18
日曜日の夕方、決まって行く場所があった。父の働いている図書館だ。
仕事終わりの父を迎えに行くのが決まりごとなんだ。母が運転席、兄貴と一緒に後部座席、ワクワク気分で車を走らせ十五分くらいで目的地の図書館には着く。
濃い灰色の石造りでできたがっしりとした立派な入り口が通りから見え、とても頼りがいのある老紳士といった風貌が漂った威厳のある建物だった。どこかの城砦かと思ってしまう佇まいに見とれてしまう。ちょっとだけ入るのに気が引ける。図書館なんだから、そんなこと気にすることじゃないんだけど。だからってわけじゃないけど、正面からは入ったことがない。
図書館の顔である正面入り口ではなく、裏口に程近い図書館の道路脇に母は車を止める。と同時に、駆け出し裏から図書館へと入っていく。迎えに行くときはいつも同じ場所だ。
裏口はちょっと正面とは違い、ちょっと頼りない感もある木造でトタン屋根の通路から入っていく。基弥は、この裏口が好きだった。まるで気の優しい親戚のおじちゃんがおいでと手招きしてくれているようで、すんなり入っていけてしまう。
ほっとするような気がして気持ちが落ち着く。
どちらにせよ、図書館に来ることは楽しみのひとつであることに変わりはない。
父に会えるってこともあるが、本が読めるってこともあったからだ。
「父ちゃん」
「お、来たな」
カウンター越しにニコニコする父が立っていた。
薄い縦縞の線の入った紺のスーツを身に纏った父がいつものように立っている。細身でスラッとしたスーツ姿に臙脂色のネクタイが決まっていてカッコイイ。
あと三十分もすれば、退社の時間だ。
その間、本棚を物色する。だいたい読む本は決まっていた。動物が主人公の本だ。シートン動物記、ファーブル昆虫記の定番のものはすでに読み終えている。椋鳩十さんの本に今は、嵌っていた。小学校の図書室よりも本の数が豊富で頬が緩みっぱなしになってしまう。変な顔だなぁ、なんて言う人はいないから気にしないけど。
そんな中、本に囲まれて、どれを読もうか思案する。
「今日は、何借りてくんだ」
「えっとね、こないだ、『野獣の島』読んだから、次は、『野性の叫び声』にしようかな、でも、『カガミジシ』ってのが気になるんだよね。どうしようかな」
悩んだあげく、『カガミジシ』を読むことにした。
父を見ると、ニッコリとしていた。
「おまえは、本が好きだな」って頭を撫でてくれた。
基弥は、本を小脇に抱え満面の笑みで母の待つ車へと走る。兄貴も走る。父も走る。そのあとをもう一人の靴音が聞こえた気がして基弥は、止まりかけたがすぐに、また走り出した。気のせいだと思うことにした。振り向いたら見てはいけないものが見える気がして車へと向かった。
家族四人仲良く、家路に向かう。運転手は母だ。助手席に父。もちろん、後部座席に兄貴と一緒に、深々と席につく。全員集合だ。だからといって、外で外食するわけでもなく、ショッピングするでもない。ただ、父を迎えに行くほんの短い時間だけど、車内は、ピクニックにでも行っているかのようだった。
「父ちゃん……」
助手席に目を向けると、そこには、誰もいなかった。
あれ? なんで? 身体が強張って動きを止めた。顔が引き攣る。
気づくと、母も、兄貴も消え、車さえ跡形もなく消え去っていた。ただ、ほのかに灯る小さな珠がひとつ道端に転がっていた。
真珠みたいな小さな珠が……コロコロと話しかけているように転がっていた。
珠を手に取った瞬間「ゆうき……」と頭の中に声が広がってきた。温かなぬくもりとともに、優しげな母のような声が冷たくなった心をじんわりと温めてくれた。
母の声ではない気がする。けど「母ちゃん」と呼びたくなる声。
しばらくの間、珠をじっとみつめていた。どれくらいみつめていたのかはわからないが、とても心が落ち着く珠だった。まるで、焚き火に手を当てているような暖かな珠。不思議だなと思いながら、珠の中を覗き込むと、揺らめく炎が目に映った。なぜか、懐かしさが心に広がっていく。
すると、また、声がどこかから風に乗ってやってきた。女の子の声だ。
「ねぇ……、き・こ・え・る……。こ……」
聞き取れたのはそれだけだった。風の音に掻き消されてすべてを聞き取ることができなかった。『こ』の続きが気になった。
気がつくと、いつもの畳の部屋に座っていた。目の前には、父の遺影がじっとこっちをみつめている。線香の煙越しに、父の遺影と目が合った。
若かりし頃の父がそこにいた。
短い夢の世界に旅立っていたらしい。手にあるはずの珠はもうどこにもない。ただ、心のどこかにモヤモヤとしたものが行ったり来たりしている気がした。なにか、ここにいることに違和感があるような……そんな気がしていた。
ふと蘇る女の子の声。なんて言っていただろうか?
わからない。だが、なにかを聞いた。大事な言葉だったろうか? 思い出せないが、気にかかる。基弥は、そっと胸に手を当てた。自分が自分でないような、もどかしさが胸の奥を締め付けるような……。いや、そうじゃない、心がないような……胸の内にぽっかりと風穴が開いたような、不思議な感覚だった。
ふと、どこかで人の気配を感じた気がした。どこからだろう?
外から、かな。
何気なく窓ガラスに目を向けてみたが、特になにも変わりはなさそうだった。念のため、窓を開け外の様子も見てはみたものの誰もいた様子はない。ただ、庭の草木が風に揺れているだけだった。
基弥は遺影の前に座り直し、父と向き合った。
あの頃は本をよく読んでいた。今も本は好きだが、子どもの頃ほど読んではいなかった。
椋鳩十さんの本が好きでよく読んでいたのを思い出し、父に話しかける。もちろん、目の前の表情を変えない父の遺影に。
「父ちゃん、覚えているかな。よく図書館まで迎えに行っていたよな。懐かしいな。笑ってよ、父ちゃん」
カタン。
後ろで何かが倒れる音がした。振り向くと、特に倒れているものはない。首を傾げながら、また、遺影に向き直る。
ギシッ。
階段を誰かが踏みしめたような嫌な音。居間から鼾が聞こえてくる。母は寝ているはずだ。他にこの家には誰もいないはず。ならば、今、ギシッと鳴らしたのは誰だ。背筋がゾクゾクとなる。気のせいだ。そうに、違いない。線香を一本取り、ライターで火をつけて香炉に立てる。なにも聞こえなかったと、仏壇に手を合わせて大きく深呼吸をした。それでも、やはり気になった。階段は、すぐ後ろへ二、三歩動けば見られる場所。なのに、なかなか踏ん切りがつかない。
猫でも入り込んだのかもしれない。いや、どこも開いてはいないし入ってこられる隙間はない。さっき窓開けたときに入ったのだろうか。
それはないだろう。
古い家だし、ちょっと家が軋んだだけかもしれない。それとも、隣の家から聞こえるのだろうか。
なんらかの理由を探し納得しようとする。気にすることはない。何の問題もない。そう思えば思うほど、ギシッとなった音が纏わりつく。
どうも気持ちがすっきりしない。
階段の一段目を上がると、必ずギシッと鳴る。ただ、人が上がらないと鳴るはずがない。
身体中の血液が逆流でもしているかのようにザワザワしてくる。
基弥は、正座していた足をくずし、意を決し遺影の前から立ち上がり二階へと続く階段をそっと覗き込む。顔半分だけで覗き込む。きっと、猫だと理由付け覗き込む。
「ゴマ、いるのか?」
ゴマというのは、うちの猫の名だ。
いや、正確には、うちに居ついた野良猫だ。
最近じゃ、家で夜寝て、明け方出て行くっていうのがゴマの生活習慣になりつつある。
鼻づまりでグシュングシュンとして風邪気味だからかもしれない。少しばかり心配である。獣医にでも見てもらったほうがいいのではないかとさえ思えるくらい元気がない。そこまでしなくてもいいとも思えるが……。
結局、獣医に見てもらうこともなく、健康になりそうなキャットフードを与え様子を見てはいるのだが、果たして回復に向かうものかどうか。
ゴマといえば、確か、子供の頃にも、そんな猫がいたような気もする。いや、ありえないか。同じ猫のはずがない。猫と一緒に、誰かいたような気もするが……。まあ、いい。そんなことはどうでもいい。
一段、階段をあがる。
ギシッ。
同じ音が足下で鳴る。猫の体重で果たしてこの音が鳴るのだろうか。
心拍数が上がっていくのがわかる。
二階には、基弥の部屋と誰も使ってない畳の部屋の二部屋あるが、ゴマがいればすぐわかる。ベッドに寝転がっているか、畳の部屋の重なり合った布団の上。きっとどちらかにいるはずだ。
「ゴマ、なぁ、いるんだろ。ニャンとか言ってみろよ」
***
「同じ名前だね」
ゴマはキッと睨み「うるさい」と呟いた。
コトリは、頬を膨らましプイッと顔を背け押し黙った。そんなに怒らなくても……なんてコトリは思っているんだろうな。あの顔はそうに違いない。まったく、しかたがない奴だ。
「ほら、隠れろ。念のためな」
「はい、はい」
「はいは、一回でいい」
「はーーーーーい」
まったく、大人気ない奴だ。不貞腐れているコトリをゴマは口で引っ張り二階の押入れにこっそり忍び込んだ。
***
「ゴマ、いないのか?」
名前を呼んではみたものの、返事はなかった。返事といっても、「なんかよんだ」みたいに言葉を話すわけではない。
テレビではしゃべる猫なんて放送されているものも見たりはするが、うちの猫は、話したりはしない。ほとんど鳴いたりもしない。鳴くときは、お腹が減ったときか、外に出たいときくらいだ。それでも、掠れた蚊の鳴くような声だ。なぜ、そんな鳴き方なのかは不明だが。まあ、おとなしくて、そのほうがいいといえばいいのだが。
結局、二つのどちらの部屋にもゴマはいなかった。もちろん、誰もいやしない。聞こえるのは、窓ガラスを揺らす風の音だけ。
やけに、風が強い。
もしかしたら、風が家を揺らせて、ギシッっていわせただけかもしれない。古い家だし、木造建築だからな。ギシッといって驚かすのはよくあることだ。そのたびに、ドキッとしてしまう。そういうことにしておこう。さっきのギシッは階段でなったんじゃないのだろう。
当たり前だ、誰かがいるはずがないじゃないか。泥棒も、幽霊も。ゴマも。
幽霊?
自分の思った言葉に背筋がゾクゾクッとして、ドキドキッと心臓が高鳴った。
いたのだろうか? 幽霊。
いやいや、気にすることはない。いるわけがない。
もう一度、部屋を隅々まで見てまわり、なにも変わりがないことを確認する。
基弥は胸を撫で下ろし、ホッと胸を撫で下ろした。次第に血液の流れもなだらかなせせらぎとなっていく。安心しきって畳の部屋から出ようとしたとき、後ろから、カタンと微かだが物音が耳に届いた。聞こえた、確かに聞こえた、よな。カタンと、聞こえた。
また、心拍数が一気に跳ね上がる。
サッと素早く後ろへ振り返り、目だけ動かし様子を窺う。天井にはなにもない。タンスは服だけだ。
ま、まさか、押入れか?
ドクン、ドクンと脈打つ鼓動が耳元で聞こえる気がしながら、サッと押入れの戸を勢いよく開けて身構える。あるのは布団だけだった。
小さく溜め息を洩らす。まったく、なにを怯えているんだか……。バカらしいと安堵したのも束の間、再び、小さくカタンと鳴った。
ドキンと胸が高鳴り、ゴクリと唾を呑み込む。勘弁してくれよ。あー、胸が痛い。やめてくれ、頼むから。
どこだ、どこからだ。こういうのってポルターガイストとかいうのかなぁ。基弥は項垂れた。
ふと、ひとつの戸棚が目に留まる。カタンと確かにこの耳で聞いた。
もしかしたら……。奥の戸棚をじっとみつめる。
基弥は、ゆっくり近づき戸棚に手をかける。戸棚に人は隠れることができない。猫くらいだったら入ることは可能だが、閉まっている戸に入ることはどんな器用な猫でも無理だろう。小人でもいるっていうのなら、別だが。まさか、お伽の国でもあるまいに、そんなことがあるはずがない。指先までドクン、ドクンとしているじゃないか。
戸棚を恐る恐るゆっくりと開けていく。なぜか、今回はサッと一気に開けられなかった。手が強張り思うように動かないせいなのか、ゆっくり開けたほうがいいと直感が働いたのか自分でもわからない。少しずつ開く戸棚のから出てきたのは、小人ではなく『月の輪グマ』という本だった。一冊だけ横になって、お久しぶりとでも言っているかのように思えた。本がそんなこと思っているのか疑問だが。
椋鳩十全集一巻だ。
見つけてくれてうれしいとばかりに一瞬光ってみせた気がした。まさか、本当に本にも意思がある?
いやいや、光の加減でそう見えただけだ。
突然、父の顔がふと脳裏に浮かんだ。ま、まさか……。
どこかに父の幽霊がいるのか? 教えてくれたのではないだろうか。ここに思い出の本があるよと。そんなこと、あるのだろうか。あってほしい気もするけど。
同じ幽霊でも、父の幽霊だったら逢いたい。そう強く願ったが、姿を見せてはくれなかった。残念ながら、父の幽霊だというのは勝手な思い込みのようだ。
大きくひとつ深呼吸をし、本を手に取った。
本を開いてみると、紙切れが一枚ヒラヒラと畳へと舞い落ちた。
本を小脇に抱え紙切れを拾うと『優希』と薄く滲んだ文字が書かれていた。
それだけしか読むことができなかった。なにか他にも書かれていたようだが、薄れてしまって読むことができなかった。蛍光灯の明かりに翳して見ても、角度を変えて見ても続きを読むことができなかった。
エンピツで軽く擦り付けてみたが、なんの文字も出てはきはしなかった。
紙切れをグシャグシャにしてゴミ箱に捨てると、モヤモヤした気持ちだけが残った。ふと小脇にある『月の輪グマ』の本が再び光ったように感じた。なぜだか、本が呼んでいるような不思議な感覚に陥った。
基弥は、本を開いて本の世界へと逃避行する。だが、読み進めても内容がうまく頭に入ってこない。楽しいはずなのに、面白いはずなのに、懐かしいはずなのに、別なことが頭を過ぎる。
父は、この家にいるのだろうか?
父は見守っていてくれているのだろうか?
『優希』って誰だろう?
知り合いにそんな名前は……ない。でも、聞き覚えがあるような……。いったい誰だろう……。
基弥の手元の本がラストを告げようとしていた。
時計の針は、二十三時五十九分を指そうとしていた。かなりの時間が経ってしまっていた。肩が妙に重く首をぐるりと回し、基弥は本を閉じた。
すると、思い出したかのように、父の若かりし頃の写真を見に一階へと降りて行く。
また、ギシッと鳴りビクつき「おぉっ」と小さく声をあげた。ふと、目の端に、人影が入り込んできたような気がして階段上に目を流す。いるわけないよな。
「ゴマ?」
ゴマが見えたと思った次の瞬間、蜃気楼のように姿が薄れていった。白い布切れも風になびいたような錯覚に襲われた。どうやら、そうとう疲れているらしいと目を瞑りかぶりを振った。
***
「バカ、なにしてんのよぉ」
コトリは、ゴマの尻尾を引っ張り畳部屋へと引き込んだ。
「な、なにをする」
「みつかっちゃうでしょ」
「……バカは、ないだろう……」
失態に気づいているのだろう、ゴマは、誰に文句を言うわけでもなく、畳に向かって小さく呟いていた。
「おい、それはそうと、なぜ隠れるんだ」
「え?」
思わぬ質問に、首を傾げる。
「なぜって……、そういえばそうね。って最初に隠れようとしたのは、あんたじゃない」
コトリは隊長に向かって『あんた』呼ばわりをしてしまったと肝を冷やした。
隠れる必要なかったかもしれないなと、コトリは思った。今、基弥とじっくり話してもいいんじゃないかと。なぜだか、アジャも、基弥の父も気配がない。罠かもしれないという気持ちもあった。いや、基弥が不審がるよね。覚えてないみたいだし、飼い猫が口を利くなんて知ったら、驚くよ。ゴマは、潜入捜査してたんだもんね。飼い猫のふりして。ゴマに視線を向ける。間違ってないわよね、この名推理。ゴマは、はっきり言わないけど。絶対、基弥の飼い猫は、ゴマ隊長よね。でも、いつから……。
そういえば、ゴマに前に会ったことあるような気がする。そうよ、あの子猫。でも、それってどういうこと?
ゴマは、何歳だったっけ? そういう問題なの?
もう、わからない。ゴマにもう一度目を向ける。
「ん、なんだ、よ」
「別に」
もうちょっと、記憶を整理させてからのがいいかもね。コトリは、ひとり頷き、正解の行動をしたと自負した。
「父ちゃん、僕は、このままでいいのかな? なんか、よくわからなくなってきたよ。父ちゃんのいない人生なんて考えられないよ。なあ、父ちゃん、幽霊でもいいから、出てきて話そうよ、な」
そんな声が下から聞こえてきた。もう、魂だけの存在だというのに、かわいそうな基弥。なぜ、こんな記憶の回想をさせるのだろうか。
コトリは、階段に足を向け、一歩踏み出したとたん、すべての景色が音をたてて崩れ落ちていった。やはり、罠だった?
基弥は、そんなことは気づく様子もなく、遺影に向かって話しかけ続けていた。あの基弥は幻影? 気づいてないわけがないよね。
「おいらは……間違ってない、よな……」という声が瓦礫とともに耳に届いてきた。
今の声は、アジャ? 砂埃で姿は見えないからなんともいえないけど。
ううん、違う。基弥でしょ。いや、優希よ。あー、もう、わからない。こんがらがってきちゃったぁ。基弥も優希もアジャも似たような声しているんだもん。まったく……。
あれ? それって耳がおかしいのかなぁ。ううん、そんなこと……ないわよ。




