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 二つの瞳をゆっくりと閉じては隠し、また開く。薄暗い闇夜に伏せて、ほんの少し開いた窓の隙間から、じっと様子を覗き見る。ヒゲと耳だけをぴくつかせ、いや、ときおり縞々の尻尾も小刻みに震わせて一点に集中し、監視する。猫の勘を甘くみてはいけないぞと口元を少し歪め、部屋の様子を逐一見逃すまいと見据えた。おまえは、嘉神優希なのか本当に、と疑いの眼差しを送り続けた。


 優希は、誰かに胸を叩かれているみたいに上下に揺れ動く。短く刈り上げられた頭をカクンカクンと操り人形さながら、小刻みに動かしている。もちろん、優希の上には誰もいやしない。見えない誰かが心臓マッサージをし、優希の痩せた身体を圧迫し揺り動かしているかのようだ。ゴマは一切の動きを止めゴクリと唾を呑み、ただ、じっと目を離さず優希の様子を監視し続けた。


 額に薄っすら汗をかき(うな)されている優希。

 額から流れる汗は目尻を伝い涙のような筋を作っていた。紺と白のチェック柄のパジャマが汗で湿って色濃くしている。そこまで、蒸し暑くはない気がするが、色濃く変色しているのを見ると汗をかいているのは間違いないようだ。


 シーンと静まり返る深夜二時三十分、優希の唸り声が静けさを切り裂いた。正面には壁掛けの時計がカチカチいわせ秒針を動かしている。

怖い夢でも見ているのだろうか。あんなに身体を揺らせるくらい怖い夢とはどんな夢なのだろう。ブルブルッとゴマは身体を震わせた。


 優希は、両手でしっかり握られた真っ白なシーツをクシャクシャにさせ、身体を上下左右に揺さぶり見えないなにかと闘っているみたいだ。ギュッと真一文字に閉じられた唇が微かに開け放たれ、なにかを口にした。耳を近づけなければなにを言っているのかわからないほど小さな声。


「と……う……」

 言葉は、闇に溶け込んでしまって普通の人間なら耳にも届くことはないだろう。ゴマの聴覚をしても聞こえてこないのだから。居眠りしていたわけじゃない。優希が、言葉をきちんと口にしていないだけだ。優希はいったいなにを口にしたのだろう。ゴマは小首を傾げながらも一時も優希から目線を外しはしなかった。

 

 いつしか月明かりが窓から入り込み、優希にスポットライトを当て始めていた。監督が固唾を呑んで主役の台詞を今か今かと待っているかのような静けさの中、月のスポットライトを当てている。優希の口はプルプル振るえ言葉を綴ろうとしているかに見えた。


 あたりに潜む暗闇も、その台詞を聞き洩らすまいと無音を保つ。

 期待に答え、優希は一言やっと聞き取れる声で呟いた。


「父ちゃん……」

 

 優希の声は擦れて聞き取りにくい声だった。目からは涙を流し、枕を濡らしシミを作っている。額にじんわり汗をかいてはいるが汗ではなく、本当の涙がひとしずく流れ落ちた。


「こ……と……り……」

 

 また、優希の口が言葉を紡ぐ。ゴマはニヤリと左側の口角をあげた。

「よし」と呟き頷いた。予定通りだ。

 

 ゴマの言葉が合図だったかのように優希の横で、ぼんやりとひとつ豆粒くらいの明かりが灯った。蝋燭(ろうそく)の炎ではなく、豆電球の人工的な光でもない。白いぼんやりとした自然の織り成す明かりだった。しいて言うならば、蛍のような淡い瞬く温かみのある明かりだった。

月明かりが反射しているわけでもないのだろうが、揺らめくなにかも見えた。


 おや? 動いた、か?

 思ったよりも早いようだな。


 不思議な温かみのある明かりの中には幼魚が丸くなり閉じこもっているみたいだ。ときおり尻尾を震わせていたかと思うと、一気に大きさを増していき次第に人の形を作っていく。真っ白な人形みたいに姿を変えていく。ゆっくりと脈打つように膨らんだと思うと少し萎み、また大きく膨らみ人の形を形成していく。どことなく、膝を抱えた胎児のような姿に見えた。


 ドクンドクンと脈打つような命の誕生を思わせる繰り返される明かりの収縮と膨張は、加速度をあげ変化を遂げていく。真っ白な人形が少しずつ赤みを帯び始めるとともに、頭から黒髪が伸び始め、手に足にとはっきりし始めていく。そんなありえない光景にも、ゴマはピクリとも動くことなくじっと見続けていたが、さすがに、パッと照明弾のような閃光が生じたときには、一歩後ろに退き瞼を閉じずにはいられなかった。


 光が萎み薄暗い部屋へと戻ったときには、優希の隣で女の子が、スヤスヤと寝息をたて眠りについていた。ずっとそこで優希と一緒に寝ていたかのように白地にピンクの水玉模様のパジャマを着てスヤスヤ寝息をたてている。タオルケットを剥いでしまったのか、足下にグチャグチャになって丸まっていた。

 

 誰も疑いも持たず、優希の妹としてそこにいた。ウェーブのかかったショートカットがよく似合っていてぷっくりとした唇をした女の子が、優希とともに横になっている。

 

 いったい、どこから来たの?

 君は誰?

 なんて疑うものはどこにもいない。


「私は……コトリ……」

 

 寝言のようなぼんやりとした声が、どこからか聞こえて消えた。いや、コトリの口から聞こえてきたのは間違いないはずだ。だが、違うところから聞こえてきた気がした。空から聞こえたような地面から聞こえたような不思議な感覚。ゴマにはそう感じたが、この不思議極まりないコトリの登場は承知していたことだ。ゴマは最初から知っていた。コトリが現れることを知っていた。なぜ、と聞かれたとしてもそうなのだからしかたがない。なら、なんで思わぬものでも見たような驚きをみせていたのかって? 


 いいじゃないか、やっぱりこんなシーンに出くわしたら、知らないふりして何事だって素振りをしたほうが面白いじゃないか。そうだろ。とニヤついた。そんなことはどうでもいい。


 コトリは降り立った時点で前から存在していた優希の妹なのだ。そういうことにしたのだから、そうなのだ。ゴマはこれでよしと頷いた。

月明かりは優しげにふたりにスポットライトを照らしている。二つの並んだ青とピンクのタオルケット。同じように、足下に丸くなっていた。六畳一間の小さな舞台に二人の子役が並んで寝ている。いや、優希は子役としてはちょっと大人かもしれない。もう立派な俳優と言っていい。ゴマはニヤリと口角を上げた。


 ただ優しげな光の先に浮かぶ紫色の月を見て鋭い目つきへと変貌を遂げ、また二人の動向を監視する。

怪しげな舞台に獣のような声がひと吠え轟けば、完璧だと思える今日の空。ゴマはまた、左側の口角をあげ、ニヤッとする。舞台ではなくどこにでもある家庭の子供部屋なのだが、なぜだか、観客のいる舞台のような別の空間に見えた。ゴマはその舞台の観客気取りでいた。ちょっとは役者気取りも味わったがそれはスルーしてくれ。オープニングは最高だとにやけながら、本番はこれからだと緊張感を募らせた。


「うぅーーー」

 静寂を打ち破る声だった。その声は、優希の喉から発せられているようだ。


 コンコンコン。

 

 再びノックする規則的な音色が響く。それと同時に、優希も唸る。その声は、あまりにも低く重く心の叫びのように六畳一間にこだまする。ノックは、優希の胸の奥から聞こえてくる気がした。

始まった。ゴマは、少しばかり毛を逆立て目を細めてあたりを警戒する。

 

 部屋の外にはノックも唸り声も届いていないようだ。ゴマにはもちろん聞こえている。ゴマにも疑問だが、まわりは、なんの異変も感じていない雰囲気に見える。どこかに、奴はいるはずだ。隔離された別空間のように、唸り声は洩れることはないのかもしれない。結界のようなものが張り巡らせているのだろうか。すでに、この中に奴はいるのだろうか。そうに違いない。

きっと、奴はいる。基弥だ。


 倉重基弥がいる。

 姿は見えないのだが、きっと、いる。間違いない、はずだ。

 コトリを呼んだのは正解だった。間にあったはずだ。


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