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脈絡

作者: 山藤里菜
掲載日:2026/05/22



「落ちた。」

男は床の診察券を拾うこともなく、女を見た。

女は床を睨んで、診察券を拾い上げる。

「もうすぐ、呼ばれますから。そこで、待っていて下さい。」


待合室は、寒い。

浮かばれなければ、ならない。

背を下にして、黙っていればいい。

誰かの言葉を思い出した。


「お大事にしてください。」

母は薬を受け取ると、斜めに私を見た。

「ありがとうございます、母さん。」

小さな声だった。



黒い椅子に座る。

もう随分、弾いていない。

ピアノの高音は、終わりによく似ている。


初めて聴いたピアノの音を、覚えている。

私は無理を言って買ってもらったピアノを、大切に手入れした。


あの時、確かに、共鳴をした。

けれど、あの時の音は戻らない。


今日も、弾かなかった。

けれど、執念は五月蝿い。

その先にいつも、母の背中があった。

音が鳴る間だけ、母は耳を澄ましていた。


精一杯だったのです。

そのまま、音を置きなさい。

それは、狂気に似ている。


脈が、打つ。


指先の音は、自由だ。

誰もそれを、咎めない。

自由を、知ってしまった。

その瞬間に、要らなくなってしまった。


「もう、弾かないの。」

母が、口を開く。

私はどう答えれば良いか、分からなかった。

「好きにしたら。」

背中に刺さる。

その言葉で、生きてきた。


ピアノだけが、あった。

それだけは、上手くなると思ってくれていたのでしょう。

母は、信じてくれました。

けれど、もう、そこに私は居ないのです。


キッチンから、焼きたてパンの香りがする。

それが、恐ろしい。



リビングのピアノ。

その影は、外れている。

弾かなくなった理由は、誰も知らない。


私は目を擦って、息を吸った。

冷えた部屋には、音一つなかった。

耳鳴りが、する。


もう、よかった。

視線は、床に滑る。

遅れてくる鼓動は、音を知っている。


楽譜に挟まったメモが落ちた。

父に宛てた母の言葉。

それは、女だった。


窓の外、菜の花が揺れている。

私の影が、伸びている。





読んでくださり、ありがとうございます。

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