胃の不快感と彼女からの手紙
胃の不快感で目が覚めた。昨晩はビールを一杯飲んだだけだし、二日酔いということもないだろうが……ちょっと食べすぎたかな。彼女の手料理が美味しかったというのもあるし、美味しい、美味しいと言って食べると彼女が喜んでくれたので、調子に乗りすぎたというのもある。20代の頃なら、前日の食べ過ぎに思いを巡らすこともなかったのにな、とほんの数年前のことを懐かしみながら身体を起こす。
部屋に彼女の姿が見当たらない。もう帰ったのか、それとも朝食を買いにコンビニにでも行ったのか。コンビニくらいならスマホだけで事足りるから、バッグは残されているはず、と部屋に視線を巡らせる。
バッグはないな、やはり帰ったのかと思いながら、きょろきょろしていると、動物が描かれた可愛い封筒がテーブルに置いてあるのに気付いた。
置き手紙? 先に帰ることを詫びる手紙だろうか。そういや、昨日はシャワーを浴びた後すぐに寝たし、どこか疲れている様子だった。色々と忙しい中で会いに来てくれたのかもしれない。そう思うと愛おしさが増す。
封筒をあけると二つ折りになった便箋が入っていた。厚さ的には三枚程度か。ひろげると彼女の小さくて丸っこい文字が並んでいる。文字の奥にはデフォルメされた動物の絵がうっすらと浮かんでいた。
内容はというと、少しばかり予想と違うものだった。
『緊急速報! 本日、明日と不要不急の外出は控えて下さい。』
便箋のど真ん中にそれだけ書かれていた。
なんだよ、これ。思わず吹き出してしまう。彼女は時々こういったいたずらをする。いや、本人にとっては大真面目なのかもしれないが、天然なのか「少しずれているな」と思う事をしてくるんだ。
昨日も元々来る予定じゃなかったのにやってきて、「一週間間違えちゃった」とか言っていた。すでに料理の材料を買い込んできていたので、慌てて部屋にあげると晩御飯を作ってくれた。
先週はシャワーを浴びて出てきたら俺のスマホを手に持っていて「指紋認証が通らないからおかしいなあと思ったらあなたのだった。だって似てるんだもん」とか言っていた。
そういうところも含めて可愛いと思うし愛している。
それにしても、今回はなんだろう。不要不急の外出は控えろ、って。
そうは言っても、今日は外せない予定があるからなあ、外出を控えることはできないんだよね、と思いながら一枚目の便箋を最後に回す。
二枚目はびっしりと文字が並んでいた。読むのに時間がかかりそうだなと思い、ベッドの端に腰掛ける。
『ごめんなさい。昨日、あなたが食べた生牡蠣は加熱用でした。』
それがなんなんだ? 加熱用を生で食べたらだめなのか?
その疑問に答えるように文章は続く。
『料理をしないあなたの事ですから、何のことかとお思いでしょう。少し説明させていただきます。』
おう、よろしく頼む、と心の中で彼女に返事をする。
『一般的にスーパーなどで販売されている生牡蠣には生食用と加熱用と2種類があるのです。名前の通り、生食用は生で食べられますが、加熱用は加熱しないと食べることが出来ません。』
へえ、としか言いようがない。
『なぜ、そんな差が生まれるかというと、殺菌処理をしているかしていないかの差があるからなのです。生食用は殺菌処理がなされているので、生で食べられますが、加熱用は殺菌されていないため、自分で加熱殺菌してから食べないといけないのです。殺菌されていないものを売らないで、と思うかもしれませんが、加熱用にもいいところはあるんですよ。生の状態を保って殺菌するのには時間がかかるので、殺菌されていない加熱用の方が新鮮なのです。』
加熱用の方が新鮮なのか。それは意外な感じがする。言葉だけ聞くと、「生食用」は新鮮だから生で食べられて、「加熱用」は古くて風味が落ちるから生で食べられないのかと思ってしまいそうだ。
『そして、ここからが本題です。そういったわけで、加熱用は殺菌されていないために生で食べると、食中毒を起こしてしまう可能性があるのです。』
食中毒? 不穏な単語が出てきた。不要不急の外出は控えろと言うのはそういうことか。そうなると胃の不快感が別の意味を持ってくる。もしかしてこれは食中毒の前触れなのだろうか。
『ちなみにですが、加熱用は加熱して食べるということが前提の為、栄養豊富ではあるけれどもウイルスや菌も沢山存在する海域で育てられ、なおかつ、殺菌の時間がないので新鮮です。太っていて新鮮ということですので、生で食べておいしいのは断然、加熱用ということになります。食べた後のことを考えずに、その場の快楽を享受したいのならば加熱用も悪くない、という話になります。あなたはどっち派ですか?』
あなたはどっち派、ってなんだ? いくら美味しくても、後で食中毒になるかもしれないなら嫌に決まっているだろう。まあ、症状にもよるかもしれないが……。
『閑話休題。その牡蠣の食中毒ですが、一番怖いのはノロウイルスです。ノロウイルス胃腸炎は、嘔吐で発症することがほとんどです。それから下痢と腹痛が出てきて、さらに発熱も認めます。嘔吐は最初の24時間程度でおさまってきますが、おさまるまでに下痢、腹痛、発熱がピークに達していますので、吐き気がおさまってよかったよかったとのんびりしている余裕などありません。40℃近くの熱は数日続き、ようやく熱が下がっても、下痢はしつこく1〜2週間は続きます。』
さっきから思ってたけど、なんかめっちゃ詳しいじゃん。それだけ詳しくて、生食用と加熱用を間違う事なんてある? それとも後から加熱用だったことに気付いて、慌てて調べたんだろうか?
焦って調べているところを想像すると、可愛いなとは思う。思うけど、どうも胃の不快感は強くなってきている気がする。
『そして、最初の症状が出るまでの期間……潜伏期間は大体24〜48時間です。』
食べてすぐじゃないんだな。食中毒って言うと、食べて1時間位して腹が痛くなって、ってイメージだけど。まあ、彼女がそう書いてるってことはそうなんだろう。生食用とか、加熱用とかの話は、料理する人なら知ってるかもしれないが、潜伏期間とか、症状とか、病気の経過とか、医者でもあるまいし普通は知らないだろう。
彼女は曖昧な情報を、いい加減に書くタイプじゃない。これはやはり調べて書いているんだろうと確信する。
何にしても、それが正しい情報だとすると困るな。これから予定があるのに。食べてから24時間だと今日の夜頃……時間に幅があるなら、明日、朝起きたら嘔吐、下痢なんてパターンもあるわけか、最悪だ。
『さらに悲しい報告があります。賞味期限が少し切れていたのです。二日ほど切れていました。もしウイルスや菌がいたなら、その二日間でさらに増えていた可能性があります。食中毒になる危険性がさらに上がったと言えます。でも、味には問題なかったと思います。念入りににおいをかいで、腐っていないかは確認しましたから。』
賞味期限が切れていた? ここの近所のスーパーで材料を買って、うちに来たわけじゃないのか? つまりは、わざわざ家から材料を持ってきたってことだよな。それがたまたま加熱用で、たまたま賞味期限が切れていた?
『実際に、変なにおいはしなかったでしょう? 味はどうでしたか? 美味しかったですか? たくさん食べてくださっていましたし、美味しかったのだろうと思います。残念ながら、私は食べていないので味がどうだったかはわからないのです。』
思い返してみると、確かに彼女は食べていなかった。「そんなに美味しいって褒めてくれるんだったら、嬉しいから私の分もあげるね」とか言いながら俺の皿に移してくれていた。あの時、牡蠣は全部俺にくれていたのか。
それにしたって二個か三個で、そもそもの盛り付けに差があったようにも思う。もともと、彼女は少食なので気にもとめていなかったが……。
『もう快楽を享受した後ですので、今更悔いても遅いわけですが、せめて、今日と明日くらいは不要不急の外出は控えて、大人しくしていたらどうですかと思い、手紙の冒頭の文章となるわけです。いっそのこと開き直って、遊びに行くというのも選択肢としてありかもしれませんけどね。いずれにせよ、ご自愛ください。』
そこで二枚目が終わっていた。なんだろう。最後は随分と棘のある書き方だ。少なくとも、食中毒の可能性があるものを間違えて食べさせてしまった人間が書くようなことではない。
それにもう一つ気になっていたことがある。なんでメモ書きではなく、こんなしっかりとした手紙なのかということだ。いつも封筒と便箋をバッグに忍ばせて外出しているわけではないだろうに。
これはもしかして……。
胃の不快感は強くなる一方だ。起きてすぐにあった胃の不快感ともちょっと違ってきてるような気がするし、食中毒とも違うような気がする。
二枚目も後ろに回す。三枚目は一枚目と同じようにまた、上下余白で便箋のど真ん中に書いてあった。
『追伸 今日からあの女と旅行の予定なのはお見通しなんだよ。私に隠れてこそこそこそこそ会ってたあの女な。「必要性のある外出だし」とか言いながら、今も行く気まんまんなんだろ? 行ってこいよ。ゲロ吐きながらな。あと、看病もしてもらえ。私はもう二度とお前に関わりたくないから。じゃあな。』
文末に文字より少しだけ大きい位のサイズで、可愛く手を振る絵が描いてあった。




