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信号が黄色から赤になり、車が停車する。
「母ちゃん、ごめん」
「謝ることないのよ、大丈夫、すぐよくなるから」
「うん」
優希は返事をすると、ゆっくり瞼を閉じ車のシートに寄りかかった。
「あれ?」
母が素っ頓狂な声をあげた。
どうしたのかと思い、重い瞼を開けフロントガラス越しに前の通りを覗く。学校に行ったはずのコトリが反対車線側の歩道を歩いていた。
いや、そんなはずはない。
コトリがサボるようなことはするはずがない。
優希は、パニックに陥りそうになった。胃液が逆流してくるみたいに、吐き気もしてくる。熱があるせいかもしれないが、胸の奥で鼓動が早まるのも感じた。
こんなところに、コトリがいるはずがない。やっぱり、他人の空似だろう。いや、幻だろうか。そうだ、幻覚だ。これは、幻覚だ。
よく考えてみろよ、ここに今、コトリがいるとしたら……車より足が速いのかという疑問が……。
そんな人間離れした妹を持った覚えはない。ありえない。
だが、気になる。気になるが、胸の奥から込み上げてくるムカムカが勝り、頭の回転が低速になる。焦点も合わなくて、景色が回って見えて目を閉じた。
気配で母も気になっているのがわかる。チラッとだけ目を開くと、コトリ似の女の子は、おそらく、車の後方へと通り過ぎていったのだろう。姿は消えていた。バックミラーを気にするように、母はチラッと目線を送っていたが、軽く頭を振ってまた前をしっかり見て信号を確認していた。
まだ、赤のまま。
母も見えている? なら、幻覚ではないの、か?
いや、違う。きっと違う。母はなにか別のものを気にしていたんだ。そうだ、そういうことに、しておこう。ああ、気持ち、悪い。
優希は、また瞼を下ろした。が、急に耳鳴りがキーンと鳴り響き始め眉間に皺を寄せた。耳を塞ぐように両手で覆ったが、耳鳴りは鳴り止まない。鳴り止むどころか、なにかが、優希に語りかけてくる。耳鳴りとともに、なにかが弾けて瞳に光が飛び散っていく。流れ星がキラキラ目の前を飛んでいくようでもあり、線香花火を近くで見ているようでもあった。目を閉じているはずなのに、映像がはっきり見えた。
頭が割れそうだ。胸の奥で鼓動も激しくなっていく。身体が熱い。
どこかで、コンコンとノックする音が聞こえた気がした。
優希の心に自分に似た男の子の顔が浮かび、ハッとなる。
「あれは……確か……」
知っている気がしたが、思い出せない。おかいしな、誰だったろうか。
「も・と・や……」
無意識にそう口が動き、心臓もドクンと反応する。
「え?」
母の声が飛んできたが、言葉の続きはなかった。アクセルを踏み出だしたのかエンジンの回転数の上がる音がして、車がゆっくり動き出す。信号が青に変わったのだろう。
「優希、どうかした?」
と、母が再び語りかけてきた。そのとき、ガシャーンと優希の左側からなにかが衝突してきた。
***
優希の乗った車は、衝撃を受け飛ばされ中央線を越え反対側の電柱へと衝突して止まる。助手席側の車体が凹んでしまっているようだ。ベコリと抉られるように凹んでしまっているのは間違いない。優希の体に車のドアがめり込んでいるかのように見えた。そんなはずはない。なんてことだ。左側から来た自動車が信号むしして突っ込むとは……。
大変なことになったぞ。ゴマはギュッと口を閉じ眉間に皺を寄せた。
***
さすがに、優希はじっと瞼を下ろしているわけにはいかなかった。優希は朦朧とした頭をあげ、あたりに目を向けた。なぜか、昼間なはずなのに、夕方みたいに茜色に見えた。
母は大丈夫だろうか。心配なはずなのに、ものすごい眠気に誘われる。
ダメだ、瞼が重い……。
「母ちゃん……」
返事はない。まさか……。
すぐ隣にいるはずなのに、優希には首を横に向けることさえできなかった。とっても、とっても眠くてたまらない。温かいお湯を頭にかけられているような気もする。温かいお湯だと思ったのは、鮮烈な真っ赤な血だった。ひび割れて折れ曲がったバックミラーに映った顔が血だらけだった。
もう眠くてしかたがない。考える気力もなくなっていく。
茜色の空が優希の瞳に映っていた。茜色の雲が流れていく。街路樹まで茜色に染まって紅葉していた。いつの間に夕方になったというのだろう。
意識が薄れ行く中、優希の心に眠るなにかが疼き始めて飛び立とうと蠢いていた。
コンコン、コンコンとどこかでノックする音とともに、ガチャリと鍵を回し扉が開く音を聞いた。扉から誰かが顔を出し、どこかで聞いたことがあるような声を聞いた。自分にそっくりな顔のようで違うようでもある顔が、開く扉から覗き込み飛び出していった。
「あれは……」
優希は口を動かした。間違いなく口を動かしたはずだ……だが、動かしたという感覚すらない。わけがわからなくなった。
意識を失う寸前に、茜色の空へ向かってコトリが飛んでいくのを目にした気がした。遠い空から聞こえるはずのない声とともに。
「お兄ちゃん……」
その先の言葉は、暗闇に消え去った。いったい、これは、幻なのだろうか。コトリはいったいなにを言っているんだろう。ここにいるじゃないか「お兄ちゃんはここにいるじゃないか……」と掠れた声でコトリへ呼びかけた。でも、コトリには聞こえていないようだった。
変わりに聞こえてきた変な声にハッとする。
「ふん、おまえは基弥だろ」
基弥だって?
誰だよ。どこから聞こえてきたんだ。どうしたいんだよ。あ、頭が割れそうだぁ。
突然、ボンネットあたりにドンと音が聞こえた。霞みゆく風景に、一匹の猫の姿を見た。ボンネットの上にいるのは、サバトラの猫だった。猫の二つの瞳が黄色く光る。今度はなんだ、また幻覚か?
まだ、おまえは、死するときではない。と語りかけてきた気がした。猫が?
まさか、そんなこと……。眠い。どうしようもなく、眠い。猫になんとなく、軽く微笑んだ。うっ、ポケットが……熱い。だがすぐに熱さが薄れていく。手の感覚がどうやらなくなっているようだ。動いているのかさえわからない。熱いと感じたのは気のせいなのかもしれない。
優希は空を見た。
五つの小さな光が意思を持ったみたいに、四方八方に瞬き飛んでいくのを目の当たりにした。確かにその光はポケットから飛び出していった。そんなこと、あるのだろうか。そう感じた瞬間、フッと身体が軽く持ち上がった。
ウソだろ。
優希は空へと羽ばたいていた。なぜかわからないが、自分に似た男の子も隣で飛んでいた。しっかり手を繋ぐようにして飛んでいた。ただ、その男の子の顔は、睨んでいるようにも見えた。ハッとなり心臓が縮み上がる。君は基弥なのかいと、言いかけて心に留めた。空に目を移すと、茜色のような空はなく、星が瞬く夜空が訪れていた。綺麗だ、とても綺麗だ。だが、正面に見えるあいつは禍々しく浮かんでいる。
紫色の月。黄色い月ではなく、紫色の月。存在感を振りかざすように身を乗り出してこっちを見ろと不敵な笑みを浮かべているみたいだった。
「天国に行くのだろうか、僕は……」