19
コトリは、体の痛みを感じながら、瞼を開けた。
「ここは……」
青い空が見える。白い雲が流れゆく。
確か、すべてが崩れてきて……。まったくもう、痣できちゃったじゃない。許さないんだから。なんて、すぐに痣なんて消えちゃうけど。痛みも消えちゃう。便利よね。生きていたら、重体間違いなしだけど。だからって、このままでいいとも思えないんだけどね。って、そんなこと考えていたってしかたがない。ここは、どこよ。
あたりを見回してみる。
あ、も、もしかして……ここは……。
「基弥の子供時代だ」
記憶が頭の片隅から湧き上がってくる。
ゴマがすぐ横で寄り添っていた。可愛い。つい、隊長であることを忘れて、可愛いなんて思ってしまった。かぶりを振り、起き上がる。公園の砂場に寝ていた。頬についた砂を払い除け、ゆっくりあたりを見回す。奥の檻から視線を感じた。
え? ウソ、猿だよね、猿だ。
こんな小さな公園に猿とは珍しい。公園に猿……、ここ、知っている。懐かしさが込み上げてくる。
すぐに、物思いになんか浸ってなどいられないと思い直し、もう一度あたりに目を向けた。
基弥はどうやら、ここにはいないようだった。
「あー、もう、節々が痛くてたまんない」
寝違えたのか首もちょっと傾けるだけで痛む。腰も少しだけ、痛い。手首も足首も腿の付け根も痛む。憤りを感じずにはいられない。思わず、ゴマの頭をペシッと叩く。
「いてっ! おい、なにをする」
「いいじゃない」
「いいわけ、ないだろ。これは虐待だ」
虐待だなんて、大袈裟な。愛よ、愛情表現じゃない。わかっていないなぁ。なんてね。ゴマの睨む目つきが、なんとも可愛く見えてしかたがない。猫って得だな。口を利かなきゃ、可愛いのに。コトリは、ゴマの頭を撫で回した。
「ちょっと、やめろ」
「いいじゃない」
「いいわけないだろ。ふん、同じこと言わすな」と言いつつ、気持ちよさげにして目をつぶるゴマ。
「ああ、そこそこ、気持ちいい。ってこら、やめろって」
「ふふふ」
ブルッと身体を震わせて、ゴマは、少し距離をおいて口を開いた。
「もうじき、基弥たちが来るはずだ。まずは、隠れて様子を見よう。あ、そうそう、コトリ、おまえ、基弥にもっと印象づかせるように仕向けろ。いいな」
「ええ、そうね」
「だが、慎重にな、し・ん・ちょうにだぞ」
わかっているわよ、そんなこと。
こんな可愛い女の子のこと忘れる基弥なんて。って違うわよね。記憶が封印されちゃっているのよね。でも、なんか引っ掛かる。なんだかわからないけど、なんか引っ掛かる。まずは、基弥の記憶奪還よね。話すのはそれからよね。アジャは、いったいなにを考えているんだか……。うーん。こんなことしても、こっちが有利になるだけのような気もするんだけどなぁ。
檻から、猿の騒ぎ声が飛んでくる。もう、なに、あの猿。うるさくて、考え事もできないじゃない。
「コトリ、一旦、ここから離れるぞ」
コトリは、頷き、横目で猿を睨んでその場をあとにした。
***
「ねぇ、父ちゃん、お猿さん見に行くんでしょ」
「ああ、そうだよ」
「ねぇ、また、動物ヨーチ買っていくんでしょ。あれ、お猿さん、好きだもんね」
バイクの後ろに乗って、父と陣屋町公園に行く。十五分あまりの道のりだ。正直、バイクが怖かった。でも、父の背中が心を落ち着かせてくれる。
温かな背中だ。
バイクのエンジン音を聞きながら走り続け、予定通り公園へと到着した。
大きな公園ではない。どこにでもあるような普通の公園。
なのに、なぜか猿がいる。自意識過剰の猿がいる。
公園には、ブランコもすべり台も砂場もある。けど、一直線に猿のいる檻へ。ブランコもすべり台も砂場もどうでもいい。目的は、猿だけ。
「キャキャッキャ」
金網越しにおねだりしてくる猿がいる。いや、おねだりだなんて上品なんてものじゃない。顔を真っ赤にして一点をみつめ大きく口を開いている姿は、鬼そのもの。角の生えていない赤鬼だ。鋭い牙を剥き出しにして騒ぎ立てている。
なかなかお目当てのものをあげないでいると、ガタガタ金網を揺らしてきては鳴き声をあげてくる。
「ほら」
いつものように、動物ヨーチをあげると猿は貪るようにバリバリ食べはじめた。
「父ちゃん、なんでこれって、動物ヨーチっていうの?」
父は微笑み、頭を軽く撫でてきた。
「それはな、動物の幼稚園ってことなんだよ」
「幼稚園? ふーん、そうなんだ」
そんなのどうでもいいとばかりに、猿はまた、ガタガタ金網を揺らし、歯を剥き出しにして手を出してくる。お菓子の名前なんてどうでもいい、きっと猿はそう思っている。当たり前のことだ。猿は、食べたいだけなんだから。
猿の着ぐるみを身にまとった赤鬼は、さっきよりもガタガタ金網を震わせてきた。もちろん、着ぐるみなど着てはいない。本物の猿だ。でも、赤鬼に見えてきてしまう。不思議だけど。そんなときは苦笑いを浮かべるしかない。
ガタガタ、グラグラグラ。
ものすごい勢いで金網を揺らす猿。
金網が壊れるのではと顔を引きつらせたが、動物ヨーチをあげれば大人しくなることを知っていた。
「ほら、動物ヨーチ食べな」
動物ヨーチを持ち、恐々手を出す。
「キャキャ」
動物ヨーチを奪い取ると、美味しそうにムシャムシャむさぼる猿は、すごい顔をしている。でも、怖い顔の猿を見ていると、なんだか笑えてくる。不思議だけど、心が躍る。
父と来る猿のいる公園はわくわくする。毎日来たいくらいだ。まあ、毎日は無理だろうけど。
小さな公園だけど、ここは、動物園なんだ。猿しかいなくたって、動物園なんだ。なんで、こんなちっぽけな公園に猿がいるのかは不明だけど、そんなことはどうでもいいことだった。猿が動物ヨーチの説明なんてどうでもいいように、猿がなぜここにいるのかなんて理由はどうでもいいことだと思った。
猿と会えるだけで満足だった。
いつのまにか、空は、青色から茜色へと色を塗り重ねていっていた。なんで、こんなに時間が経つのが早いんだろう。太陽、もうちょっと待っていてよ。もう一度、上ってよ。
残念だけど、そうもいかないみたい。
ブランコもすべり台も砂場も、もう誰もいない。茜色の日差しがゆっくりと弱まっていくと同時に公園からは、一人消え、二人消えと静かな公園と化していく。
猿の声だけは、未だにうるさいけど。
いや、違った。
猿だけじゃない。
一人だけ女の子が金網越しに猿をみつめていた。いつからそこにいたんだろうか。気づかなかった。
どこかのお嬢様かと思えるくらい眩しい姿。
白いドレスが、夕陽に染められて茜色に燃えているみたい。なんだか、綺麗だ。でも、寂しそう。ひとりぼっちなのかなぁ。
白い花柄のドレスを着た女の子は、猿の檻をあとにするのかと思いきや、くるりと踵を返して手招きをしてきた。潤んだ碧い瞳をしておいでおいでと手招きをする仕草に、なぜか懐かしさを引き起こす。
基弥は、女の子に心を惹かれ一歩足を踏み出した。
「どうかしたか?」
父が後ろから声をかけてきて振り返る。
「そろそろ帰るぞ」
「うん」
父の言葉に頷き、もう一度、女の子のほうに目を向けた。
女の子はもういなかった。グルッと見回して見たが、どこにもいなかった。
なぜか、心の奥に湿った雲が広がるようにモヤモヤがいっぱいになっていた。
知らないはずなのに、どこかで逢ったようなモヤモヤが広がっていく。あの女の子は……誰だったんだろうか。なんとなく、見知った女の子のような、気がする。
どこに行っちゃったんだろう。帰っちゃったのかな。手招きして呼んでいたのに? どうして? あの女の子はなにか伝えたいことでもあったんだろうか?
檻にいる猿と一瞬目が合った。
え? ウソ?
猿の顔が、人の顔になっていく。しかも、自分の顔にそっくりに見えた。
「忘れろ……」
「え?」
悪寒が走り抜け、鳥肌が立つ。鏡がそこにあるのかと思えるくらいそっくりな顔。声までもが同じように感じた。基弥は目を逸らし、目を擦り再び目を見開いた。檻にいたのは、猿だった。今のはいったいなんだったんだろう。目の錯覚? そうならいいけど。
「ほら、いくぞ」
基弥は、父のバイクに乗り父の背中に引っ付きギュッとして手を回した。
バイクに揺られて家路に着く間、女の子の顔と自分の顔になった猿がチラついて離れなかった。安全運転の父の後ろで基弥は、しがみつき、道路脇の縁石をぼうっと眺めながら家路に着く。
あの女の子は……。脳裏に浮かぶ女の子。それと同時に「忘れろ」の声に、ドキッとしてかぶりを振る。再び、縁石の羅列が目に留まる。
目がおかしくなりそうだけど、なんだか止められない。そんなに面白いわけでもないのに、止められない。嫌な感じのそっくりな顔と声、それに女の子の面影を消そうとしているわけではないが、素早く通り過ぎていく縁石から目が離せなくなっていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、縁石が通り過ぎる。ひとつ、ふたつ、みっつ、女の子、猿、なぜかあるはずのないものまで見えてしまった。縁石だけしかないはずなのに……。目が変になっちゃったのかも。それでも、縁石を見続けた。スピードが速くて目で追うのはちょっと大変だった。
縁石がひとつ、ふたつ、みっつ、女の子、猿、自分の顔。心の中でうわっと叫ぶ。心臓が騒ぎ立てて鼓動を早めた。ダメだ、見ちゃダメだ。
目が変になりそうだ。いや、もうすでに変になっているのかもしれない。
変わり者だと思われるかもしれないが、バイクに揺られ縁石を眺め続けてしまった。怖いもの見たさなのかもしれない。でも、もう縁石は、縁石のままだった。
「あの女の子は……」
「ん? なんか言ったか?」
「ううん、なんでもないよ。父ちゃん」
女の子は、なにかを伝えたかったに違いない。なのに、なぜ、どこかへ行ってしまったのだろう。あの子は……。かぶりを振る。思い出しかけた気がしたのに、闇の中へ思いが消えていく。
いったい、誰、なんだ。
縁石がすばやく通り過ぎるのをボーっと見ながら、頭の中は女の子が陣取っている。ときどき、猿が邪魔をするけど、頭から吹き消そうとかぶりを振った。
「あっ!」
ふとした瞬間、基弥の足がバイクのステップからはずれ、縁石を蹴飛ばす形になった。
ものすごい激痛で顔が歪む。その振動でバイクも傾き転倒し横滑りしながら回転していく。
「うわぁー!」
突然、景色が吹き飛んだ。
テレビが壊れたみたいに、映像が途切れ画面がプチッと消灯した。消灯した瞬間、昔のブラウン管のテレビみたいに、中央に緑や赤や青が残像のように見えた気がした。残像の残るテレビなんか、いまどき知っているものはいないだろうが、昔のテレビはそうだった。だが、問題なのはそんなことではない。
緑、赤、青、その色の三原色の中央にひとりの女の子がぼんやりと浮かんで見えた。一瞬のことで目の錯覚だったかもしれない。
涙を頬に伝わせて、「ごめんなさい」とだけ口にして遠のいていった。
基弥はもう一度、「わぁー!」と叫んだ。
手で払うような格好で上半身を一気に持ち上げ起き上がった。浅瀬で溺れると思い込んでいるおバカさんみたいにジタバタさせて起き上がった。
バイクは?
父は?
女の子は?
真っ暗な中、キョロキョロと左右を確認した。しばらく、どこにいるのかわからなかった。混乱した頭を、整理するように、暗闇の中を目だけ動かし窺い見た。
ここは……。
ん? なにかが転がってくるのが目の端に映り下を向く。小さな豆粒くらいの淡い光をまとった土色の珠だった。まるで、意思があるかのように、ゆらりゆらり蛇行している。なぜだか、妙に心が和む。堆積された土や砂や粘土の層が目の前に見えてくるようだ。と思った瞬間、すうっとすべての映像が珠に吸い込まれたように収縮しパッと消え去った。
呆然と正面だけをみつめ続けた。なにを見ているというわけでもなく、まっすぐ視線を正面に送っていた。しばらくすると、目の前にぼんやりと人の顔が見え始めた。女の子の顔ではない。男の顔だ。床についた両手の感触は、アスファルトの道路ではなく、温かみのある畳だった。
「父ちゃん?」
写真だった。父の遺影だ。
そうなんだ、もういないんだ。
また、変な夢を見てしまった。
一センチにも満たない消えかけの線香が一本、ゆらゆらと煙を揺らめかせて立っている。
妙にリアルな夢だった。
事故以外は、本当にあった出来事のせいかもしれない。脇の下からひんやりとした汗がタラリと身体に沿って滴り落ちていく。
嫌な夢だった。寿命が縮まった気がした。
ふと、基弥は、自分自身がどうにかなってしまうのではないかと考えてしまい身震いをひとつした。ふぅーと溜め息を洩らし、気を静める。
時計の針は、零時二十五分を指していた。ちょっとうたた寝しちまったようだな。
猿のいる公園かぁ、懐かしいな。基弥は、天井を眺め物思いにふける。
でも、今はもう、猿はいない。どこにでもある普通の公園になってしまっている。残念だけど。
今度、ふらっと遊びにでも行ってみるのもいいかもしれない。父の思い出巡りでもしてみるかな。でもな、変な夢みたしなぁ。事故には注意したほうがいいかもしれない。バイクには乗らないが、なにがあるかわからない。
ふと、夢に出てきた女の子が脳裏に浮かぶ。と同時に猿の顔と重なり自分に似た顔が見えた。すぐにかぶりを振り溜め息を洩らした。
夢は夢、気にすることはなにもないと割り切ればいいのだが、頭の片隅にどうしてもこびりついて離れなかった。岩に張り付くコケのように、びっしりと脳の一部を埋め尽くしている。白いドレスの女の子。どこかで逢ったことがあるのだろうか? こんなにも、夢に出てくるなんて不思議でならなかった。知っているような……。
大事ななにかを忘れている気がしてならなかった。
「ゆうき……ゆうき……」
突然、声が降って湧いてきた。
だ、誰?
ハッとして天井を隅から隅まで見回す。
『ゆうき』という名前がこだまのように頭の中を駆け巡り、心をギュッと締め付ける。こめかみあたりもズキズキし始めていた。どうしようもなく喉が渇く。
「僕は……基弥だ」
基弥は、頭を抱えてかぶりを振った。空耳だ、空耳だ。
もう時間も遅い、寝たほうがいい。きっと、一眠りすれば、すっきりするはずだ。きれいさっぱりとはいかないかもしれないが、気持ちの整理もできるだろう。本当にそうか? という疑問も湧くがそれしか方法が浮かばない。
左足に力を入れ立ち上がろうとしたそのとき、足の親指からビビビと電流が走り脳天まで突き抜けていった。親指の爪が黒紫色に変色して爪の間から血も滲んでいた。その爪を見た瞬間から身体中いたるところが痛む気さえした。
さっき見た夢が蘇り、立ちかけの左の膝に手をかけたまま、基弥は青ざめた顔で父の遺影を凝視した。また、脇の下から冷たいものが身体を伝っていくのを感じた。
そのとき、
「聞こえる……ごめんなさいね……」
という言葉が聞こえて消えた。か細くてはっきりしない声だったが、女性の声だった気がした。夢の女の子の声だったのだろうか。
首を傾げた基弥の横で、一瞬映像が乱れた。乱れるわけがないのに、横に、スクリーンがあるわけでもないのに、映像が乱れた。目の錯覚なのか、目眩なのか。とにかく変だ。
ゆっくり顔を右側へ向けた。
白いドレスが目に留まる。上へ上へと目線を少しずつずらしていくと、ドキッとするくらい肌の白い女性の顔があった。ピンク色のぷっくりとした唇に少しウェーブがかかったショートヘアの美しい女性だ。
基弥は、女性の瞳から目を離せなくなっていた。碧い翡翠のような瞳が魅力的だ。
だが、それも一時だけ。すぐに、女性は押し寄せる波と一緒に海の底へと引き込まれ掻き消さていった。
一言も話すことなく、消えてしまった。
基弥は、もう眠ることができなかった。
なにがなんだか、わけがわからなくて今置かれている状況が、夢なのか現実なのかさえ理解できなくなっていた。部屋に波が押し寄せてくるわけがない。どういうことだよ。気が変になりそうだ。
結局、基弥は、父の遺影の前に座り眠れないまま朝を迎えた。
いや、寝ていたのだろうか?
夢を見ていたのだろうか?
基弥には、判断するすべがなかった。夢なのか、現実だったのか……。
チュンチュンと鳥が鳴いている。雀だろうか。
「もう朝か」
基弥は、眠いような眠くないような変な感覚のまま両手を挙げて伸びをした。
窓から差し込む朝陽が眩しすぎて目が痛い。
四十九日の朝だった。
父は、今日、お墓に入る。基弥は、なんとなく父との別れが今日のようなそんな気がしていた。
ふと視線を感じて窓に目を向ける。
女の子が覗いていた。白いドレスのショートカットの女の子。
ドクンと心臓が脈打ち、身体はコンクリートに埋められてしまったようだった。実際は、そんなことはないとはわかっていても、身体は冷たく身動き取れないくらい硬直していた。
なぜ、心がざわつくんだろう?
女の子は、窓越しに笑みを浮かべ、「助けてあげるから……」とだけ言い残して朝陽とともに光の中へ溶け込んでいった。
と、そのとたん、ガツンとなにかがぶつかるような衝撃が起き、家がグラグラと揺れ傾き始めた。
「コトリ」
基弥は叫ぶ。
天井が崩れ落ち、壁が一部ガタリと抜け落ちる。壁という名のジグソーパズルのピースがひとつ外れると、窓に柱に障子戸に襖にと次から次へと剥がれ落ちては消えていく。
基弥は、ただただ唖然とするばかりで、どうにもできない。ガタンと激しい物音がすれば、目を閉じ手で頭を隠すだけ。
「コトリ」
声を荒げて叫ぶ。
基弥は、なにが起きているのかまったく理解ができないでいた。
大地震? この世の終わり? 世紀末?
すべてが崩れていく。心も崩れていくようで気が変になりそうだ。
アルマジロのように身体を丸めて蹲る。
心臓が縮こまる心地がした。血流は激しさを増し、縮こまる心臓を大きく激しく揺さぶってくる。ガタガタと肩を震わせ、襲い来る窮地にただただじっと蹲り耐えるだけ。
もう、ダメだ。
そう思ったとき、ピタリと物音が止み、静寂があたりを包み込んだ。耳に入ってくる音は、まったくない。
嘘のような静けさだ。シーンという音が聞こえてきそうな変な空気感だった。
なにも音がしないとなると、逆に目を開けるのが怖くなる。
いくら待っても、静寂の時はいつまでも続いていた。しかたがなく、基弥はゆっくり頭をあげ、瞼を持ち上げた。
真っ暗な闇が目に飛び込んできた。
さっきまであったはずの家はない。父の遺影もどこにもない。
あるのは、闇だけ。
訳もわからないまま、また硬いコンクリートの中へと逆戻りした心地だった。と思ったら、闇はすぐに目映い光に頭上から一刀両断され、闇が切りさかれていった。真っ黒なカーテンを引き裂くように闇はあっけなく光を招きいれた。
光が目を焼くようで開けていられなくなる。
「大丈夫だ、心配するな」
心の奥に、父の声が広がった。気配も感じた。大丈夫ってなにが大丈夫なんだろう。でも、久しぶりに聞いた父の声は嬉しくて泣きそうになる。だが、そんな余韻に浸る暇はなかった。新たな声が呼び覚ます。
「朝ですよ」
誰かのシルエットが目の前に立っていた。眩しすぎてよく見えない。朝? それがどうしたっていうんだよ。
「ほら、朝ですよ」
やっと目が慣れ始めシルエットがおぼろげに姿を現していく。わかったって、起きればいいんだろう。
笑いかけている。女の子だ。そうあの子だ。
「コトリ……」
口からポロリと言葉が零れ落ちた。基弥自身、自分で言った言葉なのに、誰かの声に感じた。
基弥は、目を擦りもう一度目を向ける。一瞬、睨む光る目と歯の鋭い化け物にも見えた気がし手怯んだが、錯覚だった。母だ。女の子ではなく、化け物でもなく、母だった。
「あれ?」
基弥は動きを止め、母をみつめていた。
頭の中から、何度も口にしたはずの誰かの名前は消え去っていた。
「あれ? じゃないでしょ。ほら、寝ぼけてないで起きなさい」
「あ、ああ」
家は、崩れていなかった。確かに、すべてが消え去ったはずなのに……。
なにげなく、ポケットに手を入れてみると、ブローチが入っていた。三つの水晶のような珠と二つの穴が開いたブローチが。
「基弥、早くごはん食べちゃいなさいね」
母に返事をし、ブローチをもう一度眺めた。珠が、碧色、紅色、土色に色を一瞬変えたように見えた。目を擦ると、もとの透き通った珠に戻っていた。
大きく息を吐き、ポケットにブローチを戻した。なぜ、ブローチを持っているのか不思議に思いながらも、とりあえずポケットへと戻した。
そのあとはなにも変わったことは起きることなく、基弥は父の四十九日を向かえた。
空を仰ぎ見、流れゆく雲の流れを追っていた。
「父ちゃん……」
今このときが、自分のいるべき場所なのかどうかわからなくなっていた。ふと、足下を見ると本が一冊、目に留まり心臓がドクンと反応した。
『月の輪グマ』だった。なぜ、ここに?
手に取り本を開くと、突然、風がページをパラパラと最後のページを開いた。そこには『かがみゆうき』と記されていた。




