6
泣き声が聞こえる。
どこからか、確かに泣き声が聞こえる。女の子だろうか?
空耳でもなんでもない。
助けなきゃ、優希はなぜかそう思った。
身体が勝手に動き、玄関へとダッシュする。
ただ女の子が泣いているだけだ。
いや、違う。そうじゃない。何かが違う。
今、この扉を開けなければきっと後悔する。間違いなく後悔する。
確証はない。開けたことに後悔するかもしれない。扉を開けることは間違いなのかもしれない。優希は、玄関扉のノブに伸ばした手を一瞬止める。だが、開けるべきだと考えを振り払うように首を振る。
靴を履き玄関扉に手をかけ押していく。やけに扉が重く両手で体重をかけてやっとの思いで少し開けることに成功した。履いたと思っていた靴は、踵が顔を出したままで転びそうになった。そんなことはお構いなしと優希は、勢いよく玄関扉を押し開け外へ出た。とたんに、閃光が目を貫く。
眩しい!
目が……。すべての景色が真っ白になった。なにも見えない。
ん?
聞こえる。耳が痛い。やめてくれ、泣かないでくれ。お願いだよ。なんでそんなに泣くんだよ。やめてくれよ、お願いだから……。優希は必死に手で振り払う。鳴き声が消え去るわけでもないのにただただ手を振り払う。真っ白なスクリーンが突然真っ黒になり、じわりじわりと赤、緑、青の光の点滅が襲い掛かってきた。繰り返しなんども振り払おうとしても、赤、緑、青の光は攻撃してくる。いや、それは錯覚かもしれない。攻撃などしていないのかもしれない。
やめてくれ、やめてくれ。
チカチカ色つきの電球が暗闇の中、いたるところに点灯しては消え、また点灯する。赤、緑、青がついたり消えたりしながらグルグル回る。色つきの電球は、次第に輝きを失い、いつしかなにも見えない闇と化した。幻覚だったのだろうか。酸欠になってしまったのかどうにも頭がぼんやりする。呼吸を早めて酸素を取り込もうと息をした。闇がまだ続いている。
身体中の血流が速さを増していく。心臓のポンプは大忙しだ。酸素を送れ、早く送れと赤血球が険しい顔して酸素を運ぶのがわかる。
見えるわけじゃないのに、なんだか血管の中が透けている気がした。その血管に、なにかが映りこんだ気がした。
後ろに、誰かいる? 気配を感じる。
「おまえは、優希じゃない……そうだろ、基弥じゃないか」
優希は耳を塞いだ。違う、違うと何度も心の中で繰り返す。目の前の闇が、微かに動きを見せた。
人?
目の前に、優希と同じ顔がもうひとりいた。ありえない。
「僕におくれ、その身体……僕におくれ……」
「わぁーーー」
優希は耳を押し込めるだけ押し込み、力いっぱい塞いだ。なのに、今度は泣き声が聞こえてきた。針ほどの隙間を掻い潜って、泣き声は聞こえてきた。
泣き声と同調するように、ドクンドクンと胸が騒ぎ立て始め、優希は頭を揺さぶった。胸の奥底はツンツン針で突かれ、どうにもならない痛みが生じる。気が狂いそうだ。やめてくれ、やめてくれよ。
そう呟いたとき、一気に潮が引いていくのを感じた。自分と同じ顔の基弥もおらず、声も、誰かの泣き声も聞こえない。静けさがあたりを包み込んでいく。まるで、細波も立たない湖面を眺めているみたいな安らかな気持ちが落ちてくる。だが、すぐに鳥肌が立った。
湖面がざわつき始め、波風を立てる。安らぎは訪れないのだろうか。項垂れるしかなかった。なにも見てはいけない、聞いてもいけない。ダメだ、心を乗っ取られてしまう。
ポチャンと心の湖面に雫が落ちた気がした。
波紋はユラリユラリと細波をたて心の奥へと圧力を掛け続ける。優希はつい見てしまった。目の前に揺れる湖面を。もしかしたら心が静まるかもしれない。あの細波は自分の心の一部なのかもしれない。
なら、細波を鎮めれば……。
優希は細波を食い入るように見続け波長を合わせ、心を静めようと努めてはみるが、なかなかうまくはいかなかった。
湖面をしっかりみつめ、赤血球や白血球どもの走りをなだらかなものへと説得し始めてみたものの、やはりドキドキは治まらない。見てしまったのはやはり間違いだったのだろうか。そうだとしたら手遅れだ。
なにかが湖面にぼんやり映し出されていく。まさか、また、あいつが……。基弥……とかいっただろうか。あいつが、来るのか?
心の湖面にふと浮かび上がってきたものは、基弥ではなく、父の顔だった。いや、父ではない。いや、父だろうか? 頭がオーバーヒートしそうになる。なにかがおかしい。記憶が乱される。電波妨害を受けた乱れた映像のように、記憶が乱される。後頭部が疼きはじめる。
この記憶は……なに? なんだというんだ?
ありえない記憶が、優希の頭を支配してきた。あれは、父だという記憶が割り込んでくる。優希は否定する。しかし、頭と心が一致しない。もしや、基弥の記憶なのか、これは……。耳を貫く雑音が頭にズンと押し寄せてきた。
基弥が支配しようとしているというのか。なぜ、自分なんだ。なぜ、自分の身体を基弥は欲する。他にもいるだろう。なぜ、自分を選んだ、教えてくれ。
もちろん返事はない。聞く耳は持っていないようだ。やめろ、基弥じゃない。来るな、来るんじゃない。だが、記憶は津波のように押し寄せてくる。優希は基弥の記憶と同居しはじめているのを感じとった。占領はする気はないのだろうか。確かに入り込んでは来たのだが、半分半分の意識が同居している感じがする。
再び、湖面をみつめた。
あれは、基弥の父だ。
頭が認識したとたん、大津波が優希の記憶すべてを攫っていった気がした。必死に記憶を掻き戻そうと両手を伸ばし、藻掻く。しまった、甘かった。まずい、このままではまずいぞ。誰か、誰か津波を止めてくれ。
あ、あーーー。ついに大津波に飲み込まれてしまった。
「父ちゃん」
笑顔の父があっちにもこっちにも打ち上げ花火みたいに輝いては消えていく。頭からこびりついて離れない。
「父ちゃんゴメン、助けられなくて……」
ポロリと涙が零れ、突然、口が勝手に動く。今度こそ、手遅れにしてはいけない。単なる思い過ごしだったらそれでいい。助けなくては、早く、早く、早く。手遅れになる前に、早く。
ザブーン。
突然の大津波が再びやってきた。すると不思議なことに基弥の記憶が引いていった。
「ぼ、僕は……優希だよな」
独り言を呟きひとり頷く。そ、そうだ助けなくては……。ふいに頭の片隅で言葉が投げかけられた。
助ける? 誰を? 基弥の父を? 違う。優希は頭を抱えた。助けるのは自分?
頭の回線が絡みつき、気が焦る。おかしい。頭の回路が、意思とは無関係に暴走していく。止めるすべを思いつかない。記憶は取り戻したはずだ。
ん? 声?
「おまえは、基弥だ。そうだ、そうだ、そうだ」
「違う、違う、違う」
優希は激しく頭を振る。なぜだ、さっきおまえは帰っていったんじゃなかったのかよ。
「僕は、君だよ。ふふふ」
優希は「わぁーーーーー」と叫んだ。あたり一面に呻き声を叫び散らした。そして、しばらくの沈黙が包み込む。
「僕は、ゆ・う・き・だ」
ゆっくり、名前を口にする。
「違うだろ……」
ドキドキが胸を締め付け焦りが募っていく。釣り糸が心臓に食い込んでいくようで息苦しい。
「うううっ」
基弥の記憶がどんどん攻め込んできた。まだ、大津波の攻撃は終わっていなかったのかよ。いいかげんにしてくれ。
「優希だ、優希だ、優希だ。僕は優希なんだぁーーーーー」
記憶を追い出そうと必死に連呼する。だが、身体がドクンドクンと高速に脈打ち、喉の渇きが増していく。ふと、脳裏になにかが見えた気がした。コトリ、だろうか。と思った瞬間、風とともに泣き声が流れ込んできた。
早く助けなければ。行かなければ……。
「どこへ行く」
「う、うるさい」
基弥の声は聞くまいと泣き声に集中し、あたりを眺めた。
助け出すことができれば、きっと、自分自身も救われるような気がした。酸素を一気に取り込め、深い息をつくことができるだろう。もう、このまま直感に身を任せるしかない。そう思った。
聞こえる、聞こえる。嫌な気配も未だに感じるが、放っておけばいい。忘れろ、忘れるんだ。聞こえる、確かに、聞こえる。
微かに泣き声がまた聞こえてきた。助けなきゃ……。
誰を助けるんだったろうか……。まだ頭の中の混線が解けていない。でももう少し、もう少しで解けそうだ。おぼろげながら答えが浮かんでくる。
そうだ、そうだ、助けるのは……女の子、そう女の子だ。
だが、しかし、女の子は本当に助けを待っているのだろうか?
ふとそんな思いに駆られ、躊躇する。勝手な思い込みの可能性だってある。思考回路は、だいぶ混線しているようだ。解けきれてなかったようだ。わけがわからない。基弥のせいだ。
どうにかしなくてはいけないという気持ちが勝り、身体が勝手に動く。もう止めることはできない。さっきまで聞こえていた声はどうやら、治まったようだ。
本当にそうだろうか?
排除することができたのだろうか?
混線は修正されたのだろうか?
自分のことなのに、さっぱりわからない。やはり、まだ、おかしい。泣きたい気分だ。胸がムカムカする。
はぁーと溜め息を洩らすと、不思議と視界が開けてきた気がした。まるでたまりにたまった毒素を吐ききり身体が軽くなる気がした。
ただ単に明るさに目が慣れてきただけかもしれないが、少しずつ目の前の光景が目に映り出す。
白に、黄色に、ピンクに色とりどりの花、花、花、赤に緑の花もある。風が吹けば、一斉にお辞儀をし、見事なまでの花のウェーブが完成する。一面、花の海原と化したなんともメルヘンな世界に優希は立ち尽くし、花畑の景色に見とれていた。
それでも、息苦しさは変わらない。記憶の混濁は続いている。酸素ボンベがほしかった。飲み物もほしかった。ここは、高地なのだろうかと思わせるくらい酸素が薄いように感じた。血液中の酸素が八十パーセントをきってしまったかもしれない。足が重い。声は、聞こえないが、どこかで、様子を窺っているのかもしれない。隙があれば、攻撃するぞという気配が見え隠れしているのを感じる。
ゴクリと唾を呑み込み、泣き声のほうに集中する。とはいえ、やはり足が重い。立っているのがやっとで、一歩も動ける気がしなかった。昔からその花畑を見守っている大樹にでもなってしまったのだろうかと錯覚してしまう。重い、体がカチコチだ。
なぜ、こんなところに来てしまったのだろう。疑問が生まれた。
扉を開けてしまったのは……やはり、間違いだった? わからない。
女の子の泣き声は、まだ聞こえる。
助けるどころじゃない、帰るべきだぞと心が囁きを洩らす。そのほうがいいのではないかと思い始めていた。もとの場所へ戻るんだ。今なら、間に合う……きっと。振り返るまでは、心が高揚していた。
優希はさっと振り返った瞬間、心の高揚が沈んでいった。
扉はどこ?
今、開けたはずの扉はどこにもなかった。もう戻るすべはない。もしかしてかなり遠くに歩いてきてしまったのだろうか。知らず知らずのうちに勝手に足が動いていたとでもいうのか? そんなバカな。まさか基弥の仕業か。いや、それも違う気がする。
扉は消えたんだ。それしかない。なぜ? なんて聞かないでくれよ、わかるわけがないじゃないか。もう前に進むしかない。引き返す道はない。
どこもかしこも、花畑一色だ。一気に心が泥沼へ引き込まれていく。帰れないという思いが心を泥沼化していく。
花たちが笑いかけ、ユラユラ優しげに風に揺れながら両脇の葉を手のように振っている。おいで、おいでと誘ってでもいるかのような歌声を風に乗せ、花たちは手招きするように揺れていた。花たちの笑顔のおかげで、泥沼に沈むことはなかった。ほんの少しの楽しげな心が泥沼から這い上がらせてくれた。ただ、なにかが変だ。身体がどうにかなってしまったのか? とにかく変だ。
花畑の真ん中に立ち、魂の抜け殻のように身体を揺らせていた。花に姿を変えてしまったのか? きっと錯覚を見ているのだろうが、右手も左手も葉脈のある葉に見えた。
ユラユラユラ。花の甘い蜜の香りが鼻先から頭に抜けていく。
頭の片隅に、ふと変な思いが浮かび上がってきた。
本当は、基弥なのだろうかと。優希だと思い込んでいただけなのではないだろうかと。優希は作り上げられた人物だというのか。まさかなぁ。
モヤモヤと頭の中が真っ白な霧に覆われる。なにをしていたのだろうと、フラフラ、ユラユラ、花とともに揺らめきぼやけた景色を眺め回す。あまりにも動悸が激しく意識が朦朧としている。またしても基弥の思惑に捕まってしまった?
諦めかけたそのとき耳がピクリと動き、なにかを捉えた。
鳴き声だ!
壊れたスピーカーが復活し、すべての音が蘇りハッと我に返り、その場で花畑の隅々を見渡し女の子を探し出す。
聞こえる、聞こえる。どこだ、どこからだ!
助けなければ……。
心を落ち着け目を閉じ聞き耳をたてる。聞こえる、鳴き声が聞こえる。
後ろからだ。
優希は振り返り、一人の女の子を捉えた。揺れる花々に隠れるようにしゃがみ込んだ女の子を捉えた。走り出そうと脳から命令が送られる。だが、その命令は足へと伝達されることなく、壁にぶち当たり目的地へ行くことを放棄する。
足がピクリとも動かない。地面から足が離れない。
見えない壁も立ちはだかる。すぐそこにいるのに、近づけない。顔がはっきり見えないが、髪が風に揺れている。どうして、動かない。
足から根が張り出していた。本当の花になってしまったのだろうか。両手に目を移すが葉っぱなどではない。当たり前だ、五本の指のある手だ。掌だ。足元にも根など張ってはいない。花になるはずがないじゃないか。
もう一度、一歩踏み出そうと試みる。
動かない、なぜか手も動かせなかった。思っているよりも体力は奪われてしまっていたようだ。意識はしっかりしているのに、身体は強張り大蛇にとぐろを巻かれてしまっている。根がはり、大蛇が邪魔をする。またしても幻覚が現れた。動けるはずがない。
いや、大蛇じゃない。
人だ。男の子だ。
どこかであったことのあるような男の子。優希に向かいにいるのは、基弥だった。鋭く睨む目つきが脳裏に焼きつく。なぜだ、なぜ、そこまで、敵意を剥き出しにする。なにか、悪さをしたっていうのか、教えてくれ。
気がつくとコトリがこっちをみつめ、立っていた。零れた涙を両手で拭きながら、じっとみつめてくる。身体を締め付ける基弥の姿は消えていた。
「ごめんなさい……」
コトリは謝った。潤んだ瞳で寂しげに謝ってきた。
枯れかけた一輪の花を手にして、謝ってきた。白い花柄のドレスが光に反射して眩しい。印象的な大きな碧い瞳が涙で濡れている。キラリと瞳が瞬いたと同時に、瞳から頬へとスゥーッと一滴の涙が零れて一輪の花に落ちた。
なぜ、謝るのだろう?
理由はわからないが、謝ってくる。なんども、なんども。
「ごめんなさい……」と。
ごめんなさいのあとに続く言葉があったような気がするが、その言葉がなぜか聞こえてこなかった。
ウェーブがかかったショートカットの黒髪が、そよ風に揺れていた。小さなぷっくりとした唇が、ゆっくりとまた動く。間違いなくコトリだ。
「ごめんなさい」と呟く。
優希は、見た。コトリの言葉の先に、基弥の姿を見た。コトリは基弥に謝っている。
なぜ?
枯れかけた一輪の花を、手渡していた。基弥は、一瞬、安らかな顔を見せていた。が、すぐに、向きを変え、睨みつけてきた。
「おまえが、泣かせたのか!」
「ち、違う、よ」
なぜ? どうして、そうなる。
コトリは基弥の手を掴もうと手を伸ばしていた。基弥はその手をすり抜け、向かってくる。違うって、違うって。
優希は身動きが取れないまま、強い光の矢が目を貫いた。手を翳し、迫り来る基弥を眇め見た。シルエットの基弥に、もうひとつのシルエットが浮かんだ。猫、だろうか。二つのシルエットは止まって見える。どうなっている?
そう思った瞬間、基弥の姿は目映い光の渦に、掻き消された。猫とともに。コトリがどうなったのか、わからない。一緒に姿を消したのだろうか。疑問は膨れ上がる。
照明弾でも打ち込まれたのか、また、目を貫くような閃光が襲う。