22
翌朝。予定通り中禅寺湖の遊覧船乗り場にやってきた。ワクワクだ。
待合室は、ちょっと暗い感じがしてなんとなく田舎の無人駅を思わせる雰囲気があたりを包み込んでいる。その一画に誰も手をつけそうもない古いテーブル型のゲーム機が数台埃を被っていた。なんだか嫌な予感がする。いやいや、ないない。大丈夫だって。
あれ?
「父ちゃん」
基弥は父の袖を引っ張り、指差した。
ゲーム機のお金の返却口になぜか百円玉が三枚重なっていた。
誰かが取り忘れたのかもしれない。
周りを見回してみても、その場には父以外誰もいなかった。まだ、運行時刻には少しばかりの余裕があるせいか、それとも、すでに遊覧船に乗り込んでいるのかは定かではない。いや、乗り込んでいることはありえない。
きっと、みんなのんびりしているのかも。始発便だし、こんなものなのかもしれない。
父は光る銀色の硬貨に目配せをしてみせ「少し時間あるから、ゲームでもしてな」と耳元で囁いた。
基弥はわかったと無言で頷き、もう一度、三枚の百円玉を見た。
今ここに、三百円があることを知っているのは二人だけ、基弥は、そっと三百円を手に取り、一枚の硬貨をゲーム機に投入した。
泥棒になってしまった。
いや、神様のちょっとした計らいでお小遣いをくれたに違いない。楽しんでしまっても文句を言うものもここにはいない。これもひとつの旅の思い出だ。
調子のいい解釈をし『ラリーX』を楽しんだ。車で迷路みたいなところを走り回り、追ってくる車から逃げながら旗を取るという単純明快なゲームだ。基弥は、このゲームが結構好きだった。ちょうどいい時間潰しになった。
父を見ると、微笑んでいる。今日はついている、きっと。ついているといっても、幽霊が憑いているわけじゃないぞ。自分で言ってブルッと震えた。その震えが致命傷になって、せっかくもうちょっとでステージクリアだったのに、車を敵が迫ってくるほうに動かしてしまい敵の車と衝突してしまった。
THE・END!
うっ、こめかみが疼く。その疼きと同時に一瞬、景色が茜色に色づいたように感じた。な、なんだ……。
「ゆ、ゆうき……ゆうき」
え? なに? 誰、なの?
頭が割れそうだ。痛いよ、やめてよ。基弥は眉間に皺を寄せかぶりを振った。『ゆうき』なんて知らないよ。なんで、その名で呼ぶんだよ。
あれは、あれは、なに?
車の助手席側がべこりと凹んで誰かが血で染まっていた。見ちゃダメだ。覗いちゃダメだ。そう思うのに、勝手に足が前へと進む。え? ウソ。そんな、バカなことってあるかよ。自分の顔がそこにあった。もう、なにがなんだかさっぱりわからない。頭の中が翳んでいく。ここは、どこ? 君は誰?
あああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーー。
「基弥、基弥、大丈夫か?」
肩に触れた手の温もりと父の声にハッとなる。
ここは、遊覧船乗り場の待合室?
そ、そうだよな。父は、湖を眺めていた。声をかけてくれたと思ったのは気のせいだったのだろうか。呆然と父の背中を眺めていると、ボォーンとゲーム機から爆発音が響いてきた。あ、なにもせずに、ゲームオーバーになってしまったようだ。まったく、なにしているんだか。
でも、今のは? あれ? なにをしていたんだっけかな?
なにって、ゲームしていたんだろう。しかも、あっけなくゲームオーバーしちゃって。いや、そうじゃなくって、なにか変なもの見たような……。えっと、うーん。おかしいなぁ、思い出せないや。
ま、いいか。気を取り直してゲームで遊ぼうっと。
気づくと画面が消灯していた。ん? どうした? もしもーし。基弥は、真っ暗な画面をしばらく眺めたが、ゲームタイトルは出てこない。音もない。壊れてしまったのかと思い軽く画面を叩いてみた。もしかしたら、ブオンとかいって画面復活するかもしれないだろう。しかし、まったく無駄な行いだと気づいた。ゲーム機のコンセントが抜けていた。
なんてこった。で、でも、なぜ?
誰かのいやがらせか?
いや、そんなことができる人はいなかったはずだ。
不満たらたらだけど、諦めることにした。ゲームはおしまいだ。
基弥は膝に手を置き勢いよく席を立とうとした。そのとき、真っ暗な画面が一瞬パッと光を放った。
「ごめんなさい。もう少しの辛抱だからね」
ゲーム機は、そんな言葉を残してまた、ただの暗く黒い画面へと戻った。
基弥は、中腰のまま固まった。寒気すらする。
コンセントは抜けている。なのに……。
もしかしたら、最初からコンセントは抜けていたのかもしれない。基弥は、ゴクリと唾を呑み込んだ。
基弥の凍えて固まった身体を解凍してくれたのは、父の声だった。
「そろそろ行くぞ」
「う、うん」
ゲーム機の画面は、真っ暗なままなんの変化もみせようとはしなかった。今のは幻だったんだと言い聞かせ、基弥は父と桟橋へと向かった。
天気は薄曇といったところだろうか。快晴だったら、もっと気持ちがよかったのになぁと空に一瞥をくれてやる。桟橋の下には碧い波がゆれる湖面が二人を出迎え、ポチャンポチャンと小さな波音の言葉をくれた。
ワクワクした気持ちが込み上げてくる。
遊覧船を間近にすると興奮が最高潮に達した。窓際に座るとすぐに湖面のユラユラに釘付けになる。なんか心地いい。船は二階席もあるが、やっぱり一階の席で揺らめく湖面がそばに見えるほうがワクワクする。
チャポン、チャポンの波音の言葉は、湖が話しかけてくれているみたいで笑顔になれた。
「母ちゃんも来ればよかったのにね」
「そうだな。でも、母ちゃんは、船嫌いだからな。きっと来ても乗らなかっただろうけどな」
「そっか、そうだね」
遊覧船がゆっくりと動き出す。
いよいよ出航だ。船はほとんど揺れることはなく、母ちゃんが乗っても怖くはないはずだった。
ふと基弥は、日光に母が来ていたらと想像してみた。母は、桟橋に来ることもなく、待合室で手を振っている。そんな映像が浮かんできて、苦笑いを浮かべた。やっぱりダメだったね、みたいな感じが目に見えるようだった。
遊覧船は、時間をかけ湖を一周する。五十五分間の船旅だ。
こんもりとした木々がびっしりと湖の周りを埋め尽くし、空へと深い緑を伸ばしている。一番天辺あたりが、雲なのか霧なのかわからないが蓋のように緑を押さえつけていた。天気がよければ、天辺まで見えていたことだろう。
「ほら、あれが、男体山だ」
「なんたいさん?」
「ああ、男体山。そうそう、男体山は火山なんだぞ」
「え! 大丈夫なの?」
「どうだろな……」
父はそう言いながら、笑っていた。その笑顔に、基弥は大丈夫なんだろうなと思うことにした。
景色は、どんどん動いていく。遊覧船が波に揺られどんどん進む。基弥の心を躍らせる。
チャポン、チャポン。
また、湖が語りかけてくる。目を閉じると、ホントに何かを伝えようとしているのではと錯覚してしまう。
「お兄ちゃん」
「え?」
基弥は、咄嗟に船内を見回してみた。どこかに、また、白いドレスの女の子がいるのではないかと、気になったからだ。見える範囲には、女の子の姿は見えなくてホッと胸を撫で下ろした。
女の子の声に感じた、けど……。
あの声は妹? いや、妹はいない。いや、いたんだろうか?
なに考えているんだか、おかしいよな。自分に向けられた言葉かどうかもわからないじゃないか。ほら、向こうに楽しげに笑う家族がいるじゃないか。あれは、兄妹だよな。あの女の子が兄貴に言った言葉に違いない。バカバカしい。
それでも、真剣に考えてしまう。難しい顔って今の自分の顔をいうんだろうなぁ。などと窓に映る自分の顔を見た。
え? 目の錯覚?
窓に映るはずのないものが……。
女の子と仲良く手を繋ぐ映像が浮かびあがってきた。笑い声が聞こえてきそうな笑顔を見せ、手を繋いで歩いている。あれは……自分なのか? 女の子は?
ポチャン、ポチャン。
波音に邪魔されるように映像が乱されたかと思うと突然途切れて、目の前に碧く揺れる波だけが見え始めた。
今度は、ユラユラ揺れる碧い湖に目を奪われる。
「ごめんなさい……ゆ・う・き、目を……覚まして」
ドキッと心が揺れた。
身体が、二分化されるような変な感覚が襲い掛かった。どういうことだ、これは? なんだこの声は? 待てよ、待ってくれよ。耳を塞ぎたくなった。けれど、腕が麻痺してしまったのか思うように動かすことができなかった。
「ゆうき……」
ぼそりと呟き、窓越しに空を見上げた。女の子の映像に、変な幻聴に、わけがわからなくなる。だが、なにかとても大事なことを思い出せそうな気がした。でも、その思いは、ポンと父に肩を叩かれ、すぐに泡のように掻き消されてしまった。
「どうした? つまらないか」
基弥は、かぶりを振ると「楽しいよ」と笑いかけた。
「ほんとか? 気分悪そうだぞ」
「ううん、ほんと大丈夫だよ」
「そっか、ならいいけどな」
父は、ポンポンと肩を叩いて微笑んだ。
遊覧船は、菖蒲ヶ浜、立木観音前と進んでいく。乗り込んだ船の駅中禅寺の最終駅まで乗っていく予定だ。一周ルートだ。
船内に流れる案内を聞きながら、大自然を満喫し心地よい揺れを楽しんでいた。
あ! あれは。見てしまった。その瞬間、心にチクリと針が刺さったようにズキリとした。
見てしまった。基弥はまた、見てしまった。そう思わずにはいられなかった。
せっかくの穏やかな一時が、その瞬間、嵐へと変貌していってしまった。
湖の途中に小さな島がある地点での出来事だった。
父は気づいてなかったみたいだけれど。島に確かに立っていた。白いドレスの女の子が。見間違いようがない。人のように見える木ではない。あんな服を着た木があるはずがない。
あれは、目の錯覚だったのだろうか。
いや、違う。
基弥と確かに目が合った。声も微かにだが聞こえてきた。空耳なんかじゃないはずだ。
「あっ!」と、一言だけ。
しまったとでもいう感じで、木の後ろに隠れたように見えた。今さら、隠れることもないだろう。もう何回も基弥の視界に入り込んでいるというのに。もしかして、わざとか。
そう、今さら隠れることはない。では、隠れたわけじゃなかったのだろうか。
それにしても、人があの島にいることはありえないはずだった。スワンボートも手漕ぎボートも見当たらない。なら、目の錯覚なのか……わからない。
あれは、幻覚なのか? 幻聴を聞いたというのか?
怖くて、父には言い出せなかったけど。何か変だった。
さっき見た、仲良く手を繋いでいた女の子の映像が思い出された。同じ女の子だった気がした。
「僕は……、えっと……」
心臓がドクンと反応していた。いつもと違う感じでドクンとなった。不整脈が起きたみたいだった。
今日は、いろんなことが起こりすぎだ。なぜだろう。
基弥の心は、グラグラと揺れていた。あの女の子は、なんだっていうんだ。忘れていることがあるような気がする。とても不安でならない。
そんな出来事があったせいで、小島付近から船の駅中禅寺に戻ってくるまであまり記憶がない。ただ、気づいたときには、すごい霧が発生していた。あんなにはっきりとした景色が見えていたのに。桟橋に停泊するときには、一メートルも先が見えないような状況下におかれていた。
まるで、自分の心の状況を映し出しているみたいに、すべてが霧に包まれていた。
その後、遊覧船は運航中止となった。
まさかとは思うが、島にいた女の子が原因ではないだろうか。
あれは、幽霊……。それは、ない。確証はもてないが、そうだと心が告げている。
基弥はかぶりを振り、『幽霊』という二文字を掻き消した。
もしかして、これは、夢?
また、頭を振って『夢』という言葉も掻き消した。
基弥は、首筋を擦った。なんとなく、頭が重いような気持ち悪い感覚があった。
「基弥、どかしたか?」
「ううん、別になんでもないよ」
「そうか、それにしても、ずいぶん霧が出てきたな」
湖があるべき方向に目をやる父。基弥も目を凝らして見てはみたもののそこに湖があるかどうかさえわからなくなっていた。
「霧が出る前に乗れてよかったな」
父の手が、ポンと基弥の肩に触れる。
「華厳の滝にでも行ってみるか」
「うん」
華厳の滝までそんなに遠くはない。霧が発生しているのが気がかりだが、父とふたり肩を並べて歩いていく。なにげなく、湖のほうを振り返ると、自分に似た顔の男の子が立っていた。そうかと思ったら、その男の子が鬼のような形相に変化してニタッと笑みを浮かべた。基弥は、すぐに前に向き直り見なかったことにして父とともに歩いた。振り返ることなく歩みを進める。幻だ、今のは、幻だ。
基弥は、一瞬クラッと目眩を感じた。頭が揺れる。心も揺れる。
***
「ほんと、仲良しさんだよね。あのふたり」
「そうだな」
コトリは、潤んだ瞳でずっとみつめていた。
肩の位置は、あんなに違うっていうのに。親子でもあり友達でもあるって感じに見えた。あれじゃ、離れたくないよね。魂と魂の結びつきがあんなに強いだなんて不思議ね。本当に、このままでもいいんじゃないだろうか。なんて思ってしまう。でも、それはダメ。絶対ダメ。優希が死んでしまう。だって、ここは優希の心の中でもあるんだもの。
***
ふん、アジャの奴……憎たらしいが可愛そうな奴だ。
ゴマは、コトリをチラッと見て溜め息を洩らした。なぜ、あいつに気づかない……異変に気づかない、コトリよ。かぶりを振り「まだまだだなぁ」と心の中で呟いた。
***
頭が、心が、グラグラ揺れている。なぜだろう。
突然、水の落下する音が耳を衝く。まるで水に流されてどこかへ落ちていってしまいそうな轟音があたりを包み込み、心が締め付けられた。なんだ、この感覚は?
胸の奥底から聞こえてくる。いや、頭の中からも響いてくる。
や、やめてくれ。お願いだ。ごめん、ごめん、ごめん。
あ、あれは……。見える、見えるぞ。や・め・て・く・れ。
「コトリ、コトリ……ど、どうして……そ、そんなぁ」
涙がとめどなく目の奥から押し流れてくる。水音が頭の中に埋め尽くしていく。水が、水が、コトリを、コトリを。
「悪いのは、僕だ。僕がいけないんだ。脅かしたりしたから……」
突然、脳裏にハッキリした映像が。光とともに、バシッ、バシッとフラッシュバックしていく。池に落ちていくコトリの姿。手を伸ばしても、コトリの手を取ることができない。コトリが必死で水をバシャバシャして助けを請うているのに、どうにもならずにおどおどするばかり。助けなきゃ、助けなきゃ。
「誰か、誰か」
大人の姿はどこにも見えない。助けられるのは自分だけだ。
あ! 足がすべりゴロゴロゴロと。
バシャ、バシャ、バシャと水音が耳元で激しく鳴り響く。どうやら、落ちてしまったようだ。池の中に……。なにもかもが消えていくように真っ白になっていく。気泡に包まれてなにもかもが消え失せていく。
「僕は、僕は、どうしたの? ここは……」
気づくと、自分の家にいた。ベッドの上だ。
「コトリは?」
その問いに、父も母も俯き黙ってしまった。
「ねぇ、ねぇってば、コトリは? 大丈夫だよね。助かったんだよね」
夢だという思いもあったが、すぐにその考えを払拭する。コトリはいったいどうなったんだろう。気が気じゃなくなり、飛び起き家を飛び出した。もちろん、目的地はコトリの家だ。隣の隣、そこがコトリの家だ。
「コトリ! コトリ!」と騒ぎたてチャイムを鳴らす。
扉はすぐには開かない。嫌な沈黙が妙に神経を擦り減らす。基弥は、もう一度チャイムを鳴らそうと手を伸ばすと、ゆっくりと扉が開き、青白い顔をしたコトリの母が顔を出した。ドキッとした。首筋から背中にかけて悪寒が走る。ジュワッと冷や汗も噴出した。
コトリの母は、なにも言葉を発せずにそのまま家の中の暗闇に消えていってしまった。間違って別の家に来てしまったんだろうかと思えた。が、違う。間違いなくここはコトリの家だ。まさか、コトリは……。ドクンと心臓が大きく揺れた。
ふと足元を見ると靴を履いていないことに今更気づく。が、今はそれどころではない。コトリだ、コトリが気にかかる。急いで奥のコトリの母が消えていった部屋へと足を運んで凍りついた。
そこにコトリはいた。白い布団に横になって青白い無表情の顔をしたコトリが、そこにいた。
「僕のせいだ。僕が悪いんだ。こんなことになるなんて……。ごめんなさい、ごめんなさい」
手の甲で涙を拭いても拭いても、涙が止まらなかった。




