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気づくと大きな朱色の扉が目の前に陣取っていた。見上げなければ、扉の一番上を見ることができない。なにが起きたの? なぜ、ここにいるの? えっと……うーん、思い出せない。
「それにしても、すごーい」
コトリは、口をポカンと開けて扉の天辺を眺めていた。薄い雲がすぐ横を流れていった。ちょっと肌寒い気もする。いったい、どこ来ちゃったんだろうと小首を傾げた。足下には綿菓子みたいな白い雲が一面広がっていた。ふかふかで雲のトランポリンみたいで、思わず、跳ね回る。
「おい、危ないからやめろ」
コトリは、ハッとなり跳ねるのを止めた。誰も見当たらない。声がしたのに、見当たらない。空耳じゃないよね。
「下だ」
あ! 猫だ。猫がいる。サバトラの猫だ。「可愛い」と連呼し、また、飛び跳ねる。
「ちょ、ちょい、待て」
猫が、雲のトランポリンで跳ね上がる。目をまん丸にして、ジタバタして跳ね上がる。つい、コトリは、ジャンプしてしまった。跳ね上がる猫を見てもなお、笑ってジャンプする。
「ま、待て、待て、待てぇ~」
猫は、爪を立て引っ掛けるようにして雲を鷲掴みして跳ばされまいと力んで揺れていた。やはり、まん丸な目をして。いや、どことなくぶっ飛んだ目つきをしていた。
「こ、こらぁー、ま、ま、待てって言っているのが、聞こえない、のかぁー」
揺れに合わせて、声も揺れている。
「いったい、何をしているのですか?」
扉が開き、心地よい澄み切った良く通る声が、コトリに語りかけてきた。扉といっても、大扉ではなく、その脇にある標準サイズの扉が開いていた。そんなところに、扉があったなんて。コトリは、跳ねるのをやめ、大扉と標準サイズの扉を見比べ、キョトンとした。この大きな扉、意味あるの? じっと、大扉を眺めていた。
「あら、なにをしているのかと思えば、遊んでいる場合ではないですよ、ゴマ」
ゴマは、伏し目がちになってお辞儀をした。その姿もまた可愛い。
コトリは、ゴマって名前なんだと思いながら、女性へと向き直る。
栗色の長い髪を煌かせ、白いドレスを纏った色白のおとぎ話にでもでてきそうな姫様だった。コトリは、そう信じ込み、笑うことも忘れてみつめた。胸が高鳴る。近づくにつれ、だんだん姫様が大きさを増す気がした。姫様は、意外と大きい人だった。いや、違うとすぐ気づく。
「わたしが、小さいんだ……」
小さく呟く。
「あら、やっと到着したのね、コトリ」
なんで、知っているんだろう。この人……。じっと姫様をみつめた。そのとき、一瞬、眼つきが怖く感じた。すぐに、優しげな目元に戻ったが、凍えるかと思えた冷たい眼差しだった。
「ビックリさせちゃったかしらね。それより、ちゃんとお迎えしなくてはいけませんよ」
なんて心地よい響きの声なんだろう。ずっと、聞いていたら魔法にかかったみたいに眠ってしまいそうだ。
「し、しかし」
ゴマの声は、少し震えていた。
「あら、言い訳はいけませんよ」
「はい」
しょんぼりするゴマもまた可愛い。
「あなたの部下になるんですからね。しっかりしなくては、いけませんね」
ゴマは、口を閉ざしたまま頷いていた。
ん? 今なんて言ったの? ブカって何? カブなら知っているけど……。
「あ、あの」
「ふふ、コトリ、ここでは話ができません。ちょっとこちらへどうぞ」
コトリは、姫様についていくことにした。後ろをチラッと見ると、ゴマもついてきていた。
「おいで」
ゴマは、あさってのほうを見て、返事をしてこなかった。なんか、つまらない。
扉を通り抜けると、眩しい太陽が目を射ってきた。眩しかったが、春の日差しのように温かかった。外と中ではずいぶん気温が違う気がした。なのに、ムッとした蒸し暑さは感じない。不思議だな。
「どうぞ、こちらへ」
白いテーブルに白い椅子。コトリは、よいしょっと飛び跳ねるように椅子へと座り、雲の景色の先を見た。チューリップに、ヒマワリに、コスモスに桜の花まで咲いている。思わず、「わぁ」と声をあげた。
「ふふ、綺麗でしょ。四季折々の花たちが咲くのはここだけなのですよ」
「ふーん。でも、ここどこ?」
「あら、まだ、話してなかったのですね」
「はい」とだけ、ゴマは口を開くと、項垂れていた。
「まあ、いいでしょう。コトリ、ここは、天国なのです。わかるかしら、天国って」
「うん、知ってるよ。お母さんが教えてくれたもん。おじいちゃんも、おばあちゃんも天国行ったって……」
天国、天国なの? あれ、それって?
「気づいたかしら、コトリ」
コクリと頷く。
ゴマが突然、コトリの膝に乗ってきた。
「気を落とすな」と目を合わせてきた。優しいんだなと思った。
「いいかしら、コトリ。あなたには役目があるのです。今は辛いかもしれませんが、天国に来るには早すぎるかもしれませんが、しかたがありません。このゴマとともに、任務についてもらいます」
「ニンム?」
「そうです。隊長はゴマにお任せします。コトリは、とにかく今は、ゴマの指示に従ってくれればいいわ。今はね」
わけがわからなかった。あのときは……。三十年前から、ルール無用の魂たちと戦ってきた。その話は、ここで話すような特別なものじゃない。だからスルーするね。あ、駄洒落じゃないからね。
それはそうと、姫様は、えっと、なんて名前だったっけかな。長過ぎて、必死で覚えたんだけど……。しばらく、考えて、パチンと手を打った。ヤマトトトヒモモソヒメ様だ。なんでも、未来が予知できるなんてすごい姫様だって、ゴマから聞かされたのを思い出す。ゴマも、名前を言うたびに、舌噛んでいた。もう、笑い堪えるのが、大変で。
ほんと、おかしくて、おかしくて。
おかしいといえば、ゴマと二人だけの部隊なんておかしいよね。なぜ、ゴマが猫なのかも教えてくれなかったし。それは、別に関係ないのかもしれないけど、隊長が猫だなんてって思うでしょ。しかも、魂を救うとかわけのわからないことのために、死ぬなんて。いや、そんなこと言ったら、失礼よね。人助けって大事だもんね。あ、魂助けだった。まあ、同じことよね。今回の任務も三十年前に予知していたんだから、すごいわよね姫様は。それに姫様、だいぶ一人前の顔付きになったわね、なんて褒めてくれて。それなら、隊長やらせてよって話しでしょ。それに、三十年前に呼ばなくたってよくない? うーん、そんなことないのかな。もしかして、三十年は修行みたいなものなのかなぁ。口では一人前だって言っていたくせに、実はまだ、半人前みたいな感じに思われているのかも……。失礼しちゃう、もう。あ、だからって自信過剰じゃないからね。
なんか、愚痴ばっかり。それがいけないのかな?
コトリは、嫌な顔を思い出してしまい、眉間に皺を寄せた。名前もわからない不届き者が、ニタッとバカにする笑みを浮かべている顔が、脳裏にこびりついて振るい落とそうと激しく頭を振った。
「け、け、け。おまえのような甘ちょろい奴が、魂を救うって? 冗談にも程がある。しかも、猫が隊長ときたもんだ。けっ!」
手を顔の前で大袈裟に振り、頭も左右に揺さぶっている。ニタッと大口を開けた奥には闇が広がっていた。鋭いサメのような歯が列を成している。たった一メートル程の身長しかない化け物だ。今なら、そうわかる。あいつは、天邪鬼に違いない。遠い目をして、嫌な思いを巡らせた。でも、ふとした瞬間どこかの誰かさんに似て見えるときがある。それが誰なのかわからないけど。気のせいよね。きっと。