思えば長いようで短い、非常に密度の濃い日々だった。

 笑いが止まらないほど順調だったこともある。

 挫折して夜な夜な枕を濡らしたこともあった。

 どれもこれも、何かを為しえるためには必要なプロセスであったのだ。

 そして今、おれたち三人はイチローの部屋に揃っている。

 そう、おれは、重大な発表をするためにここにいるのだ。


「……助けてください。うまくとろみが出せないんです」


 もちろん安心の日本式謝罪スタイルである。


「おまえの二週間はなんだったんだ」

「とろみ以外はできたんだよ」


 イチローの言葉に深く傷つくが、一応の成果は上がっていることも伝えなければならない。

 試食でも味や香り、風味に至るまで問題なくカレーだった。

 だがしかし、やはり日本人にとってカレーといえるのは、もったりとしたとろみがあるものであるはずだ。


「一応試してはみたんだよね、小麦粉とか」

「小麦粉? いや、片栗粉は試したんだ。あんかけになったけど」

「ココイチかよ」

「なんだろう、そのツッコミは全然腑に落ちない」


 ココイチ=あんかけって、いつか慣れる日が来るんだろうか。


「だ・か・ら! 小麦粉は試したの?」


 突然大きな声をあげたレナに驚く。

 怒っている様子もかわいいが、なんで怒っているのかさっぱりわからない。


「小麦粉も片栗粉も白玉粉も、似たようなものでしょ?」

「原料から用途まで全部違うものだよ……シチューに似てるって言ったのに、なんでそこで出てこないのかな」


 シチュー。

 そうか、最初のほうでこれじゃないと思って考慮から外していた。


「そっか、シチューのとろみって小麦粉なんだ」


 片栗粉みたいにして使うんだろうか。

 小麦粉ってケーキとかパンとか、あとは麺類のイメージしかないからよくわからない。


「まったく、そのぐらい幸子だって知ってたぞ」

「え、おれ、馬場ちゃん以下?」

「リッキー本当に知らなかったんだ……っていうか今、幸子って」


 イチローの眼が光る。

 よしきた。


「シチューの作り方なら自分で調べられるだろ」

「作り方がわかるものなら何も怖くないよ」

「おまえの背中がやけにデカく見えるぜ。そのスパイシーな雰囲気がそうさせているのかな」

「ああ……何度洗っても落ちないんだ」

「カレー臭ね」

「ああ、加齢臭だな」


 レナがこのノリに乗ってきたのは意外だが、なぜだろう、イチローのほうからは悪意を感じる。


「ともあれ、これがうまくいくなら明日には完成すると思う」

「じゃあ下手すると、明日にはまた集合ってことだな」

「否、早くても明後日である」

「どうしてだ? というかどうしてちょっと偉そうなんだ」


 イチローの疑問はもっともなものと言えるだろう。

 おれが偉そうに見えるのなら、それはカレーが偉大であるからに他ならない。

 カレーはできたてでも美味しいのだ。

 しかし、おれはカレーの本領はその先にあることを知っている。


「何を隠そう、カレーは一晩寝かせたほうが美味しいからだ」

「……リッキーは本当に変わったよね。あ、匂いとかじゃなくて」


 スパイシーな男って、言葉ヅラは格好よさげな割にはあまり聞かない気がするな。

 カレー臭だからか。


「よし、なら明日の連絡待ちだな。一応明後日の予定は入れないでおいてやる」


 そうしてこの日は解散と相成った。

 日が落ちてどうにか過ごしやすくなった帰り道で、これからのことを考える。

 明日にはやっとカレーが完成するだろう。

 ふたりに食べさせたら、絶対に驚くはずだ。

 おれには初カレーのときの記憶なんて残ってないが、衝撃を受けるであろうことは想像に難くない。

 そのときが今から楽しみだ。

 こうして完成が見えるまで一ヶ月もかかってしまったが、その過程でレナとの距離も縮まったような気がするし、一概に悪かったとも言えないだろう。

 しかしそれは、このカレーがない世界だったからこそだ。

 カレーがある世界で何事もなく夏を過ごしていたならば、ここまで仲良くはなれなかったはずだ。

 もしかしたら、こうなるためにこの世界に来たのかもしれない、というのは考えが主人公的すぎるだろうか。

 ……うまく作らないとな。

 うっすらと雲間に浮かぶ月を見上げる。


「おれがこの世界にいる理由か……」



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