01 家へ帰ろ
思えば、その日の朝にあった会話がすべての始まりだった。
いつもどおり五分ほどの半覚醒タイムを楽しみ、気合を入れて自室を後にする。
大学入学時、憧れの一人暮らしを打診してみたものの玉砕し、いまだ実家住まいの身だ。
さすがに自転車で十分、徒歩でも三十分やそこらの大学では、数十万円にも及ぶであろう費用を捻出していただくことは無理であった。
別に不満があるわけではない。
家事のほぼすべてをたまに手伝うくらいで済むのは多大なメリットであるし、周辺地域は庭のようなもので新たに行きつけの店を探すなどの面倒も省け、昔からの友人も近場にいることでいたずらに無聊を託つこともない。
改めて考えても、現在の環境に文句を言うべきところなど見出せない。
とはいえ、見知らぬ新天地でひとり、自由気ままなキャンパスライフをエンジョイしたかった、と思ってしまうのも事実なのである。
食卓に用意されている朝食。
まことに結構であるが、あるいは前日から泊まりに来ていた彼女にあつらえてもらったものなら、それはいかほどの幸福であっただろうか。
そんな妄想に浸りながら、ちょっと焼きすぎたオムレツにアプリコットジャムをのせる。
「あら、あなた起きてたの……ちょっと、それお父さんのぶんよ」
なんと幻想の彼女作はおろか、おれのために作られたものですらなかった。
しかし父さんはハチミツ派なので、このオムレツはもうおれのものだ。
もう仕方ないわねえ、などと言いながら母さんはキッチンに戻り、ガスコンロに点火する音が聞こえた。
「今日の晩ご飯、なにか食べたいものある?」
しばらくして、今度はやや半熟のオムレツを持って戻ってきた母さんが難問を持ちかけてきた。
おそらく誰しもが遭遇してきた、「なんでもいいが一番困る」攻撃である。
リクエストがあれば楽なのは理解できる。
例えば外食であっても、どこの店に入るか、また限られたメニューから何を選ぶかで四苦八苦することがあるのだ。
毎日毎日三食考えるのは、おれが想像するより大変なことなのだろう。
子供のころは何も考えず好きなものをリクエストし続けた結果、毎度違うものが食卓に並んでいた気がするのだが。
最後に残ったオムレツのひとかけらを口に放り込み、食器をシンクに溜められた水に漬ける。
「そうだな……カレーがいいかな、もちろん甘口で」
「そう? わかったわ。甘めでいいのね?」
なぜか不思議そうな顔をしている母さんに向けて親指を立て、颯爽と洗面所へと向かった。
もちろん、歯を磨くために。
☆
「ただいま」
年甲斐もなく、久しぶりのカレーに胸をときめかせて自宅の玄関をくぐる。
すでに胃の中身はすっからかんだ。
あの幸せを満喫するために昼食を抜いたといっても過言ではない。
こうして胸いっぱいに空気を吸い込めば、食欲を加速させるスパイシーな香りが……あれ?
いつもと変わらない家のにおいだった。
まだ作っている途中だったか?
ダイニングを覘くと父さんが座っており、食卓には季節のフルーツ盛り合わせなど普段の副菜が並べられ、あとはメインを待つばかりの状態である。
「おう、リキおかえり。おまえは子供のころから計ったように帰って来るなあ」
父さんはそう言うが、夕食の時間は昔からずっと十九時半からと決まっているので、特別何もなければその時間に帰り着くのは当たり前だと思う。
そういえばリキとはおれの名前だが、姓名をフルネームで書くと羽山力、漢字を覚え始めた時分からこっち、ちょくちょくハヤマリョクと呼ばれてからかわれたものである。
中学以降では、なぜか百メートル走などの時よく拝まれるようになった。
速魔力とか、そんなジンクスなのか。
「さあ、早く手を洗ってきて座りなさい」
あれ、もうできてる?
鼻が利いてないのか、風邪でも引いたかな。
一抹の不安を抱えながら手を洗い、いつもの席に着くと、平皿に乗せられたメインディッシュがその正体を現す。
「ほら、あなたの希望通り鰈にしたわよ」
「あ、見事な鰈の煮付けですね」
なんということでしょう。
おれの目の前には完璧に下処理もされたであろう美しい照りを放つ鰈の姿が。
……あるあるネタにしてもこれはちょっとどうなのか。
「母さんの料理は世界一だからな」
「褒めても何も出ないわよ。いいから冷めないうちに食べなさい。ちゃんと甘くしましたからね」
仕方なく箸をつける。
もちろん手を合わせていただきますは条件反射的に行っている。
うん、うまい。
けど。
鰈は嫌いじゃないけど、今日一日熟成されてカレー用にカスタマイズされていた胃が、コレジャナイ感を刺激する。
「おいしくなかった?」
「いえ、想像していたより甘めですが、とてもおいしいです」
「母さんの料理は世界一だからな」
コレジャナイ感は確かにあるんだが、うまいものはうまい。
ぷりぷりとした食感が、ささくれたおれの心を癒してくれるようだ。
淡白な白身と甘い醤油味の優雅なハーモニー。
つけあわせの白髪ネギが、やや甘ったるくなった口内を爽やかにリフレッシュさせることで、飽きを感じることなく食事そのものを楽しませてくれる。
ほのかに香るショウガの風味が白いご飯にマッチすることで、おかわりのタイミングを計算するのもまた一興といえるだろう。
ああ、おれは今、口福を堪能している!
……じゃなくて!
「お母様、どうやら私とお母様の間には、わずかながら認識の差が存在するように思われます」
「息子よ、認識の差とはどういうことですか?」
それにしてもこの母親、ノリノリである。
さっきから喋りがおかしいおれに気付いて、何か新しい遊びだとでも思っているんだろうか。
どうでもいいことだが、顎にごはんつぶが付いてるのは教えるべきか悩む。
「私の言うカレーとは、辛いカレーのことです」
「甘めって言ったじゃない!」
「リキ、そうなのか。甘めって言ったのか」
い、いきなりそんな泣くほどキレなくてもいいじゃないですか。
急だったからむしろおれのほうが涙目になりそうだったじゃないですか。
「言ったけど、それは辛いカレーの甘口のことで……」
「難しいこと言わないで! 辛い甘口ってどういうことなの」
「リキ、はっきりしなさい。甘いのか? 辛いのか?」
話が通じてない気がする。
そして父さんはなんでちょっと楽しそうなの?
「おれが言ってるカレーは、黄色くて、とろみがあって、ニンジンとかジャガイモとかが入ってるカレーのことだよ」
「ばかね、鰈にどうやってニンジンとかジャガイモを入れるのよ」
「リキ、詰めるのか? お腹に詰めるのか?」
まだ鰈の話してるよね?
一瞬、鰈をのせた皿にニンジンとジャガイモのグラッセを追加したものを想像した。
ハンバーグプレート的な。
「そもそも魚の鰈じゃなくて、料理としてのカレーの話をしてるんだよ。ほら、カレーライスとかの」
「鰈ライス? ご飯に鰈をのせればいいの?」
「リキ、詰めるのか? お腹に詰めるのか?」
鰈のご飯詰め……。
ああ、イカ飯とかローストチキン的な発想?
厚みが足りないんじゃないかなあ。
鰈ライスはどうだろう。
鰈をから揚げにして中華風のあんをかけて、ならありかもしれない。
「だから魚じゃないんだって!」
「……リキの言ってるカレイっていうのは、別の料理なのね? それで、それはどこの料理なの?」
「え……? どこの? えっと、ハウス?」
ちょっと自分でも何を言ってるのかあやしい。
ようやく鰈から離れてくれた反動で気が抜けたのかもしれない。
「ハウスってシチューとか作ってるハウスフーズよね? 養殖もやってるの?」
「まあカレーは洋食だけど……」
ん?
シチューも洋食だよね?
あ。
ああ!
「……違うよ? 養殖してるわけじゃなくて、シチューと同じようにルーを作って売ってるでしょ?」
「鰈のルー? 生臭そうね……」
もう、全然鰈から離れない!
おれも鰈のルーとかあったらいやだよ!
「だから魚じゃなくて、カレーだよ! インド料理の、そう、インド料理の!」
そうだ、洋食として日本に入ってきたけど、もとはインド料理だったはず!
なんでこんなことを忘れてたんだろう。
いや待てよ、ジャワって島じゃなかったっけ。
「インド料理じゃお母さんわからないわ。レシピがあれば作れるだろうけど」
「リキ、あまりお母さんを困らせるなよ。おれは、母さんの鰈のほうが好きだな」
「あら、お父さんったら……」
その後のことはよく覚えていない。
ただひとつ言えるのは、夫婦仲がいいのは喜ばしいが、子供の前で全開はいかがなものかということだ。
☆
昨夜の記憶がいまひとつ不確かだが、どうやら両親はカレーというものについてきれいさっぱり抜け落ちているように思われた。
そうでもなければ、あれほど執拗に鰈推しもしないだろう。
しかしそんなことがあるだろうか。
カレーは国民食の地位を確立している料理だ、と言って異議を唱えるひとはそうそういないはずだ。
バーニャ・カウダってなんだっけ? とかいうレベルの話ではない。
健忘などの症状が出ている可能性はあえて否定しないが、それがふたり同時に、というのはいささか現実味が薄いのではないか。
とすると、共謀しておれを陥れようとしている、というのが最有力候補だ。
なんのために、とも思うが、どうせ大した理由は出てこないだろう。
せいぜい「面白そうだったから」とかそんなものだ。
一応、コンビニを探索しておく。
レトルトの棚。
ない。
インスタント麺の棚。
ない。
食品雑貨の棚。
ない。
……品切れだろうか。
チェックしていなかったが、おそらく昨夜カレー健康法のテレビ特集でもしていたに違いない。
念のために学食も見ておこう。
絶品カレーライス、甘口・中辛・辛口・激辛・神辛。
ない。
鬼盛神辛カレーライス(ラグビー部専用)
ない。
気紛れカレー南蛮、あっさり・こってり。
ない。
……いつの間にメニューを改変したんだろうか。
正直、ラグビー部の新入部員歓迎会専用かわいがりメニューは表に書かなくてもいいんじゃないかとは思っていた。
水は飲ませてくれないらしい。
さて。
今のところおれの確認した限りの範囲において、カレーあるいはカレー味の食べ物は見当たらない。
昨夜の鰈事変はともかく、これはちょっと異常な事態ではなかろうか。
仮に、カレーがなくなったとしよう。
ありえないことだとは思うが、仮定の話だ。
まず、海上自衛隊のコックさんが困るだろう、主に金曜日に。
そして、全国のお母様方の献立力が試されることになるだろう。
また、学校給食センターでも安心定番メニューが消えることになり、その座を巡って阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されることになるはずだ。
あと、えーと。
うん。
なんておそろしい。
世界恐慌が起こるかもしれない。
カレーショックである。
しかし、この問題はカレーがないという、ただそれだけに収まるようなものなのだろうか。
引き続き調査を続行しなくてはならない。
☆
あれから一週間。
世界はカレーの存在を除いて何の変哲もない日常を繰り返していた。
毎日食べたいというほどのものではないこともある。
決して調べるのに飽きたとかそういうことではない。
結論として。
おれの生活にはなにも不自由はなかった。




