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「け、け、け」
「ちょっと、あんた、なにしたの!」
コトリは、キッとアジャを睨みつけた。腹の底でグラグラとマグマが煮えたぎり噴火寸前とばかりに顔を上気させた。
「なーに、たいしたことないって。記憶をフィードバックさせているだけだ。面白いだろ。そのうち、優希は消える。あいつは、基弥に生まれ変われるって寸法さ。嬉しいだろ。な、嬉しいに決まっている。おいらが、一番わかっているんだ。おまえのことを。け、け、け」
「なにをわかってるって」
コトリは、唇を真一文字にさせて、アジャに睨みをきかせる。アジャの向こうでぐったりと倒れてしまった基弥が気になり、チラッと目を向ける。
「おまえが、基弥を好きだってことだよ。け、け、け。おいらも好きだ」
コトリは、歯を食い縛った。
「基弥が復活したほうが、嬉しいだろ。あいつの父親も嬉しい。おいらも嬉しい。一石二鳥じゃないか。いや、一石三鳥か。おいらは、いいことしてやっているんだ。違うか?」
「違うね」
ゴマが口を挟んだ。
「うるさい、おまえは口を利くな。バカ猫が」
粘っこい唾液を絡みつかせた鋭い歯を見せつけるように、アジャは、大口でゴマに言い放った。
「自己満足だな。こんなんじゃ、おまえの魂は腐っていくぞ」
「腐るだぁ。け、け、け。腐って結構。めでたく成就するんだったら、腐って結構じゃないか」
「めでたくだぁ? そんなことありえない。おまえがやっていることは、茶番だ。おまえの魂が腐れば、おそらく……」
ゴマは、言葉を途中で呑み込み押し黙り、倒れている基弥に目を向けているのが、コトリにもわかった。『おそらく』の言葉の後が気になった。コトリは、アジャと基弥を交互に見る。ゴマは、ゴマ隊長は、なにか気づいたのかもしれない。いったい、なにを気づいたっていうの? おそらくの後に続く言葉を教えてよ。
「おい、なにが言いたい。は、はーん。バカ猫だな。なんにもわかっていなんだろ。本当は、おいらを騙そうったって、そうはいかない。け、け、け。この結界にも手も足もでないバカ猫だもんな。魂を救う? はっ! バカバカしいにもほどがある。そんな体たらくでよくも勤まったもんだ。あ、そうか、もうもうろくしちまったんだ。そうだ、そうだよな。ほら、こっち、来てみい。ほら、ほら、ほら。け、け、け」
「バカは、よく吠えるなぁ」
「な、な、なんだとぉー」
コトリは、二人の間を割って入ることができなくて、言葉の攻撃をじっと観戦しているしかなかった。
「ほら、まるで負け犬だな」
アジャのこめかみに血管が浮き出てくるのが、はっきりとわかる。ゴマを見ていたら、アジャを叩きのめしてやるという感がありありと伝わってきた。
「おまえはカゴの鳥だ。結界に手も足もでないのは、おまえのほうだ。この結界から出てくることも叶わぬはず。笑わずにはいられないなぁ」
ゴマは、にやりと口角をあげていた。ゴマの顔がすごく怖く見えてコトリはブルッと震えた。
「ふん、バカか、こんな結界なんぞ、容易く出られるわ」
「おい、待て」
ふと、アジャの後ろに人影が現れた。基弥の父だ。なにやら、アジャの肩に手を当て、耳元で呟いている。コトリは、基弥の父を「なぜ?」と空気のような吐息交じりの声で問うた。が、基弥の父は、答えてはくれなかった。ちらりとこっちを見た気がしたのに……。
なぜなの? アジャなんかとなぜ一緒にいるの?
間違っている。絶対に、間違っている。こんなことで基弥の魂は救われない。もっと、別の方法を考え直して、お願い。コトリは、願った。優しい基弥の父だったら、この気持ちが届くと信じて、願った。
「ふん、危ない、危ない。おいらも焼が回ったもんだな。まあ、そんな年でもないが。結界を解くところだった。バカ猫の手に乗るものか」
「かわいそうに、自分が消え去るとも知らないで……」
ゴマは、左右にかぶりを振り、憂いの目を向けている。アジャに向けているようだ。
「戯言を」
また、闇の広がる大口を開けて不敵な笑みを浮かべた。ふと、アジャの視線が下を見たように感じられ、つられてコトリも下を見た。
なにか転がっている。あ、あれは……もしや。ドクンと心臓が大きく揺れた。そんな様子にアジャが気づいたのか、ニタッとして目を合わせてきた。
アジャは、足下に転がっていた丸いものを手に取ろうと触れた。「ぎゃっ」と短く叫び手を震わせたかと思うと、わなわな身体も震わせて、なにかに怯えている様子だった。頭を抱えて、ギュッと身体を縮ませていた。
「な、な、なんだってんだぁ。くそ、くそ、くそ」
突然、立ち上がり、畳を歪ませるくらい蹴りつけているアジャ。真紅の珠がぼわんと明暗を繰り返しながら転がっている。アジャは、すぐにその珠を睨みつけ、頬を膨らませ、ふぅーっと吹き付けた。珠は、どこかへ消え去ってしまった。
「あ、今のは……火の珠?」
「けっ、邪魔ものめが」
アジャは、引きつるような目つきをし、唾を吐きつけた。
「面白くねぇ、くそたれ、面白くねぇ。ふん、行くぞ、この」
ドンと壁に右の拳をぶつけ、大きな風穴を開けると、アジャは、左手で基弥の襟元を鷲掴みし、軽々と持ち上げ壁の中へ消えていった。一瞬、基弥とアジャが重なり合って見えた気がした。
「やっぱり……」
ゴマは、眉間に皺を寄せ難しい顔をしていた。
「どうかしたの?」
「コトリ、あいつは、アジャは、いや、なんでもない」
「え? なによ、はっきりしなさいよ、隊長でしょ」
「ふん、そういうときだけ隊長って言うんだからな。まったく」
コトリは、しれっとした顔でそっぽを向いた。
「まあ、いい。いくぞ、コトリ」
「どこに?」
「追いかけるんだ!」
「あ、ごめん。そうよね」
ゴマは、なにかブツブツ言っている気がするが、気にしないことにした。アジャがいなくなった基弥の記憶の空間は、結界も消え、すんなり後を追うことができた。大きな壁の穴に飛び込む前に、あたりを見回してみたが、やはり火の珠は見当たらなかった。アジャは、いったい、なんであんなに怒鳴り声をあげていたのだろうか。あの珠に触れたとき、アジャはなにかを見たに違いない。コトリは、アジャの瞳孔がギュッと縮まったのを見ていた。きっと、なにかが見えたに違いない。そんな気がしていた。
「おい」
ゴマの催促の声に、コトリは頷き、穴へと飛び込んだ。ものすごい突風に短い髪でさえも海草のように絡みついてきて視界を遮られてしまった。アジャはいったいどうしたいのだろうか。基弥を生まれ変わらせて、得になるとも思えないけれど。
それにしても、どうして、アジャを野放しにするのだろう。同じことばかり思ってしまうが、アジャの魂を消滅させてしまえば、簡単だと思えるのに、どうしてそうしないのだろうか。コトリは、ゴマの揺らめく尻尾を眺めながら、更なる基弥の記憶へと飛んでいった。
あー、腹立つ。腹立つ、腹立つ、腹立ってどうしよもねぇ。
「うおぉぉぉーーーーー!」
真っ暗闇の中、アジャは、気を失った基弥を肩に担ぎ天に向かって吠えた。その轟く声に一瞬暗闇に綻びが生じた。一筋の光が天より地を貫く。
アジャは怯み手で光を遮るようにして眇めた。うっ、ま、眩しい。や、やめろ、やめてくれ。なぜだ、なぜ……どうして責める。そうさ、悪いのは……。
「悪いのは俺だ」
涙が頬を伝っていく。なぜ、なぜ、涙が出るんだろう。バカ野郎。基弥がなんだ。オヤジがなんだってんだよぉ。おまえらなんか知ったことか。すべて消滅してしまえ。おまえらのせいだ。おまえらが、おまえらが、この胸の苦しみを増長しやがるんだろうがぁ。わかっているぞ。やめろ、やめろ。バカ猫も小娘もふざけやがって。基弥もそのオヤジもふざけやがって。すべてはこの手の内で転げまわっているに過ぎない。
「け、け、け」
皆、消えちまえ。この世もあの世もすべてだ。もちろん、この身体も魂も消えちまえ。この苦しみから解放されれば、それだけでいい。そうだ、それでいい。
ん? い・な・い?
肩で気を失っていたはずの基弥が消えた。暗闇から貫かれていた一筋の光も今はない。アジャはかぶりを振り、目を見開いた。自分で自分の心がわからなくなった。なにを今考えていたというのだ。なにを涙したというのだ。基弥はどこいった。
くそ、くそ、くそ。
またしても、邪魔立てしやがって。ちょっと待てよ、なぜ、こうも基弥に固執するのだろうか。基弥の魂が、顔を出した瞬間、どういうわけかチャンス到来などと思ってしまった。この心の奥底で疼く感覚はいったいなんだ。そうだ、なぜ、基弥の父まで呼び寄せてしまった?
もしや、誰かに操られている? いや、そんなはずはない。自ら実行に移したことだ、そのはずだ。
とにかく、優希の魂を基弥が取り込めば、すべてはうまくいくはずだ。オヤジは、基弥が救われるなんて思っているかもしれないが、その逆だ。消滅しちまうんだよ。優希も基弥も魂の鬩ぎ合い共倒れするって寸法よ。
「け、け、け」
基弥、おまえは逃げられまい。この渦からな。早くすべての記憶を思い出せ。




