第一章 終わった事件
その文書は、
朝の定例連絡の束に、紛れ込むようにして届いた。
再調査要請書。
形式は整っている。
紙質も、言葉遣いも、過不足がない。
感情を押し出さない、いかにも「通すつもりで書かれた」文章だった。
それでも、桐山は一読して分かった。
――これは、通らない。
理由は明確だった。
事件は、すでに「終わっている」。
数年前、警察官の判断を巡って社会的注目を集めた案件。
内部検証、書類送検の可否判断、検察の結論。
すべてが手続きを経て、「違法性なし」と整理された。
以来、この事件は
“前例”として、
“説明用の事案”として、
何度も使われてきた。
正しさの証明ではない。
正しさが疑われたときに、
話を終わらせるための材料だ。
桐山は、文書を机に置いたまま、
すぐには端末を開かなかった。
焦る必要がないことを、
身体が知っている。
再調査要請は、
制度上は受理される。
だが、実質的に動くことはほとんどない。
それを、
書いた側も知っているはずだった。
差出人は、
若手弁護士の名前と、遺族代表。
桐山は、
その二つの肩書きを、
同時に見た瞬間に理解した。
これは、
正義を動かそうとしている人間の書類だ。
そして、
最も通らない種類のものでもある。
⸻
会議では、
その文書は三分で処理された。
「参考資料として保管」
「既存結論に影響なし」
「追加対応の必要なし」
誰も、
強く反対しない。
強く賛成もしない。
異論が出ないことが、
この場では正解だった。
桐山は、
議事録に残らない沈黙の中で、
空気が固まっていくのを感じていた。
ここでは、
事件を再検討するかどうかよりも、
“再検討しないこと”を
どう正当化するかが重要なのだ。
誰も悪くならず、
誰も責任を増やさず、
前例を崩さない。
正義は、
その条件をすべて満たしたときに、
最も安定する。
⸻
会議後、
桐山は一人、文書を読み返した。
文中には、
決定的な新証拠はない。
ただ、
当時の現場で、
「一瞬の迷いがあった可能性」を
示唆する記述が並んでいる。
桐山は、
その部分で視線を止めた。
迷い。
それは、
記録に残らない。
だが、
なかったことにもできない。
桐山自身、
過去に何度も見てきた。
判断の直前に、
人が黙る瞬間を。
だが、
迷いは証拠にならない。
証明できないものは、
制度の中では
存在しないのと同じだ。
⸻
若手弁護士の名前に、
うっすらと覚えがあった。
以前、別件で、
資料請求を巡ってやり取りしたことがある。
理屈は通っていた。
だが、
制度の速度を理解していなかった。
正義は、
速く動くものではない。
むしろ、
動かないことに慣れている。
桐山は、
文書を閉じた。
その瞬間、
確信に近い感覚があった。
この事件は、
再び動くことはない。
それでも、
この要請が出されたという事実だけは、
確実に残る。
正義は、
動かなくても、
誰かの中で、
もう一度立ち上がってしまったのだ。
⸻
桐山は、
自分がこの事件に
関わっていたことを思い出す。
あのとき、
彼は語らなかった。
語る理由が、
十分に揃っていなかったからだ。
結果として、
それは正しい判断だった。
少なくとも、
制度の中では。
だが今、
その沈黙が
「前例」として引用されている。
桐山は、
自分の過去が、
誰かの現在を
縛っていることを知る。
正義は、
選ばれた瞬間よりも、
使われ続けたときに、
動かなくなる。
⸻
桐山は、
書類棚に文書を戻した。
そこには、
同じように
「終わった事件」が
静かに並んでいる。
どれも、
完全に正しかったとは言えない。
だが、
完全に間違っていたとも言えない。
だからこそ、
ここにある。
桐山は、
一つだけ分かっていた。
この事件は、
これからも
終わったままだ。
だが、
終わった事件が、
本当に終わることはない。
動かない正義は、
次の判断を、
じっと待っている。




