03 APPROACH
おれたちは三人揃ってイチローの部屋に場所を移している。
メンバー中唯一ひとり暮らしであるイチローのアパートは大学正門から徒歩二分、近所にコンビニ・スーパー・酒屋にパティスリーを配置された、理想的に必然的な溜まり場であった。
おれとイチローは特段売りもない平凡な公立高校の同級生で、つまり常識的に考えてイチローもひとり暮らしをしなければならないほどに実家が離れているというようなことはないのだが、考古学を専攻する教授とその助手という両親が本格的に海外で活動することになり、大学入学を機にこれ幸いと実家を売却し知り合いの所有するこのアパートに叩き込まれたという、どこかで聞いたような経緯を辿って現在に至る。
ついでに補足するなら、このアパートの他の住人はなぜかすべて女性である。
「さて、なんであんなに泣いてたか、キリキリ吐いてもらいましょうか」
わざわざ午後の講義を自主休講としてまでこの部屋に連行されたのだが、それにはちょっと、いや、非常に言いにくい理由があった。
まあレナの言うとおり、おれが急に泣き出してしまったからなのだが。
まさかカレーが食べたいという欲求が決壊しただけで二十分も涙が止まらないとは思わなかった。
というか、泣いている間にここまで引っ張られてきたので、目撃者も結構な数になるのではないかと想定され、明日からどんな顔をして生きていけばいいのだろうか。
欝だ。
「というか、なんでそんなに鰈?」
おまえもかイチロー。
だが、その件はすでに経験している。
もはやその程度でおれが取り乱すことはないだろう。
一応深呼吸しておく。
「……いいか? おまえが言ってる鰈は魚類だ」
わずかながら声に険が出てしまったのは未熟さゆえなのか。
しかしカレーについて先日の轍を踏まないように解説する。
形状、質感、色、味、等々、鰈ではないことを強調しながらゆっくりと自分も確認しつつ覚えている限りの情報をふたりに話して聞かせた。
「聞いたことのない料理だな」
「作り方としてはホワイトシチューに近いのかな、使う野菜もほとんど同じだし。問題は色と辛さと香りね。ビーフシチューなら色も近いと思うんだけど」
ふたりは我が両親よりも理性的に理解しようとしてくれていた。
脳の柔軟性の問題なのか、ただ性格的なものなのか。
若干それだけで涙目になりそうだったのだが、今回はどうにか意志の力でそれを捻じ伏せる。
「まあ鰈じゃないのはわかった。どんな料理かというのもわかった。わからないのは、なんでお前が泣くほどそれを食べたいのかってことだ」
それはそうだろう。
わけのわからない料理を泣くほど食べたがるだなんて、そこだけ抜き出せばおれだって理解しがたい。
「おれの知る限りカレーってのは日本で最もポピュラーな料理だったんだよ。大げさに言えばソウルフードってやつだ」
まだちょっとわかってなさそうな顔だったので、例をあげてみる。
「イチロー、例えばおまえは何日磯辺揚げを絶てる?」
「理解した。深刻だな」
即答だった。
わかってはいたけど、おまえにとって磯辺揚げとはそれほどまでのものなのか?
「で、ある日気付くとおれ以外のひとがカレーのことを忘れていたんだ。歴史の中からその存在そのものが消えてしまったみたいに」
「どういうこと?」
「……それはまるで、おまえだけが別の世界の人間だ、というような話にも聞こえるな。他に何か差異はないのか? どんな小さなことでもいい」
そうか、おれが違う、ということもあるか。
まったくその可能性は考えていなかった。
さすが親友だ。
しかしカレー以外では特に違和感を感じたことはない。
「おれの確認できた範囲では、これだけだった」
「……なるほど。じゃあそのカレーとやらはおまえの妄想かもしれんな」
本当にこいつは親友なのだろうか。
もしかすると、こいつはおれの親友のイチローとは違う人間かもしれない。
いや、前からこんなのだったな。
「……やっぱり、信じてもらえないか」
おれだってほんの少しは妄想だったのかもしれないと思ってるんだ。
むしろ、さっきの話を聞いてから「おれはおれなのか」という疑問すらも湧き上がっている。
「私は信じるよ。ひとりだけ知ってるのは不安だよね」
「そうだな。確かに大学二年にもなって公衆の面前で泣き喚くなんて、普通の神経では恥ずかしくて外を歩けなくなるからな」
少なくともふたりはおれがおれであることについては疑ってもいないらしい。
だから、それがいかに妄言じみていようが、とりあえず信じてみるという前提が成り立っているのだろう。
それだけでもおれは、十分救われているのかもしれない。
また新しい水滴が眼の端から滑り落ちる。
「信じてくれて嬉しいよ……イチローの言いようは気に食わないが」
「まあまあ、私はいつでもリッキーの味方だよ。で、これからのことだけど」
「病院を探すんだな?」
「まずお前を入院させてやろうか?」
おもむろに襟ぐりを掴んで締め上げる。
このやりとりもおれを引っ張り上げようという、じゃれあいだ。
……多分。
そう、だよな?
「リッキー、もうやめなよ。とりあえず、三人でそのカレーって料理を作ってみよう」
ふ、女にはこの男のスキンシップがわからないのか。
でもまあ、このあたりでやめておこう。
イチローとアイコンタクトを交わし──あれ?
今、舌打ちしておれの手を払いのけたような。
気のせいか。
それはともかく、カレーを作るだって?
ないなら作ればいい、まさに道理だ。
「仕方ないな。だが、おれの料理スキルでは手伝えることもないだろうから、別の方向から調べてみるとしよう」
「別の方向って?」
カレーという、おれしか知らないであろう料理を作るにあたって、別の方向もなにもないと思う。
「他にもおまえのような変人がいたかもしれない。レシピだって埋もれてるだけかもしれないだろ」
変人という評価はそっくりそのまま返してやりたいが、確かに方々ツテを持つイチローはこういう実体を伴わない調べものに強い。
おれもレナもレポートから何からだいぶ助けられているので、その役割分担には何の異存もなかった。
「じゃあいっちゃんはその調べものと雑用」
「雑用ってなんだよ」
「主に掃除。こんな汚いキッチンで料理させる気なの?」
イチローが珍しくあからさまにイヤそうな顔をする。
ちらっとキッチンを眺めると、そこは人外魔境だった。
ひとり暮らしの男の部屋なんてこんなもん、と言えなくもないが、個人的にはこんなドス黒いオーラを幻視するほどまで放置できる精神的強靭性はない。
この状態で異臭が発生していないのはどういうことなのだろう。
少し不思議である。
というか、ここでやるんだ。
「リッキーはカレーがどういうものだったか、もっとできるだけ詳しく思い出して」
「もう結構限界なんだけど」
「調理手順とか全然聞いてない。そういうのも全部!」
ああなるほど、とは思うが、家庭科の授業以外でカレーを作った記憶がない。
あんこだったら小豆の選別から砂糖の配合までどんとこいなんだが。
とりあえず拒否する理由はないので頷いておく。
「わかったら一週間後に、またここに集合! 私もウチでいろいろ聞いてみるから」
そう言って、レナはさっさと飛び出していってしまった。
その姿はいつもより輝いて見えた。
まるで台風のような女神である。
取り残されたおれたちは、何をするでもなく定位置に座りなおして窓から外を眺めていた。
あ、すずめだ。
「……とりあえずゲームでもするか」
特に用事もないので、のそのそとコントローラーを手にとって対戦の準備をする。
おれもそうだが、イチローは携帯機ではゲームをしない。
やりたいと思うものがないわけじゃないが、外出先でまでゲームをすることに違和感があるのだ。
だからきっと携帯機を購入しても外には持ち出さないだろう。
すると必然的に家でプレイすることになるが、家専用携帯機って……というバカバカしさが非常に強い。
据え置き機でいいじゃない。
据え置き機といえば、以前ココイチのゲームソフトが販売されていたとか聞いたことがあるが、どういうゲームなのか想像もつかない。
ともあれ、人それぞれだから否定する気はこれっぽっちもないが、携帯機専用ソフトとかを見ると忸怩たる云々。
まあ色々思うところはあるが、しょせんはゲーム、好きに遊べばいいのである。
さて、まずは小手調べにカーレースか、受けて立とう。
そういえば、おれはともかくおまえはキッチンの掃除始めたほうがいいんじゃないか。
逃避したい気持ちはわかるから何も言わないが。
「おまえ今日何時までいるんだ?」
対戦がレースから格闘、さらにシューティングに移ったところで、久しぶりにイチローがFワード的スラング以外の言葉を紡いだ。
「ん、別に決めてない。何かあった?」
「いや、夜メシどうしようかと思って」
ちらっとキッチンを見る。
料理はどう見ても無理だし、お湯を沸かすのも手間がかかりそうだ。
「コンビニ弁当とかでいいんじゃない」
おれの視線につられてイチローもキッチンを見た。
今まであえてキッチンと呼んでいたが、正確な名称を探すならそこはゴミ捨て場だ。
イチローの眼には、諦観とかそういう種類の色が浮かんでいるように思う。
今回のことがなくても、早晩廃棄物処理に取り掛からなければならなかっただろうことは想像に難くない。
溜息が漏れた。
「そうだな……ちょっと歩くけど、たまにはココイチとかどうだ?」
それも悪くないな。
同じ時間歩けば家に帰れるぐらいの距離があるだけに、ずいぶんご無沙汰だった気がする。
カレーもしばらく食べてないような……。
……って!
「ココイチあるの!?」




