最終章 動かざる正義
桐山は、その文書を、
もう一度だけ読み返した。
結論は変わらない。
再調査の必要性は認められない。
新証拠は判断を左右しない。
手続きは適切だった。
どこにも、
揺らぐ余地はない。
それが、
この社会が選び続けてきた
正義の形だった。
⸻
事件は、完全に終結した。
公的には。
制度上は。
誰の責任も問われないまま。
桐山は、その終わり方に
違和感を覚えなくなっている
自分に気づいていた。
慣れ、ではない。
諦めでもない。
理解だ。
正義が動かない理由を、
理解してしまった者の視点。
⸻
庁舎の廊下を歩きながら、
桐山は、過去の一件を思い出す。
ずっと昔、
まだ今ほど制度に慣れていなかった頃。
似た構図の事件があった。
証拠は揃っていた。
手続きも正しかった。
だが、
判断の瞬間、
現場に迷いがあった。
それを、
桐山は拾わなかった。
拾うだけの材料が、
揃っていなかったからだ。
その判断は、
正しかったとされている。
今も。
⸻
桐山は知っている。
あのときの判断が、
前例として使われていることを。
自分の名前が、
表に出ることはない。
だが、
あの判断は
制度のどこかに組み込まれ、
今も生きている。
今回の事件も、
その延長線上にあった。
つまり桐山は、
この事件に
最初から関わっていた。
自覚がなかっただけで。
⸻
「正義は、動かなかった」
その言葉は、
正確だ。
だが、
完全ではない。
正義は、
すでに固められていた。
動かなかったのではなく、
動かない形にされていた。
桐山自身の、
過去の選択によって。
⸻
その夜、
桐山は一つのファイルを開く。
公表されない。
公式記録にもならない。
だが、
完全に消すこともできない。
制度の内部にだけ残る、
小さな記録。
それは、
今回集められた
すべての「意味を持たなかった情報」を
整理したものだった。
証拠にならなかった証言。
判断を変えなかった迷い。
遅すぎた言葉。
桐山は、
そこに評価を書き加えない。
結論も、
提言もない。
ただ、
残す。
⸻
それは、
正義を動かす行為ではない。
だが、
正義を完全に閉じることも
拒む行為だった。
制度は、
すぐには反応しない。
おそらく、
この記録が使われることは
ないかもしれない。
それでも、
消えない。
正義が動かなかった理由が、
どこかに残る。
⸻
桐山は思う。
動かないという選択は、
最も安全で、
最も責任の軽い判断だ。
だが、
それを積み重ねた先で、
誰かが必ず
その重さを引き受けることになる。
それが、
自分である可能性も含めて。
⸻
庁舎を出ると、
街はいつも通りだった。
人々は、
正義が動かなかったことを
知らない。
知る必要もない。
それで社会は回る。
だが、
桐山は足を止める。
もし次に、
似た事件が起きたとき。
もし次に、
迷いが制度の外に零れ落ちたとき。
そのとき、
この正義は
本当に動かないままでいられるのか。
⸻
桐山は、
答えを出さない。
出せないのではない。
出さないことを選んでいる。
だが、
探すことはやめない。
それが、
彼がこの一連の事件に
関わり続ける理由だった。
正義が動かない世界で、
なぜ動かなかったのかを
誰かが覚えていなければならない。
⸻
正義は、
語られ、
選ばれ、
沈黙し、
そして、動かなくなる。
だが、
その過程を知る者がいる限り、
物語は終わらない。
それは、
次の判断の中で、
静かに息をしている。




