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「ボクは、ボクは……」
「逃がさないぞ。待て、待てと言っているのが聞こえないのか、基弥!」
「ボクは、ボクは……」
「待て、ダメだ、そっちへ行くな!」
「ボクは、ボクは、基弥じゃない! 優希だぁ!」
視界が開け瞳に光が入ってくる。まるで流れ星が飛び込んでくるかのような錯覚に陥った。キラキラ、キラリンと。気がつくとコトリが馬乗りになって身体を揺さぶっていた。コトリの重さが実感できる。そんな重くはない。そんなことを思っていたら、コトリが両手を振り上げ攻撃してこようとしていた。
「わぁーーー」
頭を抱え叫んだ。その瞬間、変な声が耳を貫いた。
「次は、ないぞ……」
「わぁーーー」
優希は、身体を起こし同時に肩を揺らして息を荒げた。額の汗を手で拭う。パジャマも汗でべっとりして気持ちが悪い。頭がクラクラする。隣で、コトリがひっくり返ったままの格好で目を見開きびっくり顔をしていた。が、すぐにニコリと微笑みを送ってきた。
「夢……か? はぁー」
優希は目をしばしばさせて、考えた。『基弥』って誰だろう。でも、本当に夢だったのだろうか?
頭の中に、重低音に響く『基弥』という声が蘇る。「次は、ないぞ」という聞き覚えのない声もこだまする。急に身体が燃えるように熱くなり、目を閉じ真っ白なシーツが引かれた敷布団に倒れこんだ。
「お兄ちゃん?」
「大丈夫、大丈夫だ」
言葉ではそう口にしたが、頭はぼんやりして朦朧としていた。コトリがなにかを言っている。すぐそばにぼやけたコトリがいる。目が翳み、ぼやけたコトリがいる。声は遠くのほうで聞こえていた。
「大丈夫……」となんとか口にする。
自分で自分がなにを言っているのかさえよくわからなくなった。コトリがなんて言っているのかわからないが、大丈夫としか言えなかった。今いたはずのぼやけたコトリが、姿を消した。どこへ行ってしまったのだろうと思ったが、気持ちが悪くなりムカムカしてきた。考えることすらままならない。こめかみあたりにズキンと打ちつけられるのを感じて目を閉じた。
いったいどうしちまったのだろうか。コトリ、助けてくれ……。
***
コトリはひとりで手摺りを両手で掴み一段一段慎重に階段を下りる。早く降りたいのに、階段が急な角度なことに内心腹を立てながら足を進め、最後の一段をポンと跳ね着地すると着地成功とばかりに笑みを浮かべ、台所へと走った。
「ママ、お兄ちゃんのおでこ、熱いの。早く来て」
「え? 熱い」
「そう、熱いの。顔、まっかっかで、ふぅふぅ言ってるよ」
コトリの言葉に母は、二階の子供部屋へとドタドタ音をたてて上がっていってしまった。「あ、待ってよ」と叫び、コトリは手摺を使い急いで登っていく。あまりスピードが上がらないことにイラつきながら登っていく。二階に着いたコトリは、母の隣に陣取り優希を覗き込む。
「優希、大丈夫?」
「うん……」
トロンとした死んだような目で蚊の鳴くような弱々しい声で返事をする優希がいた。大丈夫じゃないよねと、コトリは母の顔を見た。
母は優希のおでこに手を触れると、自分のおでこに手を当てている。
「少し熱いかしらね」
「大丈夫だよ……」
赤く火照った顔で引きつった笑顔を見せている。大丈夫じゃない、絶対に。コトリは窓の外をチラッと見た。窓の外のベランダには、少し開いた窓の隙間から覗くゴマがいた。ゴマはゆっくり左右に首を振って一度だけパチリと瞬きをする。
今は手を出すなと、ゴマは言っているのだろう。コトリはそう判断した。
「優希、お医者さん行こうか」
ゆっくりだが、首を振る優希。
優希の仕草は『医者は好きじゃない、行きたくない』そう感じさせる振り方だった。勝手な思い込みかもしれないけど、コトリにはそう感じた。
「ダメよ、今仕度するから待ってなさい。お医者さんに行くからね」
優希もしかたがないと諦めた感じで渋々頷いていた。言葉は、でてこない。きっと、だるくて話もしたくないに違いない。
「ちょっと、お父さん、お父さん、お医者さん連れて行くから、優希連れてきて」
母は階段を駆け下りながら大声で呼びかけると、鍵を取り愛車へと向かっていった。コトリも急いで追いかける。とはいえ、一段一段慎重に。イライラが募る。父が、階段を上がってきて、すれ違いざまコトリの頭を撫でていった。やっとの思いで階段を下りきると、父はすでに優希を抱き上げ下りてきていた。
母はシルバーグレーの軽自動車に乗り込み、エンジンをかけている。抱き上げた優希を父が助手席へと座らせようとしていた。が、優希の重みを支えるのが精一杯でなかなか車の扉を開けられないでいた。コトリに向けて、目配せしてきた父。コトリは、靴の後ろを踏んづけた格好のまま摺り足気味で車へと向かい、扉を開けた。そのとき、車の下にゴマがいることに気がついた。なにかを銜えていた。ゴマの心の声が、コトリに聞こえてきた。優希に渡せと、心に響いてドキッとした。コトリは頷き、受け取るとそっと優希のポケットに滑り込ませた。
「お兄ちゃん、これ、持っていって」
コトリが滑り込ませたのは、星形を描くように珠が配置された五角形のブローチだった。青銅製の薄汚れた骨董品ってところだろうか。
どこからこんなものを探し出してきたのか不思議なくらいだった。
優希はぼんやりとした眼を向け、なんだという顔をした気がした。
「おまもりだよ」
コトリはニコリとして優希を見て囁いた。
言葉は返ってこなかった。それだけ、億劫なのだろう。溜め息を洩らしダルそうにして、コトリに返そうとポケットに手を入れかけた優希を見て、コトリは頭を左右に振った。ちょっとだけ口を尖らせ優希のトロンとした眼をじっとみつめた。
優希はわかってくれたようだ。ポケットに入れた手を出して少しばかり口角を上げ力なく笑みを浮かべ、赤みを帯びた手でコトリの頭をポンポンと軽く叩いてきた。
コトリもニコリと笑みを返した。一瞬だが、優希が元気なときの顔になった気がした。
「じゃ、行ってくるからね。お父さん、コトリをお願いね」
ふたりを乗せた軽自動車は、ゆっくり加速して走り去っていった。車のナンバープレートの2525が遠ざかっていく。まるで、ニコニコ笑って大丈夫だよと車が言っているような気さえした。本当に大丈夫だろうかと、不安が過ぎる。妙な胸騒ぎを感じた。けど、今は手を出さないほうがいいんでしょ。足元のゴマに目を向けた。ゴマはコクリと頷いていた。
コトリは優希を乗せた小さくなり見えなくなる車に手を振り続け見送ると、一旦家の中に戻り用意していたランドセルを背負い「じゃ、パパいってくるね」と手を振った。足早に歩みを進め、学校へいつも通り向うふりをして角を曲がった。そこには、一足先に待っていたゴマがいた。
「ふぅ、この身体も疲れるわね」
「まったくだ」
コトリは額の汗を手で拭った。ランドセルも下ろし、肩を軽く回して腰に手をあて首もグルリと回した。自分の身体のはずなのに、どうにも縮んでしまった服を無理に着ているような感覚に陥ってしまう。
「おやじみたいだな。まったく」
「なにが?」
「その仕種だよ」
「ふん、いいじゃない。そういうこと言うんなら、あんただって猫でしょ。口利いちゃダメじゃない」
「う、うるさい……誰に口利いていると思っているんだ。ふん、まあいい。そんなことより、仕事だ、仕事」
「はい、はい」
コトリは投げやりな口調で返事をした。
「おい、『はい』は一回だ。何度言ったらわかるんだ」
「は~い」
「おまえって奴は……」
「ふふ、ゴメンゴメン。ちゃんと仕事しますから、許してね」
コトリはゴマにウインクした。
「ふん、そんな甘えてきたって許してやるか」
「いいですよぉーだ」
ゴマは口を閉じてしまった。怒ったかなとコトリは思ったが、ゴマの顔色を見て大丈夫だと判断した。猫だが、ゴマには表情がある。面白くて、ついからかってしまう。
「さてと、A作戦失敗ね。B作戦に移行しますか、ゴマ隊長」
「お、おう」
隊長と呼ばれてまんざらでもない様子に、コトリは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。ゴマは弾むような足取りで遠ざかっていった。本物の猫みたいに尻尾を振って、じゃあなとでも言っているみたいに遠ざかっていった。コトリは尻尾をみつめゴマを見送り「よし」と意気込み準備を整えにゴマとは逆方向へと歩き出した。
B作戦、心への侵入開始だ。