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八歳の記憶が、頭の中に流れていく。


「ねぇ、私、基弥のお嫁さんになる」


 そんな言葉が、聞こえてきた。自分の声だ。

 そうかと思えば、突然、水の中。


ゴボゴボゴボ……。泡が視界を埋めて空へと浮かび上がっていく。空が煌きながら揺らめいている。あれは……空、じゃないよね。ここは水の中だもん。あー、なんだか綺麗。どうして、水の中にいるんだろう。誰か、教えて。不思議と苦しく感じない。


 あれ?

 基弥の顔も見える。泣いている。基弥が、泣いている。


「おい、なんでだよ……、なんで、なんで、なんで……起きろよぉーーー!」


 身体が揺すられる。基弥の両手が肩に食い込む。これって……。そうだ、そうだった。水面がキラキラしていて見惚れちゃったんだ。そしたら……いつのまにか池の中に。


 基弥が泣いている。なんで、なんで泣いているの? ここにいるじゃない。


「ねぇ、私は、ここよ」


 基弥ばかり見ていてそこに横たわっていた自分に気づかなかった。

 え? ウソでしょ。これ、どういうこと。


「私が……もうひとり、いる」


 コトリは、自分の両手をまじまじとみつめた。どう考えても、混乱するばかり。手を見て、基弥のそばで倒れている自分を見る。


 なぜ?


 基弥の涙が、倒れているもうひとりの自分の頬へ零れ落ちた。同じくして頬がひんやりするのを感じた。ますます混乱は増すばかり。


「コトリ、コトリ。あなたのいるべき場所はこっちですよ」


 優しげでいて凛とした響きのある声が身体を撫でる。そのとたん、ふっと身体が温かくなり七色の光が風とともに包み込んだ。一気に心に安らぎが入り込んでくる。息を吸い込めば、まるでハッカ飴でも嘗めているようなスッとする空気が鼻からも口からも広がっていく。空が飛べそうな妙な軽さが心地いい。


 あ! 雲の切れ間から光の階段が……。そう、あれは、天使の梯子。教えてくれたのは誰だったっけ。ううん、違う。絵本で見たのよ。なんて絵本だか忘れてしまったけど、確かにそうだった。なんだか、不思議……なんとなく、大人になってしまった気がする。いつの間にって感じだけど。もしかしたら、最初から大人だったのかも。心は大人だったのよ。うん、そう、そうに違いない。


 なんだか眠い……ものすごく眠い。気だるくってしかたがない。もう、ダメ、おやすみなさい。


 気づくと綿菓子のような雲の上にいた。


 コトリは、すべてを思い出していた。頭の中が記憶という名の濁流に飲み込まれてしまいそうで怖い気持ちでいっぱいだった。基弥のお嫁さんになりたかったのに……。どうして、死んでしまったんだろう。なんで、忘れていたんだろう。こんな大事なこと。急に、基弥への近しい気持ちが増幅していった。基弥に逢いたい。逢いたいよ……。想いが、心を振るわせた。ドキッと刺激が貫いていく。自然と涙が零れてしまう。嫌だ、こんなの嫌だ。こめかみに僅かな痛みを感じる。鼓膜を震わせ、なにかをキャッチする。


 え? なに? 声、だろうか。そう、声だ。あれは、あの声は……基弥だ。


 基弥の声が、聞こえる。コトリと呼ぶ声が聞こえる。


「コ・ト・リ……、コトリ、コトリ!」


 基弥の声とゴマの叫び声が重なり合い、耳を貫いた。ハッとなり、コトリは、目を覚ました。どうやら、倒れていたようだ。ゴマが、胸の上で真剣な眼差しを向けていた。


「隊長……」

「はぁー、気がついたか……」


 安堵の表情を浮かべるゴマを抱きしめた。なぜだか、温もりが欲しかった。


「おい、おい、ちょっと……」


 コトリは、ゴマに向けて笑顔を見せ、「もう大丈夫です」とだけ呟いた。


 ゴマも、一言だけ、「行けるか」とだけ口にした。コトリは、心の中が、スッキリと洗い流された気がしていた。涙を流したせいだろうか。不思議とすべてが吹っ切れている気がした。やるべきことは、ひとつだけ。基弥は好きだけど、間違いは正さないと。そうよ、基弥はそんな頼もしい人だったはず。だからこそ、気づかせないといけない。


「隊長、基弥の魂が私を呼んでいる」

 頷くゴマ。


 コトリは、今まで以上に気合を入れて、基弥の魂へと飛び立った。ゴマは、いつも通り肩に乗って楽をしている。そんなこと言ったら文句が飛んでくるだろうけど。



***



 仏壇に手を合わせる基弥がいた。基弥の父の遺影がそこにある。


 あ、あれは、例の男の顔だった。


 コトリは、天井の角から俯瞰で様子を窺った。基弥の父は、今のところ、ここにはいないようだ。逃げ切ったと安心しているのだろうか。それとも、うまく気配を消しているとでもいうのだろうか。殺気に満ちた基弥の父の顔が蘇る。なぜ? 恨まれるようなこと……しているつもりはない。人の命を蝕もうなんてことを許しちゃダメだ。そのくらいのこと、基弥がわからないはずが、ないよ。


 もしかしたら、基弥はそんなつもりはないのかもしれない。基弥より、基弥の父のほうがどこか変だった。確か、もっと優しげなイメージがあった気がする。もちろん、思い出した記憶が本物なのかはよくわからないけど。


 溜め息を洩らし、コトリは心の中で、とにかく慎重に行動しなくちゃダメよねと自分に言い聞かせていた。


「ここは、基弥の家だな」


 肩に乗ったゴマの問いかけに、コトリは頷く。

この記憶は、父を亡くしたばかりの基弥の記憶らしい。ずいぶん、大人になった基弥の姿があった。コトリの知らない基弥だ。ちょっと、渋くてカッコイイと頬を染めた。


「おい」

 とゴマが耳元で囁いたかと思ったら、チクリと頬になにかが刺さった気がした。ゴマが爪を立てていた。突き刺さってはいないが、レディーの顔に傷をつけたら承知しないからねと罵倒したくなる。が、ゴマが肉球で口を押さえつけたため、言葉は不発に終わった。危ない、ここで大声出したら、基弥に気づかれるところだった。ゴマは、軽く頭を振っていた。


 わかっているわよ。悪かったわよ。いい男になった基弥を見てデレデレ顔していたに違いない。ここは、任務遂行しなくてはいけない。コトリは、気を取り直して顔を引き締めた。公私混同しちゃいけなわよねと基弥の様子に目を向ける。


 基弥はただ、仏壇に手を合わせ、父が聞いているのかどうかもわからないまま独り言のように遺影に話しかけている。


 どうやら、気づかれずに済んだようだ。今は、様子を見るしかない。なにも起こる気配はないが、ここは慎重に行動しなくては。ただ捕まえるだけじゃ、きっとダメなんだ。そうに違いない。あの忌々しいアジャも関わっていることだし、油断禁物よね。


「はぁ……悲しむのはもうやめよう。父ちゃん、心配で天国行けなくなっちまうもんな。でもさ、僕のせいだよな、きっと。父ちゃんが逝っちまったのは……。はぁー」

「基弥ったら……」


 あんたのせいじゃないよ。そう言葉をかけてあげたかった。

基弥は、不意に振り返り、怪訝そうな顔であたりを見回し始めた。気づかれちゃったかな。肩に乗るゴマと目を合わし、そっとその場を後にした。


「誰? 誰かいるのか?」


 基弥の声が聞こえてきたが、今、基弥とは逢えない。逢うべきじゃない、そんな気がする。


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