表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/20

第7話 不意の危機

儀式から二日後。


昼の祈りを終えた礼拝堂は、人の熱が引いて石の温度だけを残していた。

私は裏手の倉庫で花材を整理していた。木箱には朝から運び込まれた香草の束、花瓶用の新しい水差し、予備の布。春の祝祭は明日に迫り、教会の内側は見えないところほど忙しい。

倉庫は回廊に面していて、昼の間は出入りが多いから扉を開け放している。外は雲が厚く、光は鈍く沈んで、床の石目の一本一本を鈍い銀色で縁取っていた。


麻紐を解き、香草の根元を少し揃える。乾いた香りがふっと立つ。

鼻の奥に残る甘さが微妙に変わった気がして、私は束を鼻先から離した。香の焚き方がいつもと違うのか、それとも私の呼吸が浅いのか。

指先についた土を布で拭い、次の箱へ手を伸ばす。木箱の板がこすれて、低い音を立てた。


その低さに似て、回廊のほうから別の低い声が聞こえた。

耳に馴染まない響き――礼拝堂や教会の人間の声は、長くここにいると自然とわかる。足音の置き方も、息の間の取り方も。今の声は、どれとも違った。


「……どなたですか?」


倉庫の中から声をかける。返事はない。

代わりに、足音が早まった。

床石を打つ、迷いのない歩幅。

背筋に冷たいものが走り、頬に沿って一筋、汗が落ちた。


私は扉に向きなおり、手元の木箱をそっと押しやる。

すぐに逃げられるよう、足の位置を変える。

心臓は静かなはずなのに、耳の奥で別の音が大きくなった。


次の瞬間、扉の向こうから黒い影が飛び込んできた。

フードで顔を隠した男。布の裾が空気を裂き、手には鈍い光の線。


金属が擦れる音。

ナイフ。


叫ぶより早く、私は腰を落として身を引いた。

男の腕が空を切り、香草の束がひとつ床に散る。青い葉が足元で砕け、つんとした匂いが立った。

手探りで近くの水壷を掴む。重い。投げれば牽制にはなるが、当たらなければ終わりだ。

躊躇いの半拍。

男の刃が肩口へ滑ってくる。


その線の上に、別の銀が割り込んだ。


「下がれ!」


視界が銀の背で塞がれる。

鋭い声。

息を吸う暇もなく、私の腕が強く引かれ、背中が木箱に当たった。

衝撃で肺の空気がごそっと奪われ、何も言えない。

銀の背の前で刃と刃が噛み合い、火花が低く散った。


狭い倉庫での戦い。

物を避ける余地がなく、動きは一挙一動で決まる。

黒い影は低く潜り、横へ滑り、壁と棚の間に切っ先を走らせる。

ルシアンの剣がそれを受け、押し、弾く。

金具の連なる音が耳の鼓膜を打ち、倉庫の空気が一撃ごとに震えた。


「扉を閉めろ!」


言われる前に私は腕を伸ばして扉へ飛びついた。

重い蝶番が悲鳴を上げ、隙間の光が細くなる。

鍵はない。かわりに木箱を引きずって前に寄せる。

木と石が擦れて、低い唸りが床に残った。

背後で金属がぶつかる音がして、私は振り向いた。


刃が、銀の肩当てをかすめる。

金属音が甲高く跳ね、火花がルシアンの頬に淡く映った。

彼は眉ひとつ動かさず、刃を受け流して半歩踏み込む。

狭さを逆手に取り、相手の肩を棚へ押しつけようとする動き。

黒い影が体を捩り、棚の中段に刃を入れた。

革表紙が裂け、古い羊皮紙がはらりと舞う。

祈りの文字が宙に浮かぶように見えて、私は一瞬視線を奪われた。


(……死ぬ、かもしれない)


予感は唐突ではなかった。

先ほどから身体のどこか冷たい場所があり、その周囲だけ時間が遅くなっていた。

死の形は、それぞれ違うと聞く。

私の場合、それはきっと、香草の匂いと紙の音を伴うのだろう。

――と、変な実感が浮かんで、すぐに消えた。


同時に、もうひとつの感覚が私を支配した。

ルシアンの存在が、あまりにも近い。

背中越しでも伝わる熱と鼓動。

番の衝動が、危機の中でさらに強まっていく。

胸の奥が熱で膨らみ、視界の端が白く滲む。

自分の呼吸の数え方を忘れ、代わりに彼の動きの拍に合わせてしまう。


「くそっ……!」


ルシアンの剣が相手の刃を下から弾く。

金属音が倉庫の天井で反響し、わずかな隙が生まれた。

次の瞬間、彼は振り返りざまに私の腕を掴み、体ごと抱き寄せて壁際へ押し込む。


「動くな!」


耳元に落ちた声は低く、いつもより荒い息にかすれていた。

恐怖か、怒りか、痛みか。

判別できない。

けれど、その腕の力は一瞬も緩まない。

肩越しの銀の縁。その向こうに、黒い影が再び構え直す。


私は壁に背をつけたまま、足を揃えた。

逃げ道は塞いだ。

ならば、彼が動きやすいよう、できるだけ小さく、静かに。

手首の下で、金色の記憶が脈打つ。

鎧の縁が肩に触れるたび、その脈は速さを変えた。

熱は痛みではないのに、痛みより確かに体の中心を掴む。


黒い影が低く踏み込む。

狙いは彼の脇腹。

狭い倉庫の死角を知っている動きだった。

刃が銀の継ぎ目を狙い、ぎりぎりの線で入ってくる。

私は咄嗟に棚の取っ手を掴み、思いきり引いた。

棚がわずかにずれて、並んだ花瓶のひとつが落ちかける。

黒い影の目が、微かにそちらへ流れた。

ほんの瞬きほどの、注意の逸れ。


ルシアンの足がその隙に床を撃ち、剣が相手の手首を払う。

刃が落ち、石に跳ねて鈍い音を立てた。

黒い影は即座に体を翻す――逃げる線。

だが、倉庫は抜け道の少ない箱だ。

扉は木箱で塞いだ。

窓は高い。

影は最短で私たちの脇を抜けようとして、躊躇した。

彼の身体がそこにあったから。

銀の壁。


「下がれと言った」


言葉より、刃より速く、ルシアンの肘が相手の胸を打つ。

黒い影が大きく息を吐き、膝を折った瞬間、彼は相手を床に捻じ伏せ、手首を男の背で固定した。

鎧の縁が床石を擦り、低い音が鳴る。


私は動けずに、その場で空気を吸った。


「隊を呼べ!」


どこへ向けて言ったのか、一瞬わからなかった。


次の瞬間、扉の向こうから別の足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。

私が木箱をずらし、扉を半分だけ開けると、教会の警備の若い騎士が顔をのぞかせた。

目が状況を一瞥で理解し、合図もなく飛び込んでくる。

二人、三人。

黒い影の両腕に手枷が掛けられ、口が布で塞がれた。

抵抗は短く、音だけが長く残った。


騒ぎが遠ざかり、倉庫に残ったのは私とルシアンだけになった。

香草の匂いは強すぎるほど濃く、割れた陶片が床で白い線を描いている。

彼はまだ私を抱いたまま、呼吸をゆっくり整えていた。

肩がわずかに上下する。

鎧の隙間から覗く布に、小さな裂け目。

そこに、赤いものが滲んでいる。


「……怪我を」


「かすっただけだ」


短い答え。

それでも私は手を伸ばしかけて、止めた。

触れれば、また光ってしまう。

同じことを、さっき既に学んだばかりだ。


「……怪我は?」


問われて、私は遅れて頷いた。


「……ありません」


声が少し掠れた。

喉が乾いて、言葉が引っかかる。

けれど、手首は燃えるように熱く、胸は痛いほど高鳴っていた。


そのどちらも、命の危機より強く私を揺さぶっていた。

あの一瞬、私の中で何かが形を得た気がする。


名前のない形。

触れれば崩れ、離れれば疼く類のもの。


彼は私から半歩だけ離れ、周囲を見回した。

床に散った羊皮紙を一枚拾い上げ、破れた箇所を確認する。

目は冷静に戻っているのに、呼吸の底だけがまだ荒い。

そして、その荒さは私の呼吸と不思議な合奏になっていた。

拍が合う。

嫌になるくらい、正確に。


「倉庫の出入り記録、誰に預けている」

「書庫係のグレンさんです。午前中、箱の受け取りで一度……」


言いながら、私は自分の声が少し遠くで響いているのを聞いた。

体の中心はここにあるのに、聴こえる音だけが半歩ずれている。

彼は頷き、扉の方へ視線をやる。

回廊の向こう、足音。

複数。

装飾の少ない皮の靴と、金具の少ない靴音。

騎士と、教会の人間。

それから――もっと柔らかい、裾の擦れる気配。


「副団長!」


若い騎士が顔を出す。

「取り押さえました。外の見張りにも連絡済みです。政務棟にも報せを――」

「俺が行く。……その前に、ここを片付ける」


彼は短く言い、落ちた花瓶を一つ拾い上げて棚に戻した。

不用意な踏み跡を作らないために、割れた陶片の周囲を布で囲い、騎士に合図する。

手際の良さは、日常の所作の延長にある。

戦いも、片付けも、祈りも、同じ線の上に置かれているのだと、ふと理解した。


私はしゃがみ込み、散らばった香草を束ね直した。

指先が震える。

震えは恐怖の余韻か、熱の余韻か。

判断できない。

ただ、茎を揃える手は勝手に働く。

身体は、安心なものの形を知っている。


「医務室で見てもらえ」


顔を上げると、彼がこちらを見ていた。

目は穏やかではない。

でも、荒くもない。

ただ、焦げたような匂いがする視線。

私は首を振りかけて、やめた。


「……はい」


従うことに理由は要らない。

理由を探すより、今は呼吸を整えたかった。


回廊に出ると、空気が少し冷たく感じられた。

倉庫の濃い香りに慣れた肺が、薄い空気に驚く。

そこへ、別の香りが交じる。

薔薇。

柔らかく、それでいて芯のある香り。


私は顔を上げた。

回廊の角、深紅の裾が静かに揺れている。


セレナ・ルヴェリエ。


目が合った、気がした。

けれど、次の瞬間には視線が逸れ、彼女は礼拝堂のほうへ、歩幅を乱さずに去っていった。

今のは、幻かもしれない。

けれど、薔薇の香りだけが、確かに残った。


医務室へ向かう途中、政務室側からまた別の断片が飛んでくる。


「前哨の報は偽装の可能性」「城下の見張りに抜け道」

「条約文面は変更なし」「婚姻条項で支え切る」


言葉同士がぶつかって、意味が粉になって散る。

私の足音は、その粉の上をゆっくり踏んだ。


医務室は白い布の匂いで満ちていた。

端では別の修道女が包帯を巻いていて、私を見ると短く頷き、席を立つ。


「脈は?」

「……速いですが、平気です」


自分で言って、何に対しての“平気”なのか分からなくなる。

修道女は穏やかに笑い、私の手首に指を当てた。

その触れ方は、熱を煽らない触れ方だった。

人にはそれぞれ、触れ方がある。

煽る触れ方も、沈める触れ方も。


「息を三つ数えましょう。吸って、吐いて。もう一度」


従っているうちに、視界の白が落ち着いた。

胸の奥の熱は完全には消えない。

それでも、形が曖昧になるだけで、少し楽になる。


戸口のほうで、甲冑の金具が小さく鳴った。

私はそちらを見なかった。

見れば、また形がはっきりしてしまう。

形がはっきりするものは、祈りと約束だけで充分だ。


「少し休んだら戻っていいわ。水を飲んでね」


修道女の声に礼を言い、私はベッドの縁に腰を下ろした。

杯の水は、思っていたより甘かった。

香草の味が舌に残っていたのだろう。

喉を通る冷たさは、さっきの倉庫の冷たさと違う。

体の内側に静かに沈んで、そこに留まってくれる冷たさ。


窓の外で、曇り空がわずかに明るくなる。

雲が薄くなったのか、誰かが祈ったのか。

私は額に指を当て、短く祈りを置いた。

誰かのために、ではなく、今ここにいる自分のために。


(どうか――形を、壊しませんように)


儀式は終わった。

けれど、続いている儀式がある。

抗えない衝動と、それを押し殺す痛み。

祝祭の前夜に、私の中にだけ響く鐘がある。

それは誰にも聞こえず、私にだけ聞こえる。


医務室の戸口の影が一瞬揺れた気がして、私は顔を上げた。

誰もいない。

空気だけが、ほんのわずか動いた。

薔薇の香りはしなかった。

けれど、別の匂いがした。

雨の前の匂い。

空が変わる前に、石が先に知る匂い。


私はもう一度、深く息を吸った。

胸の奥で、二つのものが並んで座っている。

名のある恐怖と、名のない熱。

どちらにも場所を与え、私はまっすぐに座り直した。


――明日、祝祭。

人の集まる場所。

香の煙。

色ガラス。

そして、祈り。


壊れない保証は、どこにもない。

でも、壊さない意志なら、ここにある。

私は袖口を押さえ、布越しに手首の脈を確かめた。

まだ、速い。

それでも、数えられる速さだ。


外で鐘が一つ鳴った。

石と空気の間で、音が深く沈む。

私は立ち上がり、戸口へ歩いた。

背筋を伸ばし、呼吸を数えながら。

祝祭の朝に向けて、私の一歩は、静かに前へ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ