第8話 見てしまった瞬間(セレナ視点)
政務室での打ち合わせを終え、回廊を西に抜ける途中だった。
外はまだ曇っていて、色ガラスの光は床に届かず、石目は灰色一色に沈んでいる。
廊下の角を曲がった瞬間、低い声と金属の噛み合う音が響いた。
礼拝堂裏――普段は人通りの少ない場所だ。
ここにまで戦いの音が届くことなど、ほとんどない。
足が自然と速くなる。
裾が石の床を滑り、足音が自分の心臓の鼓動と重なって響く。
回廊の空気は少し湿っていて、鼻先に香草と鉄の匂いが混ざった。
開け放たれた扉の向こうに、銀の背中が見えた。
その腕に抱かれているのは、小柄な少女――ウィンダーミア嬢。
背中越しでもわかる、必死の抱擁。
彼の腕はまるで盾のようで、間にある空気すら通さない。
駆け込む騎士たちの声が重なる。
「そこまでだ!」
「武器を捨てろ!」
黒ずくめの男が二人がかりで押さえつけられる。
男のフードが外れ、刃が床に落ちて鈍い音を立てた。
けれど、私の目はそこでは止まらなかった。
ルシアンはその間も、彼女を離さなかった。
銀の肩越しに見えた横顔は、私が知っている“副団長”のそれではない。
もっと、個人的な――守るべきものを腕の中に抱えた人間の顔だった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
息を吸ったのか、吐いたのか、自分でもわからない。
足元の石が、ほんの少し軋んだような感覚があった。
(ああ……やっぱり)
薄々、感じてはいた。
視線は嘘をつかない。
ルシアンが時折、彼女の方へ向ける目。
そのときだけほんのわずかに柔らぐ輪郭。
そして、彼女がいつも袖の下に隠しているもの。
番。
それは選べるものではない。
だからこそ、どうしようもない。
政略のための婚約であろうと、番の衝動は書面の外で動き出す。
「セレナ様……」
名を呼ばれ、視線を向ける。
ウィンダーミア嬢が私を見ていた。
瞳の色は落ち着いているはずなのに、その奥に安堵と戸惑いが入り混じっている。
私に何を求めているのか、一瞬わからなかった。
けれど、言葉は自然に口をついて出た。
「……怪我は?」
「ありません。……ご心配をおかけしました」
礼儀正しい返答。
その律儀さが、かえって私の胸を締め付けた。
私は口元に笑みを作る。
いつものように、柔らかく。
声が揺れないよう、喉の奥を少しだけ固くした。
「それならよかったわ」
それ以上、何も言わなかった。
言えば、きっと私の声は揺れる。
それだけは、したくなかった。
ここで揺れてしまえば、私の役目の線が、ひとつ崩れる。
騎士たちが黒ずくめの男を引きずって出ていく。
鎧の金具が石を擦り、低い音を残した。
ルシアンが腕を解き、ウィンダーミア嬢は深く礼をして礼拝堂の方へ歩いていく。
その背が角を曲がって見えなくなるまで、私は視線を動かせなかった。
回廊に一人残されると、空気が一気に薄く感じられた。
胸の奥に残った痛みは、呼吸と一緒に膨らんだままだ。
足を踏み出し、政務室へ戻る道を選んだ。
背筋を伸ばし、歩幅を乱さない。
それが、私に残された防御だった。
部屋に戻ると、机の上に小さな香炉を置き、薔薇の香を焚いた。
薄い煙が立ち上り、天井近くでゆるやかに形を変える。
香煙の向こうで、昼間の光景が何度も蘇る。
あの抱擁は命を守るため――それだけだと、何度も言い聞かせる。
そうでなければ、私は立つ場所を失う。
窓の外では雲がまだ厚く、光は沈んだまま。
香炉の煙は、風のない部屋でまっすぐ上に伸びる。
けれど、胸の奥に残る痛みは、香では消えなかった。
それは薔薇の香りよりも長く留まり、私だけが知っている色をしていた。
机の引き出しから、細い銀のペンを取り出す。
未完の書簡の上に置き、手を伸ばしかけて、やめた。
書く言葉が浮かばない。
言葉にした瞬間、この感情は別の形に変わってしまう気がした。
(私も、選ばれたかった)
心の奥で、ほんの一瞬だけそう思った。
だが、その想いは薔薇の棘のように短く鋭く、すぐに理性の奥へ沈める。
政のための婚約と知って選んだ道だ。
今さら、少女のような嫉妬に身を委ねるわけにはいかない。
私は香炉の前に座り直し、煙の筋を目で追った。
細く、揺れず、けれど絶えず上へ。
私もまた、こうでなければならない。
揺れはあっても、線は崩さない。
それが、私の役目であり、選んだ道。
外で、鐘がひとつだけ鳴った。
その音は厚い雲を抜け、静かに部屋の中に落ちてきた。