狐憑き
昼間に発達した雲が、真夜中になって雨と雷を降らせ始めた。なかなか寝付けないので、わたしは、空が光るたびに、音が聞こえるまでの秒数を心で数えた。光ってから音が聞こえるまでが早ければ、近くに落ちたということになる。
最初の雷は光ってから二十秒で音が聞こえて、次に光った時は一分数えたけれど、雨音にかき消されて音がしなかった。まあ、遠かったのだろう。
夜も更けて、三時である。雨は強かに地面を打っている。遠くの街灯が、窓のそばに生える木蓮の木を幽霊のようにぼんやりと闇の中に浮かび上がらせている。家の二階に届かないほどの低い木だが、万が一雷が落ちたらと思うとゾッとする。雷が鳴ってる時に木のそばは危ないのだ。そして、今わたしが居るこのベッド。その木から3mしか離れておらず、さらにガラス窓で隔てられているだけ。雷のある時の窓の近くも危険ということも思い出して、ずりずりとベッドの端まで後退した時、背中で読みかけの文庫本がぐしゃりと潰れた感覚があった。後退はそこでストップした。
雨脚が弱まったり強まったりしながら、鼻腔に雨特有の地面の香りを、ガラスの隙間から届かせる。
ふと、枕にしていた左腕の延長にある手の小指が、真っ黒であることに気がついた。他の指は暗闇の中で幾分の白さを保っているが、小指だけは何故か、焦げたように黒黒している。かろうじて輪郭を掴めるのは、長く付き合ってきた手であるという長年の感覚と、薬指に当たる爪の硬さだけである。
思わず右の手で左の小指を包み込んだ。脈もあれば、湿った体温もあった。
覆っていた右手を離して、闇の中で場所を移動させても、小指の闇の濃さは変わらない。不思議だ、と眺めているうちに、なんと人差し指も闇に溶けた。認識できるのは中指と薬指、それから親指だけである。
それ以外、黒黒として、内側から腐った時の肌の色だ、と思った。自分のものではないような奇妙な心地がして、それと同時に出来心で狐の形を作った。
黒々とした耳を闇に立てる、漆黒の狐である。鼻と口に当たる部分をパクパクさせていると、途端、這うような低い声が鼓膜を震わせた。
「小指が黒いのは、お前が人との約束を破り続けたからだ。人差し指の方は、お前が人を指さして笑ったからだ。お前の小指も人差し指も、内側から腐りきっている」
あろうことか、狐の口がパクパクと開閉している。自分の意思ではない。手が勝手に動いているのだ。
脈が速くなったのが、腕枕をする左の二の腕に押し付けられた耳でわかった。
「お前は嘘つきで、人を指さして笑う最悪の人間だ」
反論も何も出来ないうちに、狐の口ががぱっと開いた。その内側は真っ黒で、闇以上に濃い闇がとぐろを巻いていた。その口腔が唐突にわたしの顔面に迫ってきた。眉間から顎にかけて、食いつかれた感触を覚えた途端、わたしは意識を失った。
目が覚めた時、日が昇っていた。雨は止んで、夏の太陽に外は一面の濛気である。木蓮の木はしっとりとして、雀が居るのか奥の葉が揺れていた。
わたしは暫くその景色を眺めていたが、ふと昨晩の出来事を思い出して、自分の左手に目をやった。全ての指が同じ色でそこにあった。小指も人差し指も、健康的な色を見せている。狐の形にしても、勝手に動き始める気配はなかった。
わたしは満足するまで、狐の口をパクパクと人形のように喋らせていたが、やがてベッドを出た。
便所に向かいながら、昨晩すっぽかした弟の結婚式のことと、そこで再会し、何食わぬ顔で祝い酒を交わす予定だった中学の頃のいじめられっ子のことを思った。
そしていじめられっ子が、つい先日、自死したことを思った。遺書はない。わたしが回収したそれは、わたしのベッドのそばの木蓮の根元に、泥水を飲まされて埋められている。




