7
「朝よ、起きなさい」
母が勢いよくカーテンを開け、朝陽が差し込んだ。
「うぅっ、眩しい」
優希は、手を翳し眇めた。
ん? 夢だったのか……。身体が妙にだるい。寝起きだからしかたがないのかもしれないが、それだけではないような気もする。
気がつくと、なぜか、右手を爪の跡が残るくらい力強くギュッと握っていた。まるで別人の手のような感覚だった。ゆっくりと強張る手を開いてみると、小さな透き通った丸い緑色の珠がひとつ。首を傾げながらもじっとみつめ続けるとキラリと瞬き、水が蒸発するようにスッと消えてしまった。そのあとに一枚だけ枯れた花びらが手の中に残った。
枯れた花びらが、脳を刺激する。これは……。
夢で見たコトリの涙をふと思い出す。本当に、夢だったのだろうかと頭を捻り、優希は、溜め息をつくと、なにげなく窓越しの青い空を見上げた。
ふと見上げれば、空がある。
ふと見下ろせば、大地がある。
空も大地も、この目に映る。どちらも、確かに存在する。間違いようのない事実だ。
なのに、なぜだろう?
あの青い空は、この手で掴むことができない。あそこにある土も砂も石ころも手に取ることは容易いことだというのに。
なぜだろう?
目で見ることはができるのに、あの空はどんなに近づこうとも届くことのない遠い存在なんだ。
天国の父のように遠い存在だった。
なぜだか、不思議と変なことを考えてしまう。誰かの言葉だったろうか?
「ごめんなさい……か」
どうしてだがわからないが、心の声のような気がしていた。父に対する心の声のような……そんな気がしていた。
夢で見た枯れた花は、天国へ旅立った父だったのかもしれない。
「父ちゃん……会いたい……」
呟きながらなんとはなしに、また、空を仰ぎ見る。
一瞬、赤い空に見えた気がした。
そんなはずはないと目を擦りもう一度、恐る恐る空を見上げた。
青いいつもの空だった。
まだ寝ぼけているのかもしれないと優希は思い、ベッドから飛び起き階段を降りようとしたが、すぐに足を止めた。
あれ? なんかおかしい。天国の父だって? 父は亡くなったりしてないじゃないか。頭が急に締め付けられる。ふらつきながら、優希は、手摺を使い階段を降りていく。
そのとき、後ろから、「助けてあげる……」と耳のそばを風のように通り過ぎていった気がした。
後ろを振り返ってみたけれど、階段上の窓から青い空が見えているだけだった。
ん? やっぱりなにか変だ。
コトリは? 天国の父は? さっき起こしてくれたのは、母だったろうか……。少しずつ、頭の締め付けがなくなり、スッキリしていく。
もう一度、部屋へと戻った。やっぱり、おかしい。自分の部屋じゃない。
ここは、どこ?
「僕は……僕は……」
頭を抱えて、髪をグシャグシャにした。喚きたかった。暴れたかった。でも、できなかった。瞳の片隅に、一瞬だけにやける基弥の顔が見えて、身体が勝手に震えた。
「おかえり」
と意味深な言葉が脳裏に突き刺さる。
すべてを悟った気がした。ここは、基弥のいた世界だと。いや、そんなことがあってたまるか。これは夢だ、夢に違いない。そうであってくれと内心期待する。が、しかし、すぐにそれは打ち破られた。
「どうしたの? 遅刻するわよ」
母のキョトンとした顔がそこにある。きっと、基弥の母だ。基弥の記憶が支配してくる。頭の中で大津波が襲ってくるようなイメージが広がっていく。あの波に呑み込まれたら……。優希はかぶりを振った。助けてくれと叫びたいのに、グッと口を結んでしまう。目の前で母が訝しげにみつめてくる。どうみたって不自然に映っているはずだ。母は、基弥だと思っているのだから、当然だ。ここで「助けてくれ」なんて叫んだら、気が狂ったと思われるに違いない。
どうしたら、いい?
この状況をどう判断したら、いい?
なにが、どうなっているというんだ。
「基弥、どうしたっていうの? ねぇ」
母が両肩を掴み揺すってくる。どうしたもこうしたもない。でも、口にするわけにはいかない。
いったい、自分は誰なんだ。『基弥なのか、それとも優希なのか?』
まさか、本当は精神異常患者なのでは、なんて思ってしまう。優希という人物は存在せず、基弥が作り出した幻想なのでは。違う、違う、そうじゃない。絶対にそうじゃない。
「僕は、優希だ……」
幻想であってたまるか。
「え? なに?」
なんでもないさ。なんでも……。あー頭がおかしくなりそうだ。母の言葉を無視してしまった。余計心配させてしまっただろうな、きっと。でも、今はこの忌々しい思いをどうにかしてほしい。
ふと頭の中に可愛らしい女の子の顔が浮かび、ハッとなる。そうだ、コトリだ。助けてあげるとかなんとか、言ってはいなかっただろうか。あれは、もしや……。違う、よな。あんな小さな女の子が、どうやって助けてくれるというんだ。そうだ、可愛い妹だ、妹がスーパーガールだとでもいうのかよ。バカな……。
でも……。
優希は、心の中で強くコトリの名を呼んだ。なぜだか、呼ばずにはいられなかった。ほんのちっぽけな直感を信じてみようじゃないか。コトリ、おまえに賭ける。そうだ、賭けてみるよ。きっとこれが正しい判断だと信じて頷いた。
「大丈夫、大丈夫……だから……」
「ん? コトリなのか?」
「大丈夫、大丈夫……」
コトリの声が、胸の奥から聞こえてくる。ちょっと大人びた声に感じたが、間違いなくコトリだ。そう思うと、身体の力がぬけ、眠気に襲われ目眩のようなものを感じた。
あれ? おかしいな。床が、床が……近づいてくる。あはは、変だよな。床が近づいてくるなんて、あるわけがないじゃないか。どうかしている……。
「うっ、い、痛い」
思いっきり殴られたような衝撃を感じ、意識が遠のいていく。その僅かな意識の中で、どこからか基弥の笑い声が、遠くで聞こえた気がした。
気のせいだといいのだが……。コトリ……。
***
「コトリ、侵入成功か?」
ゴマは、あたりを気にしつつ目を向けて声をかけてきた。
「たぶんね」
「新米にしては、上出来だ」
「なによ、偉そうに」
「偉いんだ、隊長だからな。それはそうと、いいかげん、言葉遣いどうにかならないのか」
「はい、はい」
コトリは、口を尖らせそっぽを向いた。どうしてよ、どうして……。もう三十年もこの仕事やっているっていうのに、新米はないじゃない。ありえない。隊長、任せてくれたって……。ふぅ、わかっている。どうして、ゴマが隊長なのかなんて、わかっている。ゴマの指揮は、すごいって認めるけど……。一人前だと思うんだけどな……。
「おい、なにボケっとしてんだ。基弥を呼び起こせ」
「わかってるわよ、まったく」
「ん? なんか言ったか?」
「なんでもありませ~ん」
「ふふん」
ゴマは、苦笑いを浮かべ、先に歩いていってしまった。ゴマの後ろ姿は、なんだか可愛い。猫は好きだから。でも……なんか納得いかない。いやいや、今は、目の前の問題解決に専念しなければいけない。
「はぁー」
ふと、三十年前のことを思い出した。八歳のなにもわからない女の子だった頃だ。今も同じ姿だが……。