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 小学生の基弥は、東武伊勢崎線の浅草駅構内の窓口に基弥の父とともにいた。

 

 白の帽子、鷹のイラストが入った白のTシャツ、白のジーパン姿で光を浴びるように立っていた。


 白、白、白で光が反射して眩しいくらいだ。


 背中には紺地のリュックを背負い、満面の笑みを浮かべて駅の窓口に立っていた。さすがに、リュックまでは白ではなかった。すべて白一色だったら、眩しすぎて姿が見えなくなっていたかもしれない。それは、ないかとコトリは吹き出しそうになる口を押させた。


 基弥の父の斜め後ろで東京の人の多さに驚きをあらわにし、キョロキョロあたりを見回している基弥。人のざわめき、たくさんの靴音。右を見ても、左を見ても、人、人、人。田舎育ちの基弥には、こんな混み具合は祭りでしか体験してないだろうから無理もないか。あんなに驚いちゃって。

 これが、この街では普通なんだよね。ほんとにビックリよね。



***



 すごいなぁ。東京って、いつもこんなんなのかなぁ。基弥は、目を輝かせてあたりを見回し感嘆の声を上げた。が、すぐに口をギュッと結んだ。通り過ぎる人たちの注目の的になってしまい、笑いものにされてしまった気がして。そんなの嫌だろう。顔がものすごく熱くなっちゃったんだから。にこりと笑いかけられたって、俯くしかないじゃないか。なんだよ、そんなに見なくたって……。でも、すぐに何事もなかったかのようなみんな忙しなく通り過ぎるだけになった。それはそれで、ホッとした。自分の家の近所だったら、なに素っ頓狂な声あげているんだとばかりに、おばちゃんやおっちゃんがいつまでも構ってくるに違いない。どっちがいいのかはよくわからないけどね。


 そんな人の流れの中に、眩しい白い光が目を惹いて凝視した。


 あれは……あの子はどこかで……。一瞬だけだが、確かに見えた。女の子だった気がしたが、気のせいだったろうか。すぐに見失ってしまった。錯覚? おかしいなぁと首を傾げた。


 あの子は……。


 背伸びをして見渡している中、父と駅員さんとの会話が聞こえてきた。

薄い茶色がかった眼鏡をかけ、黒のシャツに濃い紺色のジーパンを履いた父は、駅員さんと話をしている。


 日光行きの特急券を購入しようとしたのだが、どうやら、満席で乗れないみたいだった。


 その会話を聞き、顔を曇らせた。不安という気持ちが心の内に膨らんでいく。


「父ちゃん、どうしよう、日光いけないの?」

「大丈夫だよ、特急に乗れないだけだよ」

「でも、乗れないんじゃ、行けないでしょ」

「普通電車に乗っていけばいけるから、大丈夫だよ」

「……」


 基弥は、少しだけ顔を赤らめて下を向いた。

何も知らないという気恥ずかしさで、その場から消えてしまいたい気分だった。無知にも程がある。穴があったら入りたいというのはこういうことだ。


 少しばかり時間はかかるだけだよと笑顔の父が声をかけてきた。うん、とだけ頷き、日光へと向かった。電車に揺られ、ビルの町並みから住宅地や田畑が多くなっていき、次第に緑の木々へと風景がどんどん変化していくのを眺め、心を躍らせた。


「緑だらけでなんかいいなぁ。僕、緑って大好きなんだよね」

「そうか、そうだったっけか」

「そうだよ。緑色はもちろん、黄緑色、深緑も青緑も好きなんだぁ」


 父は優しげに微笑みを返してくれた。そう、この笑顔も大好きだ。ふと、遠くの緑から近くの緑に目を向けてみたら、目がおかしくなりそうになった。なんで、遠くはあんなにゆっくりなのに、近くはびゅんと早いんだろう。同じスピードのはずなのに。


「基弥、どうかしたか?」

「ううん、なんでもない」


 日光へとどんどん近づいていく。意外と鈍行でも早く着きそうだ。もちろん、特急には敵いっこないけど。特急に、乗りたかったなぁ。


 東武日光駅に到着というアナウンスが車内に流れる。あっという間だった気がした。着いたと思うと、ウキウキワクワクが心の内から溢れてくる。

日光は、夏だっていうのに空気は冷たかった。長袖のシャツにすればよかったと思ったくらいだ。上着を着てくればよかったかなぁ。どことなく、別世界に来たような錯覚さえ感じた。


「今度は、バスに乗り換えだぞ」

「うん」


 バスは、くねくねする坂道をどんどん登っていく。いろは坂って言うらしい。なんだか、すごい、というか、崖から落ちてしまうんじゃないかと思ってしまい、ドキドキが止まらない。


 バスの窓から覗き込むと、胸の奥からゾゾゾとなにかが突き上げてくる気がして肝が縮こまった。落ちたら間違いなく死が待っているだろう。

『死』という言葉が、ふと不安にさせた。


 なぜだろう……。


 窓に映り込む不安そうな自分の顔が、妙に青白く見え血の気がなくこの世の住人ではないような気がした。


「僕は……僕は……」


 ブルブルと基弥は頭を左右に振った。


 背凭れに寄りかかり深く座り直すと、窓ガラスに自分とは別の人影が映り込んでいることに気がついた。

女の子? まただ。


 後ろを振り返ってみるが、女の子の姿は見えなかった。和気藹々と笑顔を見せる他の家族の姿がそこにはあった。あれ? 似ている。なにかが胸の奥でぐるぐると渦巻くような気がしてきた。あそこにいるのは、別人だ。似ているだけだ。だからっておかしくない。そんなことだってあるさ。そうだ、あるんだよと思いながらも俯いてしまった。


 後ろからワッと突然大きな笑い声が湧き上がった。顔を上げると、似た感じの男の子が大きな口を開けてはしゃいでいた。


 隣の席にいた父が、不思議そうな顔をして「どうした?」と聞いてくる。


「なんでもないよ」と基弥は笑って答え、また窓の外を眺め微笑んだ。心の中では、首を傾げておかしいなと思ってはいたが、いつのまにか、旅の楽しい気分に満たされていった。


 窓に映る顔も、いつもの赤みを帯びた顔に戻っていた。


 バスは、右に左にとUターンするように曲がりくねる道を登っていく。大きなバスを思い通りに操るドライバーのおじさんを尊敬してしまう。


 ちょっとでもハンドルをきり間違えたら、谷底へ真っ逆さまだ。基弥は、またゾゾゾと這い上がってくるものを感じて座席にきちんと座り直し前を見た。


 何回曲がりくねる道を登ったのだろうか。


「いろはに……えっと……」


 指を折りながら口に出して数えてみる。続きがすぐに出てこなくなり、口を結んだ。折った指をじっと眺め、続きを数えるのを諦めた。五つ目の文字が思い浮かばず、小指だけが一本立っていた。


 顔を上げ窓の外を眺め、目の色を輝かせた。す、すごい、綺麗だ。日の光にキラキラと煌く湖がそこにあった。


 中禅寺湖だ。


 標高一二六九メートルという高地にある日本を代表する湖のひとつで、男体山の噴火で堰き止められてできたらしい。遊覧船で湖を回ることもできるんだぞ。物知りだろう。なんて、全部ガイドブックに書いてあることだ。物知りでもなんでもない。


「父ちゃん、遊覧船乗りたい」

「ん? そうだな。でも、明日にしような」


 基弥は心の中で「えー」っと叫んでいた。でも声には出さなかった。残念でしかたがなかった。けど、もう夕方近いし、ゆっくりしたいという父の言うことに頷いた。明日の楽しみにとっておくっていうのもいいかもなと思うことにした。


 バスが停車して基弥は席を立つと、ふと、窓の外から視線を感じた気がして湖のほうに目を向けた。ショートカットの白いドレスを着た女性がじっと自分の乗っているバスをみつめていた。ドキッとして心臓が跳ね上がる。


 目が合った気がした。いや、間違いなくこっちを見ていた。直感でそう感じた。


 どこかで逢ったことがあるだろうか。


 疑問に感じながらもリュックを背負い、バスを降り、湖を横目にして土産屋さんのある通りを歩いていく。

もう女性はいない。ショートカットに白いドレス……あれは……。頭の中に、小さな女の子が浮かんで消えた。


「父ちゃん」

「ん? どうした?」

「ううん、なんでもない」

「おかしなやつだな」


 ニコリと微笑み、頭を数回ポンポンと叩かれたと同時に、クラッと目眩を感じた。


「ゆうき……」

「コトリ……」


 一瞬、頭の中で声が響く。


 父は、ホテルのパンフレットを片手に歩いていく。基弥は、前屈みになり立ち止まっていたが、すぐに目眩も治まり慌てて父の後を小走りで追いかけた。なんだってんだ、今のは? いや、なんでもない。なんでもないさ、きっと。かぶりを振って前を向く。父は、パンフレットを凝視して歩いている。


 いったい、どんなホテルなのだろう。


 ホテルのことを思い描いているだけで、心は弾んだ。すべて、父が電話して予約してくれたホテルだから心配事はなにもない。すべて任せておけば大丈夫だとわかっていた。いつもそうだもん、間違いないさ。心配ないさ。


 交通量の多い通りをしばらく歩いた後、少し静かな通りへとそれていった。あまり人通りがない。細い道で、両脇に木が植えてあるせいで昼間なのに少しばかり暗く感じる。


 気味が悪いなと思いながら、父の後をついていった。


 なんとなく、肌寒い。こういうときって、幽霊なんかが……。背筋がゾクゾクとした。振り返るのはやめよう。そのほうがいい。


「このへんのはずなんだが……ん、ここかな?」


 父の声が、ワントーン低く聞こえた。


 目の前に一軒ホテルらしき建物がある。


 窓ガラス越しから見える建物の中は薄暗く、どうみても廃墟のような雰囲気が漂っていた。人の気配すら感じられない。幽霊がいそうな雰囲気でいっぱいだ。肝試しにはうってつけのスポットかもしれないが、到底ホテルだなんて思えない。もともとは、老舗のホテルだったのかもしれないけれど、ここは……。


 基弥は、ブルッと身震いをした。

 ホテルじゃない、ここは、お化け屋敷だ。


 まさか、こんなところに……。基弥の気持ちは逃げ出したい思いでいっぱいになる。息苦しさも感じていた。ごくりと唾を呑み込んだ。


 玄関口の戸は、ガラス戸になっていて薄暗い室内がぼんやり見えている。そのガラス戸に、白いものがスゥーッと。


 幽霊?


 基弥は声も出せず身体がカチコチになって立ち尽くしていた。ウソだ、ウソだよ。幽霊なんて信じない。信じたくない。「父ちゃん」と言いたいのに声が喉を通ってこない。なにか異物を詰め込まれたみたいで口をパクパクすることしかできない。息苦しい気もする。もしかしたら、幽霊が声帯を奪ったのかもしれない。そんなこともあるの、かも。いやいや、ないない。そんなことあるわけない。


 ダメだ、このままじゃダメだ。見ちゃいけない。目を逸らさなきゃ。そう念じるうちになんとか、ガラス戸から目を逸らすことに成功した。大丈夫、幽霊なんかじゃない。そう祈った。


「違うよな、このホテルじゃない。奥かな」


 父のその一言に救われて、呪縛から解放された気がした。基弥は、詰まった喉を開放し思いっきり肺に新鮮な空気を一気に取り込んだ。


 生き返った心地がした。祈りは通じた。


「ここが今日の宿だ」なんて言葉がでてきたら、窒息死していたかもしれない。大袈裟かもしれないが、それくらいショックなことだった。


 顔を上げた瞬間、ついガラス戸に目を向けてしまった。また、白いものが目に……。あ、あれは、あの子は、白いドレスの女の子だ。あの子は、幽霊なのかもしれない。ダメだ、見ちゃいけない。きっと、見たら……。見てはいけないと思えば思うほど、目が釘付けになる。そ、ん、なぁ。ど、どうしよう。


 あれ? 口が動いているような。いったい何を言おうとしているのだろう……。そんな疑問が生まれると不意に耳を傾けたくなってくる。なぜか、女の子の口の動きに集中すると怖さが抜けていく気がした。助けを求めているんじゃないだろうかとも思えた。


 いったいなにを言いたいのだろうか? 


 聞かなきゃ。心のどこかでそう訴えかけてくる。そうしないと後悔するぞと訴えかけてくる。なら、聞くしかない。


 耳を澄ます。すると、心の中にスゥーッと言葉が緩やかな川の流れのように侵入してきた。え? な、なに?


「私のこと覚えている? 私、コトリよ」


 またしても、基弥はブルッと身震いした。


「基弥、行こうか」


 突然の父の声にガラス戸から目を離してしまった。


 その間に、女の子の姿は消えていた。しまった、あの子の訴えを聞き損ねてしまった。確か、覚えているなんて口にしていたようだけど……。知り合いだったのかなぁ。しかたがない、きっとまた逢えるはずだ。そんな予感がしていた。続きはそのときに。


 基弥は、父についていく。後ろ髪引かれるような変な感覚のままついていく。必死についていく。


 そういえば、今の女の子と、さっきの見た女性……似ている気がする。けど、子供と大人の女性じゃ違いすぎる。姉妹にしちゃ年が違いすぎるよなぁ。でもなぁ。


「お兄ちゃん」


 え? な、なになに……今のはなに?


 女の子のかわいらしい声を感じた瞬間、こめかみに鈍痛を感じた。そして、身体の中に別の誰かを感じて消えた。冷や汗が背中をスゥーッと流れてTシャツを濡らした。


「僕は……誰?」

「ん? なにか言ったか」


 基弥は、父の声に我に返ってかぶりを左右に振った。


「どうした? 顔色悪いぞ。具合でも悪いのか?」


 父は、額に手を当ててきてニコリとした。


「熱はないみたいだな。大丈夫だな」

「うん」


 基弥は、父になんとか微笑みを返し「行こう」と父と手を繋いだ。


 手を繋ぎ揺らしながら、暗い闇のホテルの横にある上り坂の道を少しばかり行くと、今度は、入り口から明るさが洩れている闇とは無関係なきれいなホテルが見えてきた。


「ここだよね、ここでしょ」

「ああ、そうみたいだな」


 ホテルとパンフレットを見比べ、父は確認するように頷いた。

 ホッと息を吐く。


「いらっしゃいませ」


 ホテルの受付に行くと番頭らしき人が声をかけてきた。ホテルというより旅館って言ったほうが正解なのかもしれない。


 ちょっと白髪混じりの髪に黒縁眼鏡をかけたおじさんが立っていた。歳は五十くらいはいっているだろうか。グレーのスラックスに白のワイシャツ、その上には紺色の印半纏を羽織っていた。


「予約していた倉重ですが」

「えっと、はい確かに。ではご案内しますのでどうぞこちらへ」


 ホテルの床はワインレッドの絨毯が敷かれていた。番頭の後を父とふたりでついていく。どうやら、部屋は三階らしい。番頭は、ニコニコしていて腰が低くとても愛想が良い人だった。エレベーターの前まで来ると、奥を指し示し「この奥が大浴場になっておりますので」と説明してくれた。


 三階の部屋に着くと、お茶を注ぎながらお茶菓子もすすめてくれた。夕飯の時間やお風呂の入れる時間等を話すとお辞儀をして部屋を出ていった。最後まで、笑顔が崩れることはなかった。基弥は楽しい気分でウキウキしていた。


「基弥、いい景色だぞ。見てみな」


 窓際にいる父が手招きして呼んでくる。


 行ってみると、燃えるような赤い空だった。茜色でもあり橙色でもあり朱色でもあり、いろんな赤が空を彩っていた。木々の間からは、その赤い空を中禅寺湖が鏡と化してキラキラと映し出していた。大自然の彩られた赤い空とそれを映し出す天然の鏡とのコラボレーションは、心に焼きついて忘れることのできない景色となった。


 もしかしたら、顔の筋肉が緩みだらしない顔をしていたかもしれない。それくらい、うっとりとする景色だった。


 父は、なんでもできる魔法使いなのかもしれない、きっと。この景色を作り出したわけではないのに、父の成せる技のように思えてならなかった。手を振り上げ、親指と中指を擦りつけパチンとして、この景色を一瞬のうちに作り上げたに違いない。そうだよねと基弥は父の顔をみつめた。


「明日、遊覧船乗ろうな」

「うん、絶対だよ」



***



「ステキ、ステキすぎるじゃない。もう、なんてロマンティックなのぉ」

「はい、はい、そうですね」

「あ、この乙女心を理解しないなんて、最低よ、あんた」

「さようですか、ってこのバカもの。旅行じゃないんだぞ、コトリ! わかっているんだろうなぁ。ふん、隊長とも思っていないんだろうから、しかたがないかもしれないが」


 また、やっちゃった。コトリは、ゴマから見えないようにしてペロッと舌を出した。


「すみません」

「ま、いい。とにかく、任務を忘れるな。それにしても、うむ……確かに、綺麗だな……この景色は」


「でしょ、でしょ」と騒ぎ立てそうになって慌てて呑み込んだ。絶対、調子にのるなってゴマなら言うもんね。危ない、危ない。


 でも、綺麗だなぁ。日本の美よね。趣があるっていうのかな、これって。


 山の端を縁取る茜色。湖を泳ぐ茜色。空が燃えるように色づくその様は、誰が見ても心に響く。そう、なんだかんだ言ったってゴマも感動しているってことよね。もちろん、基弥の監視はちゃんとするわよ。わかっている。今は、ほら、親子水入らずで……。邪魔はしないほうがいい。この記憶はそのままにしてあげたほうがいい。きっと、そのほうが、あとあとうまく事が運ぶ気がする。


 そうでしょ、ゴマ隊長。


 ゴマをチラッと横目で見たら、ゴマのほうもこっちをチラッと窺ってきてコクリと頷いた。そう、結構以心伝心しているんだから。ふふふ、可愛い猫ちゃんなんて思ったことはヒミツだけど。



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