脈絡
一
「落ちた。」
男は床の診察券を拾うこともなく、女を見た。
女は床を睨んで、診察券を拾い上げる。
「もうすぐ、呼ばれますから。そこで、待っていて下さい。」
待合室は、寒い。
浮かばれなければ、ならない。
背を下にして、黙っていればいい。
誰かの言葉を思い出した。
「お大事にしてください。」
母は薬を受け取ると、斜めに私を見た。
「ありがとうございます、母さん。」
小さな声だった。
二
黒い椅子に座る。
もう随分、弾いていない。
ピアノの高音は、終わりによく似ている。
初めて聴いたピアノの音を、覚えている。
私は無理を言って買ってもらったピアノを、大切に手入れした。
あの時、確かに、共鳴をした。
けれど、あの時の音は戻らない。
今日も、弾かなかった。
けれど、執念は五月蝿い。
その先にいつも、母の背中があった。
音が鳴る間だけ、母は耳を澄ましていた。
精一杯だったのです。
そのまま、音を置きなさい。
それは、狂気に似ている。
脈が、打つ。
指先の音は、自由だ。
誰もそれを、咎めない。
自由を、知ってしまった。
その瞬間に、要らなくなってしまった。
「もう、弾かないの。」
母が、口を開く。
私はどう答えれば良いか、分からなかった。
「好きにしたら。」
背中に刺さる。
その言葉で、生きてきた。
ピアノだけが、あった。
それだけは、上手くなると思ってくれていたのでしょう。
母は、信じてくれました。
けれど、もう、そこに私は居ないのです。
キッチンから、焼きたてパンの香りがする。
それが、恐ろしい。
三
リビングのピアノ。
その影は、外れている。
弾かなくなった理由は、誰も知らない。
私は目を擦って、息を吸った。
冷えた部屋には、音一つなかった。
耳鳴りが、する。
もう、よかった。
視線は、床に滑る。
遅れてくる鼓動は、音を知っている。
楽譜に挟まったメモが落ちた。
父に宛てた母の言葉。
それは、女だった。
窓の外、菜の花が揺れている。
私の影が、伸びている。
了
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