第七章 語るには遅すぎる
語られなかった事実は、
消えたわけではない。
ただ、
居場所を失っただけだ。
桐山は、
新たに集められた資料の束を前にして、
そう思った。
当時の内部メモ。
非公式なやり取り。
残っていたのは、
断片ばかりだった。
どれも、
決定的ではない。
だが、
完全に無意味でもない。
問題は、
それらが「今」出てきたことだった。
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時間は、
証拠の価値を削る。
それは、
誰の悪意でもない。
記憶は薄れ、
関係者は異動し、
文脈は失われる。
当時なら意味を持った言葉も、
今では説明が必要になる。
説明が必要な事実は、
制度の中では弱い。
制度は、
即座に理解できるものを好む。
遅れてきた真実は、
いつも不利だ。
⸻
元警察官の証言も、
書面化された。
だが、
扱いは変わらない。
「個人的な見解」
「裏付けなし」
「判断に影響を及ぼすものではない」
正しい評価だ。
桐山は、
そう思う。
だが同時に、
それがどれほど残酷かも分かる。
語ることは、
正義を動かすためではなかった。
自分自身を、
沈黙から解放するためだったのだ。
それでも、
制度はそれを拾わない。
⸻
桐山は、
当時の現場を思い返す。
あの瞬間、
何があったか。
誰が、
どこで迷ったか。
そのすべては、
今となっては推測でしかない。
だが、
推測だからこそ、
完全には否定できない。
それが、
宙ぶらりんの状態を生む。
正義は、
確定しない疑念を
最も嫌う。
⸻
「なぜ、
今なんですか」
若手弁護士が、
誰かに問われていた。
答えは、
単純だ。
今しか、
語れなかった。
当時は、
立場がなかった。
空気がなかった。
余裕がなかった。
正義が忙しすぎた。
だから、
語るには遅すぎた。
だが、
黙るには、
もう遅すぎる。
⸻
桐山は、
一つの事実に気づく。
語られなかった事実は、
時間が経つと
「なぜ語られなかったのか」を
問われなくなる。
語られなかった理由そのものが、
消えてしまう。
残るのは、
語られなかったという結果だけだ。
それは、
個人の問題にされる。
制度は、
沈黙の背景を
記録しない。
⸻
資料を閉じたとき、
桐山は感じる。
この章は、
もう閉じられつつある。
語るには遅すぎ、
動かすには弱すぎる。
それでも、
語られた事実は消えない。
正義は、
それを抱えたまま、
動かない。
そして、
動かない正義の内部で、
違和感だけが、
静かに増えていく。




