11
時計の針は刻一刻と進んでいく。
大きく息を吸い、大きく息を吐く。基弥はそんなことを繰り返していた。
ん?
玄関のドアをコンコンとノックする音が聞こえた気がしてゴマは身を乗り出して聞き耳をたてる。
ノックは聞こえない。おっと、まずい気づかれちまうとゴマはすぐに身を隠す。
空耳だったのだろうか。
怪訝な顔をしつつ、遺影をみつめている基弥の姿。もしかして、基弥にもノックの音が聞こえていたのだろうか。いや、それはないか。
「こんなんじゃ、ダメだな。頑張らないと」
基弥は、自分に向かって一喝していた。
おや、もうひとり誰かいる、のか? ゴマは、毛を逆立て警戒心を強めた。
「順調、順調。人の心とは、なんと簡単に操れるものだ。ゴマも、コトリもまだまだ甘い。ダミーの基弥に引っ掛かるようじゃ、真実は見えやしない。基弥よ、おまえの無念を解放するがいい。記憶を刷り込み、優希をものにしろ。ふふふ」
何者だ? 完全に聞こえているぞ。この声の主は阿呆なのか? 思ったことが声に出てしまっているんじゃないのか。それとも、気づいていないのか? ここにいるというのに。
ゴマは首を傾げていた。
声の主は気にかかるが、優希のことも気にかかる。優希の心は、消えかけている。もう時間の問題だ。いや、まだまだ猶予はあるのか? うーん……。
あいつは、いったいなにものだ。ゴマは、気配をできるかぎり消し、声の主を、目を凝らし探ろうと努めた。男だということはわかるが……。
男は、高らかに笑い出す。が、すぐに、口を閉じ、動きを止めた。
いったい、なにをしている? あいつは、なにをしている? 向こうを向いている男がなにをしているのか、何者なのかまったくわからない。どこかであったことがあるような気もするが、他人の空似だってことも考えられる。ゴマは、ゆっくり足を運び、回り込もうと意識を集中する。
二人、いるぞ。
「まさか、あいつら……」
男が二人。いや、もうひとりは子供かな。
男の殺気のある声が恐怖を駆り立てた。ゴマは、気づかれたかと動きを止める。それより、コトリはどこにいった。すぐ後ろにいたはずだが。まったく、勝手な行動をとるなと口をすっぱくするように言っているというのに。
ゴマは、また殺気を感じ、背中の毛を逆立てて、震えた。やはり、男に気づかれたかもしれない。いや、大丈夫だ。殺気は、あの男からじゃない、のか? 基弥からか? うーん、わからん。草むらに身を潜めて匍匐前進し、様子を窺う。
「あ!」
慌ててゴマは、自分の口を肉球で押さえた。気づかれただろうか。それにしても、またか、また邪魔立てする気だな。アジャの奴の仕業か。いったい、なにを吹き込みやがった。くそったれ。フツフツと湧き上がってくる怒りを、ゴマは抑えつつ、計画を練り直したほうが得策なのではと、思い始めていた。
アジャともうひとりの謎の男。
コトリは、どこに行った。まずいぞ、早く知らせなくては……。ゆっくりと、顔を上げ、コトリの気配を探る。すると、男の向こう側にコトリの姿が一瞬横切ったように窺えた。まったく、気づかれたらどうする。あいつは、基弥よりやっかいだぞ。もしや、男は魂を操れる存在かもしれない。油断ならぬ敵だ。アジャには魂など操れまい。何者だ、アジャの仲間か? アジャと見知らぬ男。これは、厄介だな。
こうなることをヤマトトト……。えっと、ああ、まったく、もっと短い名前にしてくれってんだ。とにかく、姫様は、お見通しだったに違いない。そう、最初からこうなることを。教えておいてくれよ。ゴマは、今の苛立ちをすぐに封印した。ヤマトトト……。『ト』は何個だったっけか? なに考えいる。今はそんなことどうでもいい。うう、それにしてもイラつく。姫様が聞いてないことを祈るだけだ。でも……一応、姫様、ゴメンとだけ思っておこう。目をキョロキョロさせて、息を吐く。
姫様を怒らせるほうが、もっと、厄介かもしれないからな。
ゴマはハッとなり息を潜め、身体を縮めて、耳を左右に揺るがせた。
おや? 何か変だ。
ほんの僅かな歪み、そこから聞こえる頼りなく小さい声。あれは……基弥の声だ。間違いない。基弥が苦しんでいる? アジャの奴のせいか? 違うだろうな、あの男のせいだ、きっと。
ゴマは、草むらの中へ伏せをして隠れ込んだ。おお、振るえあがってしまうこの殺気は……。存在だけで脅威を感じる。只者じゃない。魂を操っているのはあいつなんだな。どうみたってアジャじゃない。
男が急に、こっちへ振り返り様子を窺っている。やはり、手強い相手のようだ。気配を察知されるはずがないという考えは捨てたほうが賢明だ。アジャの奴に気づかれたかもしれないし……。男は、いったい、誰なのだろうか。
「ふん、思ったよりやるじゃないか」
男の声は、はっきりとしていた。隠れているのは、わかっているぞと、こっちに向かって話しているような口ぶりだった。恐る恐る草むらからもう一度、目だけ出してみる。もう、背を向けていた。
男が、名前を口にした。聞き間違いじゃないかと思える名前を口にした。
「ほう、コトリではないか。懐かしい」
懐かしいだと?
コトリの知り合いだということか。ん? まずい、コトリがみつかってしまったではないか。なにをやっている。
「コトリ、コトリ、ここだよ、コトリ」
もうひとつ、コトリを呼ぶ声がする。基弥のようだ。いや、違う。アジャだ。アジャが、基弥の声を真似ている。小賢しいことを。ちょっと待てよ……コトリは、基弥のことも知っているということか? なんだか頭の中がこんがらがってきちまったぞ。
ゴマは、鼻を鳴らして歯を食い縛った。男も、基弥も、コトリを知っている。もちろん、アジャも。コトリも知っているということだ、よな。だが、記憶がないコトリに聞いたところで誰なのかわからないだろう。残念だが……今は。
コトリは、男と対峙していた。堂々と男を睨む顔が、離れたゴマにも窺えた。なにを、しているんだ。
「コトリ、どうした? 忘れてしまったのかい」
コトリは、なにも話そうとしない。ただ、怪訝そうな顔をしていた。
「思い出してくれ。な、おじさんだよ。一緒に、基弥を、私を、救ってくれ。な、コトリよ、邪魔はしないでくれ。すべてうまくいく。うまくいくんだよ。大丈夫だから、そう、大丈夫」
ゴマは、一歩も動けなかった。男は、涙声だった。さっきまでの殺気は消え去り、コトリへと懇願している。本心から訴えている。ゴマにもそれが伝わってきた。すぐにゴマはかぶりを振った。騙されるな、騙されてはいけない。これはあいつらの策略だ。そうに違いない。油断させる気なんだ。コトリよ、騙されるなよ。そうだ、今なら、基弥の魂を捕まえることができるかもしれない。あいつらは、コトリに気をとられている。チャンス到来かもしれない。コトリは、すぐそばにいる。間違いなく成功する。一言、コトリに指示を出せば、済むことだ。なのに、ゴマは、言葉を呑み込んだ。コトリが危険に晒されるかもしれない。その一瞬の躊躇が、仇となった。
男も、基弥も姿を消していた。一歩、あと一歩だったのに。
騙されたのだろうか。いや、違う。本心だ。いや、アジャの小賢しい策にやられたのか。躊躇するべきじゃなかった。いや、捕まえにいこうとした瞬間、返り討ちにあった可能性もある。コトリだけじゃないと気づかれていたかもしれないじゃないか。
やられた。どっちにしろ、やられたことに変りはない。ゴマは、甘い自分を罵った。今、コトリを責めることはできやしない。残念だが、隊長失格だ。
いや、待てよ。あの男から妙な感情が伝わってきた気がした。あいつは、悪者ではない気がする。単なる勘だが……。大丈夫だから、かぁ。だが油断禁物だな。敵なのか味方なのか? アジャは味方じゃないはずだ。なら、一緒にいる男も、敵か?
「ゴマ隊長」
コトリに呼ばれて、ハッと身体を震わし、やっと、我に返った。
「お、コトリか。どうやら、魔法にかけられていたようだ」
単なる言い訳だ。魔法などにかかってはいなかった。そんなフリをして、誤魔化しただけだ。きっと、コトリに見破られているだろう。それでも、フリをさせてくれ。
「失敗ですね」
「ああ」
「ふぅー、ところで、コトリ、今の男、誰だかわからないか?」
「ゴメンなさい。思い出せない。知っている気もするんだけど……」
「そうか……、なら、もう少し、付き合ってみようか、あの男と基弥に」
「え? どういうこと」
「だから、基弥の記憶の旅を続けるってことだ。危険かもしれないが、な」
あの男の心の内が気になる。ここは賭けだ。
「それって、命令よね。大丈夫なの?」
「わからん、だが、コトリの記憶も、もしかしたら、鍵となるかもしれない。あの五芒星のお守りがなんとか時間を稼いでくれるだろう」
ゴマは、コトリに向かって頷いた。
「あの星型の古臭いやつ、そんなに役に立つのかなぁ。まあ、いいわ、わかった」
「古臭いだぁー。まあいい。でも、わかりましただろ。まったく、言葉遣いは直らないな。ずっと、我慢しっぱなしだな」
ゴマは、左右にかぶりを振り、微笑んだ。イライラもするが、どうにも憎めない。だいぶ慣れたが、どうにかならないものなのか。悪い奴じゃないし、意外と使える部下だし、微笑むしかなかった。
コトリもまた、微笑んでいた。やっぱり、可愛い部下だな、こいつは。
「よーし、仕切りなおしだ。一旦、天界に戻るぞ、いいな」
「は~い」
ゴマはコトリの頭を軽く小突いた。コトリにちょっと睨まれたが「ごめんなさい」という言葉に思わず微笑んだ。
「あ、そうだ。アジャはどうするの?」
「ん? アジャか。あいつは、放っておけ。大丈夫だ」
「わかった」
コトリはあまり納得いっていないようだが、今はそれでいい。ゴマも正直、アジャの存在はどうしたものかと思っていた。なにか引っ掛かる。それがなになのか今はわからないが、そのうちわかるだろうと思っていた。とにかく、基弥の記憶とコトリの記憶、それと、謎の男がどう関わっているのか見極めなくては……。
***
コトリは、じっと瓶をみつめた。瓶の向こう側からゴマも覗き込んでいる。瓶を通してゴマの顔を見ると、のぺーっとした顔に見えて、吹き出しそうになるが、そこは堪えて、基弥の魂を捕まえたと思っていた瓶を眺め続けていた。確か、男は、ダミーだと話していた。天界に戻ってみると、やはり、ダミーだったとすぐにわかった。緑色のアメーバ状のものが、瓶に沈んでピクリとも動かなくなっていた。
「やられたな、くそっーーーーーー!」
ゴマは、瓶にネコパンチを何度も繰り出している。相変わらず、瓶の向こう側で、のペーっとした顔を見せ付けてネコパンチを繰り出している。もう我慢の限界だった。コトリは、大口を開けて、高らかな笑い声をあげた。
「な、なんだ、おい」
「ご、ごめん、だって」
腹を抱え、笑いを止めようとするが、なかなか止まらない。
「もう、ちょ、ちょっと、アハハ」
コトリは、自分の口を両手で押さえた。ゴマは、怪訝な顔で、小首を傾げている。
「おい、真面目にやれ」
不機嫌そうなゴマの顔に、コトリは、やっと、笑いを抑えることに成功した。
「ごめん、なさい」
「なんで、笑い出したんだ。面白いか、これ」
アメーバ状の物体を指差すゴマ。猫の手だから、指というより手で指し示しているのだが。それが、また、笑いを誘った。のぺーとした湾曲したゴマの顔に猫の巨大化した肉球。コトリは、また、口を両手で押さえた。今さらだが、面白いものは、面白い。コトリは、ゴマの手から目線を外し、アメーバもどきに目を移した。ダメ、ここは真面目に、真面目によ。
「あ!」
コトリは、緑のアメーバの中に、細い線のような異物をみつけた。髪の毛だ。
「ど、どうした?」
ゴマも瓶にへばりつき、鋭い目つきで覗き込んでいる。潰れた顔がブサイクだ。やめてよ、もう。また吹き出しちゃう。蹲るようにして肩を震わせる。我慢よ、我慢。
「おい、どうした?」
いいから、瓶に顔引っ付けないで。もう、勘弁してよ。これ、拷問だわ。我慢の限界、もうダメ。再び、声高らかに笑い出す。
ゴマは首を傾げ「なに笑ってんだ、おい」とちょっと怒った声を出した。
「ご、ご、ごめん。……お、お願い、だから……こ、こっち」
コトリは笑いながら手招きしゴマを呼んだ。
「なんだ、なにかあったのかぁ?」
不機嫌な顔でゴマは近づいてきた。コトリはお腹を押さえ、どうにか笑いを堪え「あ、あれよ」と指差した。
「どれ?」
ゴマには見えていないようだ。そう、猫は、思ったほど目がよくない。暗闇には強いが、至近距離だと、よく見えないらしい。だからといって、遠くもそれほどよく見えないらしい。いい距離でないとダメなんだ。
「隊長、髪の毛です。ほら、あそこ」
「うーん、わからん」
「もうダメね。何年隊長やってるんだか、まったく」
「なんだ、その言種は……」
コトリは、蓋を開け、気持ち悪いアメーバの中へ手を挿入していった。すぐ横で、ぶつぶつ御託を並べて後ろ足で地面を叩きつけているゴマのことは気にもせず、慎重に髪の毛を摘まみあげた。
コトリは、摘まんだ指先がジンジンした。指先に切り傷ができたときみたいに、ジンジンした。と同時に、目眩が襲ってきた。地面が揺れる。空が回る。身体の自由が利かないような気がした。ゴマが、足下に擦り寄ってくるがわかる。ゴマの顔も、揺れている。どうしてしまったのだろうか。
「基弥」
コトリは、口走った。ゴマの声が、遠くで聞こえる。なにを言っているのかわからないが、叫んでいるようだということはわかった。
「わ、私……ああー」
頭の中に、言葉と映像が、溢れ出してきた。これは、記憶なの? え? ウソ、ウソでしょ。違う、いや、そうだ。
「私、そうだった」
コトリは、涙を流していた。




