第四章 前例という壁
桐山がその言葉を聞いたのは、
正式な会議の席ではなかった。
廊下で、
すれ違いざまに、
何気なく交わされた一言。
「前例、ありますよね」
声の主は、
検察側の管理職だった。
軽い口調。
確認でも、
牽制でもない。
事実の共有だ。
⸻
前例は、
正義の裏付けではない。
だが、
判断を下す場では、
それ以上に強い力を持つ。
一度通った結論は、
二度目も通る。
理由は、
それだけで十分だった。
桐山は、
自分の中に、
わずかな抵抗が生まれるのを感じた。
その前例の中に、
自分がいる。
過去、
似た構図の事件で、
彼は沈黙を選んだ。
語る材料が、
揃っていなかったからだ。
結果、
その判断は
制度の中で正当化された。
そして今、
その沈黙が
“動かさない理由”として
引用されている。
⸻
新しい証言についても、
同じ扱いがされた。
「当時、
検証済みの範囲内ですね」
「既存判断を
覆す性質のものではない」
誰かが言う。
間違っていない。
桐山自身、
そう思う。
だが、
それは“今の判断”ではない。
“過去の判断を守るための判断”だ。
前例とは、
過去を現在に持ち込む装置だ。
一度固定された正義は、
新しい事実よりも、
過去の整合性を優先する。
⸻
桐山は、
資料の端に目を落とす。
そこには、
当時の検討経緯が、
淡々と並んでいる。
誰が何を判断し、
誰が責任を負ったか。
曖昧な部分は、
すべて「適切」と書かれている。
適切。
それは、
便利な言葉だ。
正しいとは書かれていない。
だが、
間違いでもない。
適切である限り、
見直す理由はない。
⸻
「もし、
今、同じ状況が起きたら」
桐山は、
そう切り出しかけて、
やめた。
答えは分かっている。
同じ判断が、
同じ手順で、
同じ速度で下される。
それが、
前例の力だ。
個々の判断者が変わっても、
結論は変わらない。
正義は、
個人の倫理ではなく、
蓄積された選択によって
動かなくなる。
⸻
会議が終わる頃、
誰かが言った。
「前例を崩すほどの
事情は、見当たりませんね」
それは、
終わりの合図だった。
桐山は、
何も言わなかった。
言わないことが、
最も整合的だったからだ。
沈黙は、
ここでも、
正しい選択として機能する。
⸻
席を立ちながら、
桐山は思う。
前例とは、
誰かの過去の判断だ。
だが、
時間が経つと、
それは制度そのものになる。
誰も作った覚えがないのに、
誰も逆らえない壁。
正義は、
こうして
動かなくなる。




