9
初任務に就こうとしたときのこと。
「ねぇ、あそぼ」
「あ、えっと……」
ゴマが行ってしまう。どうしよう。おかっぱ頭の男の子が、屈託のない瞳を向けている。行かなきゃ。足を一歩踏み出そうとしたとき、右手をギュッと握られた。
「ねぇ、あそぼ。おいらとあそぼ」
「あ、ご、ごめんね」
コトリは、ゴマが少し先で振り返っているのを横目に、男の子の顔をみつめた。手を引く力が、意外と強い。ウソ……、抵抗できない。行かなきゃいけないのに……。ゴマに目で訴えかける。
「ねぇ、ちょっと、どこ行くのよぉ」
もう一度、ゴマに顔を向け、どうしようと目で訴える。ゴマも、しかたがないなぁという顔をし、足取り重そうに向かってきた。
「おい、小僧、今は、忙しいんだ。あとにしろ」
「ふん、おまえはあっちいけ、引っ込んでろ。バカ猫が」
「な、なにぃをぉー」
ゴマは、背中の毛を逆立てて奮い立っている。
「ふん、バカ猫に用はないって言ってるのが聞こえないのか、さっさといけよ」
あーあ、怒らせちゃった。コトリは、男の子のやられる姿が目に見えるようで、心が痛くなった。ダメと口にする前に、ゴマは、飛び跳ねてしまった。男の子へ爪を光らせている。見てられないとコトリは、目を閉じ、顔を逸らす。
ギャッと声に、ゾッとする。恐る恐る薄めを開けると……。ゴマがひっくり返っていた。
「バカが」
え? なにが、どうなったの?
男の子が、ゴマに勝ったの? どうして?
ニヤッとする男の子の顔が、妙に恐ろしく見えた。この子はなにもの?
「言うこと聞かないと、おまえも同じだからな。おまえは、おいらの奴隷にしてやる。喜べ」
また、ニヤッとする。
声を出せなかった。ゴマのもとへ駆け寄りたかった。なのに、手を引っ張られる力に任せるしかなかった。なんて力なの。子供の姿をした化け物だ。
「放して」
コトリは、声を絞り出した。
「いいから、放しててばぁー」
金切り声を発して、掴む手を左手で叩く。男の子は、足を止めて振り返る。
「おまえも、猫と一緒だな。バカだ。反吐が出る。でも、おいらは、おまえを連れて行く」
右手を掴む手が、ギュッと締め付けられる。手が引きちぎられる。そう思った。ニタッと不気味な笑みをし、大口を開けた。どこまでも続く闇が口の中に広がっていた。その闇の天と地に鋭い歯が剣山のように見えた。食べられる恐怖を感じた。いままで味わったことのない恐怖と不安。もう死んでいるというのに、殺されると錯覚した。
「ふん、怖いか、怖いよな。なら、喚くな、ほら、行くぞ」
「い、いや!」
「死にたいのか! バカが」
強く握られた手が、振り払われた。手首が紫色に変色していた。不思議と痛みは感じない。やっぱり、死んじゃったんだと確信が持てた。すぐに、変色した手首はもとの肌色に戻る。
「もう死んでいるもん。バカは、あんたよ」
「ち、違う、違う、違う。言うこと聞けばいいんだ。ほら、こい」
「嫌よ。ふん」
男の子は、眉間に皺を寄せ、唇を震わせていた。
「おまえら、バカに、魂なんぞ、救えるか。猫が隊長だって、猫になにができる。あんな弱っちい奴にできることなんてない。預言者だかなんだかわけのわからねぇけど、おまえらみたいな奴、選ぶ気が知れねぇな。所詮、お偉いさんもバカってことだよな。おいらと遊んでれば、いいじゃねぇか。な、そうだろ。そうなんだ、そうなんだよ」
そう吐き捨てたとたん、爆音とともに雷が、男の子を貫いた。黒焦げだ。
「く、くそったれ。こんなんで、やられる、かよ。諦めねぇ、絶対、おまえを連れて帰ってやる。死なせてたまるか、くそったれ」
ふらつきながら、男の子は、鋭い目を空へ向けパッと姿を消した。
空に、ヤマトトトヒモモソヒメ様が微笑んでいた。
「まったく、アジャにも困ったことね。さあ、早く行きなさい。期待していますよ」
お辞儀をし、コトリは、いまだにひっくり返っていたゴマを抱き上げ下界へと降りていった。
「お、コトリ、大丈夫だったか」
「もう、大丈夫だったかじゃ、ないわよ。弱い猫さんだね」
「おい、猫って言うな。隊長だ、隊長。油断していただけだからな。本当は強いんだ」
「ふふ、はい、隊長さん」
コトリは、ゴマの頭をなでなでし、微笑んだ。
「おい、撫でるな。隊長だって言ってるだろ」
なんだか、おかしくて、かわいい隊長だな。ちょっと頼りないけど。
「はぁ、それにしても、なんだ、さっきの奴は。アジャとか言ったか? 絶対、子供じゃないぞ、奴は……。絶対、次は、叩きのめしてやる」
「そうだね」
「あ、コトリ、今、バカにしただろ。隊長だぞ。さっきは、油断しただけだって言っているだろ。図らずも、あんな奴の誘いに乗ってしまったのがいけないのだがな」
コトリは、笑みだけ浮かべ、口は出さなかった。
初仕事は、弱い浮遊霊の回収だったため、あっけなく任務完了した。ゴマの的確な指示が功を奏したのは言うまでもない。さすが、隊長だってことだ。ただの猫ではない。ゴマの言うことは、本当かもしれない。さっきは、油断してしまったんだと、コトリは、そう感じていた。もうひとつ、コトリは感じていた。魂の存在になって、姿は子供なのに、魂は大人なような気がしていた。そんなものなのかなと、おぼろげに感じていた。
「ああ、懐かしいな、でも、嫌な記憶」
「おい、なに、ひとりでブツブツ言ってる」
ゴマの言葉はあさってのほうへ投げやり、考えこんだ。
そういえば、生きていたときの記憶ないんだよね。なんでだろう。みんなそうなんだろうか。基弥の魂に触れたとき、なんとなくドキッとした気がしたけど……よくわからない。基弥とは……わからない。コトリは、頭を震わせ思い切り息を吐き出した。とにかく、なんとか捕まえなきゃ。それにしても、基弥って悪い魂なのかなぁ、本当に……。
コトリは、花畑での基弥を思い出す。優しい目をしていた気がした。あのとき、捕まえられたかもしれないのに……。ごめんなさいって謝って、油断させたのに……。最高の演技できたのに……。逃がしてしまった。まあ、なんとか、記憶の糸だけでも掴むことできたらか、成功って言えるけどね。
やっぱり、甘いのかな。あいつの言う通り。
基弥は悪者の魂だ。優希を乗っ取ろうとする悪者だ。しっかりしなきゃ。基弥も、きっと演技がうまい。そうに、違いない。でも、なんで、優希、なんだろう? 優希にターゲットを絞ったのは、意味あるんだろうか。
わからない。
「おい、コトリ、いつまで、ボケッとしてる」
「あ、はい。わかってます。隊長はすごい猫です」
「はぁー?」
「あ、いえ、なんでもありません」
コトリは、ペロッと舌を出して、知らん顔をした。
***
優希は、焦点の合わない景色に手を伸ばし、ふらふら揺らめきながら引きずるように歩みを進めた。ただただ、小さな光を目指して、進んでいく。
どこ? ここはどこだ。
脳に電流がビビッと走り、心臓がギュッと締め付けられる。だが、不思議と痛みは感じなかった。なんだか妙に身体が軽いなぁ。ほんと、不思議だ。あ、そうそう行かなくちゃ、あの光のもとへ行かなくちゃ。
あれ? どうして行かなきゃいけないんだっけ?
いくら考えても一向に答えは出てこない。まあ、いいや。とにかく行こう。きっと、あそこに行けばなにかわかるだろう。
「光へ、光へ、ほら急げ
未来があそこで、待っている。
それ、やれ、急げ、急げよ、急げ♪」
変な歌を口ずさみ笑みを浮かべる。なぜだろう、楽しいじゃないか、嬉しいじゃないか。
ん? なんか聞こえた気がしたが……。いや、気のせいだ。なんだろうな、遠足にでも行くみたいな変なワクワク感に心が躍る。
「光だ、光、ほら急げ
希望の光は目の前だ。
ほれ、やれ、急げ、ほほいのほい♪」
ん? やっぱり、今なにか聞こえたぞ。歌うのをやめ、耳を澄ます。
ほら、聞こえる。ふふふと笑う声が聞こえる。気のせい?
そうじゃない、よなぁ。
今は、進むだけだ。行けばいいんだと変な声に惑わされちゃいけない。きっと、楽しいことが待っているに違いないんだ、自分自身の気持ちに従おう。光に近づくにつれ、歩いていることさえわからなくなるくらい身体の重みを感じなくなる。地面を踏みしめているのか、空を飛んでいるのか、水の中を掻き分けて進んでいるのか、もしかしたら雲の上かもしれないなぁと感覚が覚束ない。なんだか、手も足も痺れているような、顔まで突っ張って麻痺しているみたいな気がしてくる。少し休んだほうがいいと思いつつ、心が弾み妙に楽しくて足が勝手に前へと進む。なにかに、引っ張られているように、どんどん進む。ふらふら、ゆらゆら、てくてく、らんらんらんと。
待てよ、これは変じゃないのか? 一瞬、冷静な気持ちが顔を出す。でも、すぐにウキウキ、ワクワクが心を支配する。
とても緩やかな時の中を進む。光がもうすぐそこだ。よし、いいぞ「ゴールだぁ」と大声を出し両手をあげた。と同時に、光が一気に大きく弾けていった。
「ま、まぶしい……」
***
どうやら、うまく基弥の記憶を捉えているようだ。
コトリは、微笑み小さなガッツポーズをとっている。ゴマはそんな様子を見て頷く。
「じゃ、行ってくるわね」
「うまくやれ」
ゴマはコトリの背中に向かって一喝する。それが合図となったのか、コトリの姿はスッと消し去った。
果たして、うまく基弥の心を解き放ってやれるだろうか。ゴマは一度だけ空を見上げ、その場を立ち去った。
***
あれ? ここでなにをしていたんだろう? いくら考えても頭の中が真っ白に染まっている。まるで思考回路が強制終了してしまったかのような……。あたりをゆっくり見回してみる。まだ、なにも頭に浮かんでくる気配はない。いつからここに座っていたのだろう……。
仏壇、だよな。
うん、間違いない。だから、なんだ?
顎を徐に掻いてみるが、そんなことで答えがでてくるわけでもない。当たり前といえばそれまでだが。どうやら、思考回路を再起動するまで、まだちょっと時間がかかるようだ。もうちょっと待ってみるしかない。そのうち、なにかが見えてくるに違いない。そうだろ、なぁ、そうだと言ってくれ。自問自答してみたところでなにも変わりはしないか。目を閉じゆっくり深呼吸をひとつする。
キラリ。
なにか強い光が瞳を直撃してきた。手を翳し光が差してきたほうを眇め見たが、光源はどこにもなかった。
あ! 突然、閃きがやってきた。どうやら、思考回路の再起動が完了したようだ。
「僕は、僕は、そうだ、基弥だ。そうだよな」
妙に嬉しくてすべてのものを吸い尽くしたいという衝動に駆られた。なぜ、急に? と聞かれたところで答えなどない。そうしたくなったのだからしかたがないじゃないか。そうだろう。基弥は、大きく息を吸い込み、大きく息を吐き出す。再び、その倍くらいの空気を吸い込んだ。よくわからないが、満足感が胸の内に広がっていた。
そういえば、ここは……。
知っている、この感じ。知っているぞ。
目の前には、仏壇。写真もある。ちょっと緊張した感じで微笑むのは……。そう、そうだ、この写真は父の遺影だ。大日如来像の左隣には、黒光りした黒檀でできた位牌もある。そう、そうなんだ。今はもう、父はどこにもいない。胸の奥に広がるなんとも言いがたいモヤモヤした気持ち。誰がなんと言おうと、間違いなく父の姿を見ることは叶わない。神頼みしたって人を生き返らせてはくれないだろう。あたりまえだ。病気だって治してくれなかった神様が、はいそうですかと聞いてくれるはずがない。まあ、神様が悪いわけじゃないさ。小銭程度の賽銭で、願いを聞き届けてくれる奴は、いやしない。神様だって例外じゃない。
溜め息が止まらない。
「父ちゃん、父ちゃん、返事してくれよ……」
当たり前だが、返事はない。聞こえないだけかもしれない。なんて思うのは都合がいいことなんだろうか。
でも、なんとなく、すぐそこにいるような気がするのはなぜだろう。
気のせいなのか?
もしかしたら、一部の人間には父の姿が見えているのかもしれない。特別な人には、見えているのかもしれない。霊感の人一倍強い人たちにとっては、普通に見えているのかもしれない。
あの優しい笑顔が……すぐそこに。いや、もしかしたら、怒っているかもしれないじゃないか。笑顔でいるだなんて、誰も証明などしてくれない。再び、溜め息を吐く。
父の遺影をじっとみつめ、肩を落として三度目の溜め息を吐く。
「父ちゃん、どこかにいるのかなぁ……」
もう一度、深い溜め息を洩らした。どうにも、溜め息ばかりで自分自身に嫌気がさす。
特別な力が備わっていれば、どんなによかっただろうか。いや、それはそれで、見たくないものまで見えてしまうじゃないか。それはそれで嫌だ。でも、父には会いたい。よく座っていたリサイクル品の椅子に目を向け、天上を眺める。
いない……どこにも、いない。見ることは叶わなかった。
仏壇を目の前にして正座をし、基弥は父の遺影をじっとみつめ続けた。
基弥は一瞬、なにかを感じた。心に暖かい風を感じた。姿は見えなくても、どこかに絶対いるんだと思い込んでいるだけかもしれないが、なにかを感じた。きっと、すぐそばにいて、笑いかけてくれているんだ。なにか、伝えようとしてそばにいるんだ。思い過ごしかもしれないが、そう思わせていてほしい。
いつも座っていたリサイクル品の椅子にまた視線を向けた。
誰も座ってはいない。空気がそこにあるだけ。無意識に見えない父を探してしまう。
やはり、父は存在していないんだと現実を叩きつけられた。それでも、今の現実を信じることができなかった。いや、受け入れることができないでいるだけなのかもしれない。どこかの病院に入院していて、いつでも会える、そんな風に感じてしまう。
椅子に寄りかかり、いつものように笑いかけていてほしかった。
手の込んだドッキリであってほしかった。
突然過ぎた現実を受け入れられないのは当然だ。それが、普通だ。そうだろ。心の中の葛藤が争っている。もう、やめてくれと叫んでも、どうしても、繰り返し思ってしまう。現実じゃない、いや、現実だと。繰り返し、繰り返し、これは嘘だという気持ちと現実を受け入れろという気持ちが鬩ぎ合う。
父は、亡くなってなどいない。どこかに、出掛けているんだと言い聞かせてみても、ただ虚しいだけだ。他人が見たらなんと言うだろう。慰めてくれるかもしれない。けど、それもまた、その場しのぎの言葉にしか聞こえはしないだろう。
でも、希望がないわけではない。心に灯る暖かな光を感じることがある。蝋燭のゆらめく炎のように、心を揺り動かされる一瞬がある。
声だ、不思議な声が聞こえるんだ。父の死は、ウソなんだ……どこかで生きているんだと思える瞬間があった。それと同時に耳障りな雑音も襲う。誰かの名前を呼ぶ声が、心を突き刺してくる。「ゆうき」という名前だ。それ以上に、その嫌な雑音に負けるなと励ます声が、うれしかった。基弥はそう思うことにしていた。身勝手な見解だ。
父の声ではないけれど、なにか心を揺さぶってくる不思議な声に基弥は、口角を軽くあげ微笑んだ。
聞こえる。どこからか、聞こえる。幻聴なんかじゃない、絶対に。
頭の中で誰かが囁く。微かに響くリィーンという音とともに。
「ちゃんと、ここにいるからね」と。
心のどこかで変な胸騒ぎを感じずにはいられない。怪しいとも思える。がしかし、これは、吉報なんだと信じたい。確信はない、ただ信じたいだけだ。
どこかで父と繋がることができる扉が開きかけているような、なんて言ったらいいのだろう……すぐそばで音もなく扉が開き、誰かが陥れようと誘い込もうとしかけているような……。それでいて、ホッとするような温もりを感じる。
ほら、君の父はそこにいるよと言っているような。その声を信じ、声のもとへ行ってみようじゃないか。
誰の声だかわからないが、知っている声のような気もする。心が疼く。ふと、脳裏に映像が流れ始めた。あれは……。ん? 七つ池?
そうだ、そうだ。あそこへ行こう。
「コトリだ。コトリがいる」
懐かしい。基弥は駆け出す。地面を蹴る足音が、こだまする。ん? もうひとつ、足音が……後ろから追いかけてきた。
なぜだろう、ひとつの名前が脳裏に張り付く。「ゆうき」って奴だ。なぜだ。
「父ちゃん……」
基弥は、父を呼んでいた。いない父を呼んでいた。やはり、頭がおかしくなってしまったのだろうか。父の死が、正常じゃなくさせてしまったというのだろうか。わからない。
不思議な声は、父と関係がないのかもしれないとふと思うこともあるが、そんなことはない……きっと。
コトリの映像はいつの間にか消息不明となっていた。どこへ消えたのかはわからない。もともと、妄想だっただけだろう。ところで、コトリって誰だっけ。バカなこと言うな、知っているじゃないか、コトリだぞ。そう、コトリ……だ。
なんだかよくわからない。頭が変になっちまったような……。ダメだ、考えるな。落ち着け。ふと、父の顔が蘇る。
「父ちゃん」
また、椅子に目をやる。きっと、笑顔の父がそこにいるはずだ。
こめかみが、ピキッと痛む。
「聞こえている? 大丈夫よ、ここにいるから……」
いったいこの声は……誰?
心を惑わす声の主は、いったい誰なのだろうか。
頭を抱え溜め息をついた。
あきらかに、父ではない声。女性の声のようだが、聞き覚えはない。
いや、ある?
忘れているだけ、なのか……わからない。不思議と心が温かくなる。
幻聴?
精神異常をきたしているのかもしれない。医者に行くべきなのだろうか?
聞こえるはずのない声。
また、映像がパッと見えた。ぼやけてはっきりしないが、誰かが見えた。
これは幻覚?
ありもしないことが起きていると妄想してしまう。父の存在はこんなにも大きなものだったのだろうか。いや、そうではない気もする。いったい、なんだ、これはなんだ。
いっその事、ちょっとでいい、時間を戻してほしい。ねじ巻き式のアナログ時計の針を逆回転するようにどんどん時間を遡り、二ヶ月、いや三ヶ月前でいい、時を戻してくれ、お願いだ。そうすればきっと、うまくいく。
欲を言えば、もう一度最初から人生をやり直したい。眉間に皺を寄せ、唸った。
きっとそこには、父がまだ存在している世界があるはずだ。だが、自分がいるのかはわからない。なにを考えているのだろうか、どうしようもないバカモノだ。
果たして、このままでいいのだろうか?
この胸騒ぎを気のせいだと放っておいていいのだろうか?
単なる妄想、幻聴だと思っていいのだろうか?
直感を信じて流れに従うべきなんじゃ……、わからない。頭を抱え左右にかぶりを振る。そんなことを考えてばかりいる。直感が正しいのなら、気が変になったのではないとしたら……。
もうすぐそこまで、迫ってきている。良いことなのか、悪いことなのか。猫のように足音もたてずに、なにかが迫ってきている。感じる。感じるんだ。基弥は、ブルッと武者震いをした。うまくいくさ。それがなにかさえわからないのに、そう感じる。
理解を超えるなにかがゆっくりと確実に、そこまで来ている。背中を木の枝で突くように急かしてくるなにかが。伏し目がちになりながら、基弥は、急がねばと、なにかしなくてはと気が焦った。
動悸が激しく気が焦りなにをすればいいのかわからなくなる。胃に入った食べ物が逆流してくるように吐き気を誘う。なにも口からは出てはこないが、ムカムカしていた。
基弥はなにもしないまま、その場に留まった影の薄くなった幽霊のように座り込んで萎んでいった気がした。息苦しい。なぜだ……。
こんがらがった頭の中には、『ゆうき』と『コトリ』というおそらく名前であろう言葉が浮かんでは消え、また浮かびと繰り返し巡り意識が遠のいていった。




