16
忘れることができない三月五日、あまりにも突然すぎるあの日から、電池切れしてしまった時計のように秒針が時を刻むことをやめてしまった。
基弥は溜め息を吐く。心の時計は完全に機能を止めてしまっていた。
とはいえ、実際には時は止まることはない。
なにごともなかったかのように街は動き忙しなく時を刻んでいく。悲しむ暇もないくらいやらなくてはいけないことがたくさんある。
やるべきことは山ほどあった。
時は忙しくカチコチと刻んでいく。
もう父はいない、心の整理をしなくてはいけない。事務手続きをするように、少しずつ心の整理をしていかなくてはいけない。
だが、そう簡単にはいくはずがない。人の心は、機械ではない。
基弥は思う、思い出はいっぱいある。悲しんでいてはいけない。前に進まなくてはいけない。
きっと、今、転換期にきているのかもしれない。
基弥は、三月五日のあの日を思い出し正座をしながら、父の遺影を眺めていた。
心の声は、なにかを告げている。確実に、なにかを告げている。
「ごめんなさい」と心の底から聞こえてくる。
女の子の声は、きっと自分自身の心の声なのかもしれない。
本当にそうなのか?
疑問が頭の中を行ったり来たりする。
「ごめんなさい」
溜め息が自然と出てしまう。
謝ったってなにも戻ってはこない。父への謝罪の気持ちが膨らんでいく。病気に気づけてあげられなかったことに対する罪悪感のようなものが、心を蝕んでいる。
謝罪とともに、感謝の気持ちも心の中には存在していた。
涙ぐみ、天井に向かって声を出さずに心の中で、基弥は話しかけた。
『ありがとう……父ちゃん。
僕の声届いているかな……、きっと届いているよな、そうだろ、父ちゃん。
いままで、ほんとにありがとう。
父ちゃんは、誇りだ。みんなにいっぱい、いっぱい笑顔をくれてさ。そうそう、いろんなところに一緒に出掛けたよな、楽しかったよ。覚えているだろ。
でも、もう自分の時間を過ごしてよ。天国でゆっくり休んでよね。
頑張るからさ。母ちゃんを支えて頑張っていくからさ。
ほんとに、ほんとに、いままで、ありがとう。父ちゃん
でも、ごめんな。もっと長生きできたかもしれないのに……。父ちゃんの分まで生きなきゃな。
父ちゃん……幸せだったのかなぁ』
***
基弥の父に対する思念が強い、強すぎる。わからなくはないけど……。とめどなく思念が流れてくる。
コトリは、長編大作の映画でも観ているような不思議な気分だった。基弥の気持ちが増幅されて覆いかぶさってくるような錯覚さえ感じた。でも、今は、見守ることしかできない。あのスクリーンの向こう側に行くことがまだできそうもない。一見すると薄っぺらいガラス越しのような気がするのに、その厚さは思ったよりも分厚いようだ。
「ねぇ、ゴマ隊長」
返事がないので、足元を見ると、ゴマも傍観者を決め込んでいた。いや、単にボーッとしているだけかもしれないけど……。そんなこと言ったら怒られるかな。
さてと、次はどんな記憶かなぁ。
***
終わってしまった。葬儀が、終わってしまった。天国に父は旅立てたのだろうか?
そんなことをぼんやり考えて空を見上げた。青い澄み切った空だった。いろいろとはじめてのことがいっぱいな毎日だった。後期高齢者健康保険証、障害者手帳の市役所への返却。遺族年金や生命保険受給の手続き。土地や家屋の名義変更。父名義の預金を引き落とすのに、必要な書類集め等の面倒な手続きに追われる毎日。銀行の手続きが一番面倒だった。なんでこんなにもやらなきゃいけない手続きがあるのだろうかと思うくらい。まあ、そんなこと詳しく話してもしかたがないことだよな。とにかく疲れるということだ。精神的にってことだ。
それでも、なんとか落ち着きを取り戻していった。
忙しさが緩んでいくと、急に寂しさが募ってくる。もう、どこにも父はいないんだと痛感すると、胸の奥になんとも言いようのない寂しさなのか虚しさなのかわからないものが込み上げてくる。目頭も熱くなってくる。
父は、目の前の動かない写真に成り代わってしまった。母と二人暮らしになってしまった。気づくとつい父の写真を見ながら話しかけてしまう。それが毎日の日課となった。
ちょっと離れて暮らしている兄貴もきっと、父が亡くなったことが現実じゃないような気がしているはずだ。離れているからこそ、実家にはまだ、父がいるように感じてしまうはずだ。きっとそんなもんなんだ。だからといって、寂しくないわけじゃないだろうけど。
父は、もうダメだってわかっていたのかもしれない。亡くなる前日、ヘソクリのある場所まで教えて、使っていいからなんて話すなんて、今思えば、変な話だ。
あのとき、「大丈夫だ」って言葉もウソだったのかもしれない。ほんとは、苦しかったのかもしれない。安心させるためのウソの言葉だったのかもしれない。最後まで、気を使うことないのに……。そんな父が誇らしくもある。
「父ちゃん、もう苦しくないよな。天国の爺ちゃん、婆ちゃんに会ったのかな、昔話でもして笑ってでもいるのかな。なあ、父ちゃん、たまには姿を見せに来てくれよな。……もしかしたら、すぐそばにいるのかもしれないけど……。見えないんだよな……残念だけど……」
声になるかならないかぐらいの小さな声で呟き、線香をあげながら、微笑むことのない写真を眺め、基弥は、父との思い出を懐かしんで心を落ち着かせようとした。それが、余計涙を誘うことになってしまうのだが、そうしたくなってしまう。
そんな気持ちにさせるのは、この線香のせいかもしれない。この紫色の線香がそうさせるのかもしれない。とてもいい香りのする線香だった。
ハーブの香りなのだろうか?
どこかで嗅いだような懐かしい香り。基弥にはわからない。ただ、現実から夢の世界へと誘ってくれるような気がする。
遠い、遠い、子供の頃の思い出まで引き戻してくれるような気がする。線香がそうさせるなんて、おかしい奴だと思われるかもしれないが、そう思えてしかたがなかった。
たかが線香、されど線香。
今まで知らなかったが、線香にもいろんな種類がある。線香なんて、墓参りに持っていく緑色の定番の線香位しか知らなかった。こんないい香りのする線香があるなんて思ってもみないことだった。
線香をあげるとともに、思い出がふわりと頭に浮かぶ。心地よい香りに目を閉じ、陶酔していく自分が見える気がした。どこからか、温かい眼差しを向けられているような気がした。その眼差しは父かもしれないと、ふと微笑んだ。気のせいだったとしても、いいじゃないか。
どうしても現実逃避してしまう。だが、そんな後は、いつも畳に涙の痕が色濃く残っていた。瞳から溢れた涙の雫は、嫌な気持ちを身体の外へと放出してくれているようでもあった。ある意味デトックス効果につながっていた。魔法の線香だったのかもしれない。
もしかしたら、亡くなった父からの最後の贈り物だったのではないだろうか。霊感強くないから、すぐそばにいても見えないから。せめて線香の煙に包まれて父と触れ合ってほしいと天国から贈ってくれたのではないだろうか。そんなこと、ありはしないとわかってはいる。頭がおかしくなったわけではないぞ。
いや、どうせなら、ほんとにおかしくなって、なにもかも忘れてしまいたいとも思える。そのほうが幸せかもしれないよな。
頭の中にはいろんな考えが渦を巻いていた。
もう一度過去に戻り人生をやり直せたら……。
父が病気をしないように予防できていたら……。すべて手遅れだったと今さらながら思う。
後から後からいろんな考えの上塗りをしてしまい、どうしようもなくなってしまう。
神様、仏様、どうか望みを叶えてはくれないだろうか。
タイムマシーンが、この世の中に存在してほしいとこれほど思ったことは、今だかつてない。
いや、タイムマシーンじゃなく、子供の頃から、やり直してみたい。今の記憶を残したまま。きっと、今よりももっと良い人生が送れるはずだ。
いやいや、最悪の人生になる可能性だってある。どっちにしろ、無理な話だという点に変わりはない。
基弥は項垂れた。
無理な話だというのなら、この線香の見せてくれる夢だけで十分満足だ。
「父ちゃん、父ちゃんのこと忘れないからな。心の中には、今だって父ちゃんがいるんだから、忘れるわけがない。そうだよな」
突然、心臓がドクンと鳴ってむせ返る。
「やり直せるさ……願い叶えてやるよ。け、け、け」
基弥は、サッと声の聞こえたほうから仰け反るように、身体を傾け、窓のほうを見た。鳩尾あたりが、冷たく感じた。ごくりと唾を呑み込み、ゆっくり様子を窺う。窓の外には、人の姿もなければ気配すらない。今の声は、いったいなんだ。悪魔の声か。どろりとした耳障りな少し掠れた声。悪魔の声など聞いたことはないけれど、そうなのかもしれないと思わせる声だった。そんな奴に用はない。
「呼んだのはおまえじゃないか。け、け、け」
基弥はブルッと身体を震わせ、目を見開き眼球だけを動かしあたりを窺った。
なぜだかわからないが、視線を感じた気がした。でも、窓の外にはやはり誰の姿もありはしなかった。部屋の中も、いないと思う。身体が強張り、後ろに振り返ることもできなかった。もしかしたら、化け物がいるのではないかと悪寒を感じ、動くことを身体が拒否してきた。
ん? 誰かが叫んでいる? 今度は誰だ。
いや、気のせいだ。耳を澄ましてみても、聞こえてこない。おかしい、おかしい。
「まさか、父ちゃん、なの?」
心臓がなにかに反応し、ドキリとする。一瞬、なにかを思い出しかけたが、すぐに暗い穴へと落下していった。
「父ちゃん、会いたいよ」
基弥は、また、父の遺影に話しかける。
父との思い出は、いっぱいある。そのことが、勇気づけてくれていた。
父の仕事場によく行っていた頃のことが頭の中に浮かび上がってくる。そう、図書館の司書をしていた、父のことが。
基弥は、懐かしい思い出に突き動かされ、昔の図書館へと車を走らせた。
父が働いていた図書館は今では違う用途で使われている。だが、入ることはできる。もしかしたら父に会えるのではないかと、車を走らせた。
子供の頃を思い出しながら……。
「も、と、や……だ、め」
え? なに?
基弥は、眉間に皺を寄せて首を傾げた。耳がこそばゆくなるようなか細い声が聞こえた気がした。バックミラーを見たが、もちろん後部座席には誰の姿もなかった。
いったい、なにが起きているのだろう。
「僕は……」




