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「聞こえる、ねぇ、聞こえる!」


 コトリは、透き通った窓ガラスを叩きながら、口を大きく開けて叫ぶ。早く気づいて、思い出して、こっちを見て。

基弥は、忘れてしまったのだろうか。本当に、忘れてしまったのだろうか。信じない。なんども、なんども、大声で叫ぶ。結界が張られているのは、重々承知だ。それでも、念を送るように、腹に力を込めて、言葉を綴る。


「聞こえないの? ねぇ、コトリよ。こっち向いて」


 喉がかれる。それでも、基弥にはまったく届いていないようだった。

 とても厚い防音のガラス窓がコトリと向こう側にいる基弥を遮っていた。

 

 見えないが確かに存在するガラス窓が立ちはだかっていた。基弥の父の力は、これほどまで脅威になるとは思わなかった。どこかおかしいという思いが込み上げてくる。なぜ、どうして、こんなことするの?


 窓ガラスの先に見えるのは、基弥であり優希でもあった。振り向きもせずにいた。目と鼻の先だというのに。こっちよ、お願い、こっち向いて。


「ふぅ、ダメね、私の声は届かないみたい。おかしいわね、こないだは聞こえていたはずなのに。いや、諦めちゃダメ。できるはず、私ならできるはず。そのために、私は、ここにいるんだから……」


 コトリは、自分を励ました。ただ、虚しい思いだけがあたりを包み込む。それでも、自分を信じてやらなくちゃ。


 そのとき『冷静に』という言葉が脳裏に蘇ってきた。そうよ、冷静によ。なにしているのかしら。今、基弥の逢ってなにを話すというの。すべてが水の泡になってしまうかもしれないじゃない。バカなんだから、もう。で、でも……。


 コトリは、厚い窓ガラス越しの舞台をしばらく観照していた。よく見るのよ、基弥のいるこの世界を、よく見るのよ。どこかに、綻びのようなものがあるかもしれない。なにかこの状況を打破する鍵があるかもしれない。ゴマが言っていたように、冷静に慎重に、そして大胆に。そんな策があるはずよ。


「希望がないわけではない、だろ」


 いつの間にか、ゴマが、足下から上目遣いでみつめていた。コトリは、ゴマに目を向け微笑み頷いた。


「ほら、あれ見ろ」


 ゴマに促され、目線の先を追ってみる。なに? なにか、あるの? という疑問を持ちながらもよく目を凝らしてじっとみつめる。


「あ!」


 基弥のポケットに仄かな明かりがチラついている。明かりがポケット越しでもわかるくらいに形を浮き上がらせていた。あれは、五芒星のブローチだ。間違いない。でも、なぜ、あんな光を灯しているのだろう。なにかに反応しているということなのだろうか。コトリはうーんと唸った。ただのブローチじゃないことはわかっているけど。あれって、いったいなんなんだろう。


 あれ? そうよ、あれって優希が持っているはずでしょ。なんで、基弥が?


「ねぇ、なんで――」


 全部言い終える前にゴマが口を挟んだ。


「一心同体だってことだよ、優希と基弥は」


 そう、そうなのよね。最初からわかっていることじゃない。

 でも、それって……同じ魂の持ち主ってこと?


 そんなことって……、あ、そうか。輪廻転生ってことね。そうよ、だから顔だって似ているんじゃない。バカね、なんで気づかないのかなぁ、そんなことも。だから、隊長になれないんじゃない。って、今、そんなことはどうでもいい。


 コトリは、基弥のポケットに灯る五芒星のブローチに、再び目を移す。


 ほんの僅かだけれども、ブローチのおまもりの効果が役に立っているのは間違いないはず。コトリには、そう感じられた。ゴマも感じ取っているのかもしれない。五芒星の力を感じる。若葉の青々とした香りと生命力ある翡翠のような輝きが心に染み渡る。光と香りは、残念なことに、まだ、軟弱な光なものだった。ここは、じっと我慢の時だ。


 もうちょっと、もうちょっとだけ待つしかないだろう。この結界のような強力な夢の世界を打ち破るには、もう少し時間が必要なようだった。


 ふと見上げると、雲の切れ間から月明かりが照らし出す。


 コトリは、月明かりが応援してくれていると感じた。コトリの中のなにかが、むずむずとむず痒く疼いた。小首を傾げ、胸に手を当てる。左手の上に右手を重ねるように、胸を押さえ目を閉じる。


 そよ風が、ウェーブがかかったショートカットの髪を撫でていく。胸の奥が熱い。苦しい。基弥、ねぇ基弥。心の中で、コトリは呟き、また、基弥の姿をじっとみつめた。


 月明かりは、コトリに不思議な力をくれている気がした。基弥のポケットのブローチも力をくれている気がした。ほんのちょっとずつだけど、優しげで包み込むような力を感じる。一瞬、立ちはだかっていたガラス窓がキラリと光る。そのとき、コトリ自身の姿が、映りこみ、ハッとなる。


「私、私よね」


 瞬きしてみても、窓ガラスに映るコトリは、別人だった。小首を傾げると、やはり、ガラス窓のコトリも小首を傾げた。


「キレイ……」


 ウェーブがかったショートカットに碧い瞳を潤ませて、ぷっくりした唇。白い花柄のドレスがとても似合う素敵な大人の女性が月明かりの淡い照明に照らされて淡い光を纏って見えた。どこかのお姫様みたいだった。ガラス窓に映るコトリは、立派な大人の姿をしていた。向こう側の基弥と対等の立場になれそうな気がした。


 空のかなり低い位置に浮かぶほぼ丸くなった丸い月は、笑っている気がした。コトリも微笑みを返した。基弥のことを少しだけ忘れてしまった。が、しかし、そんな夢物語は、いつまでも続くことはない。雲が、優しげな月を隠してしまうと、すぐに、もとの姿へと戻ってしまった。窓ガラスには、いつものコトリがいた。錯覚だったのかもしれない。月の光がもたらした魔法だったのかもしれない。


 コトリは、ギュッと口元に力を込め、ひとり頷いていた。いつか、基弥と一緒に、やり直したいとひとり誓った。やり直すと言っても……。コトリはかぶりを振り、大丈夫、きっと。


「待っていてね。もうすぐだから……」

「バカがぁ」


 突然の罵声に飛び退き、倒れそうになるのを辛うじて一歩下げた右足で支える。


「け、け、け、おまえを待つ奴なんか、いやしない。け、け、け、いや、おいらが、待っていてやろうか。大事にしてやるぞ」


 ガラス窓にビタッと顔を寄せて、舌なめずりするアジャだった。


 コトリは、ゴクリと唾を呑み込み、言葉を失った。なぜという文字が、頭から離れず、グルグル回る。嫌悪感が心の中に渦巻いていく。


「くそったれ、なぜだ、なぜ、いつも、いつも、いつも、おまえは……邪魔するんだ」


 ゴマが、頬を痙攣するみたいにピクピクさせている。


「け、け、け。邪魔? 助けてやってんじゃねぇか。バカか。猫の隊長さん」

「助けだと」


 ゴマの瞳孔がギュッと細められていく。


「そうさ、基弥は、もう一度、人生をやり直したいんだろ。その父親もまた、息子に手助けしたいんだろ。だから、教えてやったんだ。生まれ変われる方法をさ。優希が、基弥の生まれ変わりを邪魔して、割り込んだんだってさ。本当は、あいつは基弥が継承する身体のはずだったってさ。なら、優希を殺せばいい。そういうこった。親切だろ」


「こ、この天邪鬼がぁーーーーーー」

「け、け、け。簡単だったよ、信じるのは。みんなバカだよな。おまえらも、あいつらも。け、け、け」

 

ゴマは、今にもアジャに飛びつかんばかりに毛を逆立てていた。


「こいよ、ほら、来てみろってんだ。まあ、無理だよなぁ。結界は破られねぇよなぁ。甘っちょろい、おまえさんらにはな。け、け、け」


 よだれを粘つかせてニタッと口を開けるアジャは、憎らしくてたまらない。分厚いガラス窓の向こう側に行くすべがないとわかって、喧嘩を吹っかけてきているアジャの顔を見るのは、腹が立つだけじゃ治まらない。コトリは、ただ睨み返すことしかできないもどかしさと腹立たしさに歯を食い縛って地団駄を踏んだ。


「け、け、け」という笑い声だけが耳につく。アジャは、以前よりも増して力をつけてきているようだった。いや、違う。基弥の父の力がアジャの力を高めているだけだ。そのはずだ。


 なぜ、ヤマトトトヒモモソヒメ様は、アジャを放っておくのだろうか。罰は与えても、野放しにしていては同じだ。牢屋にでも入れてしまえばいいのに。いや、いっそのこと魂ごと亡き者にしてしまえば、いいんじゃ。なぜなの? そうしないのは、なぜなの?


 コトリは、もう一度、アジャを睨み付ける。


 その向こうに、基弥は、なにが起きているのか気づかないまま、遺影を眺め、記憶の中の人生を反芻するようにやり直そうとしていた。


 記憶は永遠に人の身体に染み付き放さない。忘れていても、絶対に、どこかに潜んでいるはずだ。コトリは、その記憶を突き、蘇らそうと考えた。


 できるだろうか? いや、やらなくてはダメだ。そうよ、アジャなんかに負けるものか。



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