第九章 動かないという選択
選択肢がないわけではなかった。
桐山は、
それを一番よく分かっている。
制度の隙間。
裁量の余地。
言葉の選び方ひとつで、
流れを変えられる瞬間は、
確かに存在していた。
ただし、
それは常に
「公式ではない場所」にある。
会議の後。
文書が回る前。
誰も記録を取らない時間。
正義は、
そういうところでしか
動き始めない。
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桐山は、
その場に立ったことがある。
過去、
同じような局面で、
一歩踏み出すこともできた。
だが、
踏み出さなかった。
理由は、
いくつもあった。
確証がない。
波紋が大きすぎる。
自分が引き受けるには重い。
どれも、
嘘ではない。
だからこそ、
選ばれた。
動かないという選択は、
いつも合理的だ。
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もし、
ここで動かせば。
再調査の指示。
追加の検証。
外部への説明。
そのすべてが、
自分の名前と結びつく。
結果が出なければ、
「なぜ今さら」という
問いだけが残る。
組織は、
そういう人間を
長く覚えている。
良くも、
悪くも。
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桐山は、
自分が臆病だとは思わない。
ただ、
制度の重さを知っている。
一度揺らせば、
戻らないものがある。
信頼。
前例。
説明可能性。
正義を動かすということは、
それらを
一時的にでも手放すということだ。
その覚悟を、
誰が引き受けるのか。
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若手弁護士の顔が、
脳裏をよぎる。
彼は、
まだ制度の外にいる。
だから、
動かそうとする。
だが、
中に入れば、
見える景色は変わる。
桐山も、
かつては同じだった。
動かない判断を
選び続けるうちに、
それが「普通」になった。
正義は、
一度止まると、
止まったままでも
違和感がなくなる。
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その夜、
桐山は自宅で、
何も書かれていない
メモ用紙を前にしていた。
書こうと思えば、
書ける。
疑念。
構造的な問題。
再検討の必要性。
だが、
それを書いた瞬間、
自分はもう
後戻りできない。
書かないことも、
また一つの選択だ。
誰にも咎められず、
誰も傷つかない。
少なくとも、
表面上は。
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桐山は、
ペンを置いた。
動かないという選択を、
自覚的に選んだ。
それは、
逃げではない。
だが、
誇れるものでもない。
正義は、
今日も動かなかった。
そして、
動かなかった理由を、
誰も記録しない。




