第9話 言えない言葉
午後の礼拝が終わり、礼拝堂はまた静けさを取り戻していた。
色ガラスから落ちる光が少し傾き、祭壇の影が長く伸びる。
私は花瓶の水を替え、百合の茎を新しい長さに切り揃えていた。
刃が茎を断つ音が、石の空間で小さく響く。
茎の切り口から立つ青い匂いが、まだ張り詰めた空気に混ざって溶けた。
祭壇脇の回廊から、ゆったりとした足音が近づく。
焦らず、けれど確実に歩幅を刻む音。
顔を上げるより先に、その音の主が誰かは分かっていた。
「……ウィンダーミア嬢」
振り向くと、深紅のドレスが光を掬いながら揺れていた。
セレナ様。
今日も変わらず、優雅で隙がない。
一歩踏み出すごとに、裾から薔薇の香りがふんわりと漂う。
「少し、お時間をいただけるかしら?」
「……はい」
百合を花瓶に差し戻し、手を拭う。
その間、セレナ様はまっすぐこちらを見ていた。
視線に圧はないのに、逃げ道は与えない眼差しだった。
案内されたのは、中庭に面した小さな休憩室。
陽射しがやわらかく、白いレースのカーテンが風に揺れる。
窓辺の花瓶には淡い色の薔薇がいくつか生けられていた。
淡い桃色と、白に近いクリーム色。
外の光を受けて、花弁の縁がうっすらと透けて見える。
セレナ様はそのうちの一輪を抜き取り、茎を指先でなぞった。
動きはゆっくりで、まるで茎の感触から何かを読み取るようだった。
「お好きですか? この花」
「ええ……故郷でも育てていました」
「そう。辺境の風は強いと聞きますのに」
少し微笑んで、花を私に差し出す。
受け取った瞬間、花弁からほのかな香りが広がった。
その香りは礼拝堂の薔薇飾りのような華やかさではなく、土と陽の気配を含んだ、もっと柔らかいものだった。
「……先日のこと、感謝しております」
「先日?」
「襲撃の時。ルシアンが庇ったと聞きましたわ」
視線が、ほんのわずかに揺れる。
セレナ様の目の奥に、一瞬だけ光が走って消えた。
それは問いでもなく、感情の露出でもなく、ただ事実をなぞっただけの光。
私は言葉を探した。
けれど、出てくるものはどれも適切には思えなかった。
「……助けていただきました」
それ以上は、言えなかった。
“庇った”以上の意味を、口に出すことはできない。
あの瞬間、私の腕を引いた力の温度も、耳元の声の震えも、全て封じておくしかなかった。
窓の外では、小鳥の声がしていた。
中庭の噴水から水の音が絶え間なく響き、午後の光がそれを金色に染めている。
会話が途切れても、セレナ様は何も促さなかった。
ただ静かに薔薇の香を吸い込み、私の方を見ている。
その視線は責めるでもなく、許すでもなく――
まるで、答えを待っているようだった。
答えを口にすれば、何かが確定してしまう。
私は唇を噛み、視線を花弁に落とした。
沈黙の時間は、香りと光の中でゆるやかに伸びていく。
薔薇の花弁が、指の中でかすかに震えた。
外の風ではなく、私の脈のせいだとすぐに気づく。
「そろそろ、戻ります」
「ええ。……その花は、あなたに差し上げますわ」
笑顔のまま告げられたその一言が、胸に重く残る。
その笑顔は優しく、形も崩れていないのに、花と一緒に何か目に見えない重さを渡されたようだった。
花瓶の中にあった薔薇の一輪。
ただの飾りのはずなのに、手の中でやけに熱かった。
中庭を通る風が、花弁を揺らした。
その揺れの中に、言えない言葉が混ざっているような気がした。
口にはできず、けれど胸の中で確かに形を持ったまま、私の歩みと一緒に揺れ続けていた。