第7話 不意の危機
儀式から二日後。
昼の祈りを終えた礼拝堂は、人の熱が引いて石の温度だけを残していた。
私は裏手の倉庫で花材を整理していた。木箱には朝から運び込まれた香草の束、花瓶用の新しい水差し、予備の布。春の祝祭は明日に迫り、教会の内側は見えないところほど忙しい。
倉庫は回廊に面していて、昼の間は出入りが多いから扉を開け放している。外は雲が厚く、光は鈍く沈んで、床の石目の一本一本を鈍い銀色で縁取っていた。
麻紐を解き、香草の根元を少し揃える。乾いた香りがふっと立つ。
鼻の奥に残る甘さが微妙に変わった気がして、私は束を鼻先から離した。香の焚き方がいつもと違うのか、それとも私の呼吸が浅いのか。
指先についた土を布で拭い、次の箱へ手を伸ばす。木箱の板がこすれて、低い音を立てた。
その低さに似て、回廊のほうから別の低い声が聞こえた。
耳に馴染まない響き――礼拝堂や教会の人間の声は、長くここにいると自然とわかる。足音の置き方も、息の間の取り方も。今の声は、どれとも違った。
「……どなたですか?」
倉庫の中から声をかける。返事はない。
代わりに、足音が早まった。
床石を打つ、迷いのない歩幅。
背筋に冷たいものが走り、頬に沿って一筋、汗が落ちた。
私は扉に向きなおり、手元の木箱をそっと押しやる。
すぐに逃げられるよう、足の位置を変える。
心臓は静かなはずなのに、耳の奥で別の音が大きくなった。
次の瞬間、扉の向こうから黒い影が飛び込んできた。
フードで顔を隠した男。布の裾が空気を裂き、手には鈍い光の線。
金属が擦れる音。
ナイフ。
叫ぶより早く、私は腰を落として身を引いた。
男の腕が空を切り、香草の束がひとつ床に散る。青い葉が足元で砕け、つんとした匂いが立った。
手探りで近くの水壷を掴む。重い。投げれば牽制にはなるが、当たらなければ終わりだ。
躊躇いの半拍。
男の刃が肩口へ滑ってくる。
その線の上に、別の銀が割り込んだ。
「下がれ!」
視界が銀の背で塞がれる。
鋭い声。
息を吸う暇もなく、私の腕が強く引かれ、背中が木箱に当たった。
衝撃で肺の空気がごそっと奪われ、何も言えない。
銀の背の前で刃と刃が噛み合い、火花が低く散った。
狭い倉庫での戦い。
物を避ける余地がなく、動きは一挙一動で決まる。
黒い影は低く潜り、横へ滑り、壁と棚の間に切っ先を走らせる。
ルシアンの剣がそれを受け、押し、弾く。
金具の連なる音が耳の鼓膜を打ち、倉庫の空気が一撃ごとに震えた。
「扉を閉めろ!」
言われる前に私は腕を伸ばして扉へ飛びついた。
重い蝶番が悲鳴を上げ、隙間の光が細くなる。
鍵はない。かわりに木箱を引きずって前に寄せる。
木と石が擦れて、低い唸りが床に残った。
背後で金属がぶつかる音がして、私は振り向いた。
刃が、銀の肩当てをかすめる。
金属音が甲高く跳ね、火花がルシアンの頬に淡く映った。
彼は眉ひとつ動かさず、刃を受け流して半歩踏み込む。
狭さを逆手に取り、相手の肩を棚へ押しつけようとする動き。
黒い影が体を捩り、棚の中段に刃を入れた。
革表紙が裂け、古い羊皮紙がはらりと舞う。
祈りの文字が宙に浮かぶように見えて、私は一瞬視線を奪われた。
(……死ぬ、かもしれない)
予感は唐突ではなかった。
先ほどから身体のどこか冷たい場所があり、その周囲だけ時間が遅くなっていた。
死の形は、それぞれ違うと聞く。
私の場合、それはきっと、香草の匂いと紙の音を伴うのだろう。
――と、変な実感が浮かんで、すぐに消えた。
同時に、もうひとつの感覚が私を支配した。
ルシアンの存在が、あまりにも近い。
背中越しでも伝わる熱と鼓動。
番の衝動が、危機の中でさらに強まっていく。
胸の奥が熱で膨らみ、視界の端が白く滲む。
自分の呼吸の数え方を忘れ、代わりに彼の動きの拍に合わせてしまう。
「くそっ……!」
ルシアンの剣が相手の刃を下から弾く。
金属音が倉庫の天井で反響し、わずかな隙が生まれた。
次の瞬間、彼は振り返りざまに私の腕を掴み、体ごと抱き寄せて壁際へ押し込む。
「動くな!」
耳元に落ちた声は低く、いつもより荒い息にかすれていた。
恐怖か、怒りか、痛みか。
判別できない。
けれど、その腕の力は一瞬も緩まない。
肩越しの銀の縁。その向こうに、黒い影が再び構え直す。
私は壁に背をつけたまま、足を揃えた。
逃げ道は塞いだ。
ならば、彼が動きやすいよう、できるだけ小さく、静かに。
手首の下で、金色の記憶が脈打つ。
鎧の縁が肩に触れるたび、その脈は速さを変えた。
熱は痛みではないのに、痛みより確かに体の中心を掴む。
黒い影が低く踏み込む。
狙いは彼の脇腹。
狭い倉庫の死角を知っている動きだった。
刃が銀の継ぎ目を狙い、ぎりぎりの線で入ってくる。
私は咄嗟に棚の取っ手を掴み、思いきり引いた。
棚がわずかにずれて、並んだ花瓶のひとつが落ちかける。
黒い影の目が、微かにそちらへ流れた。
ほんの瞬きほどの、注意の逸れ。
ルシアンの足がその隙に床を撃ち、剣が相手の手首を払う。
刃が落ち、石に跳ねて鈍い音を立てた。
黒い影は即座に体を翻す――逃げる線。
だが、倉庫は抜け道の少ない箱だ。
扉は木箱で塞いだ。
窓は高い。
影は最短で私たちの脇を抜けようとして、躊躇した。
彼の身体がそこにあったから。
銀の壁。
「下がれと言った」
言葉より、刃より速く、ルシアンの肘が相手の胸を打つ。
黒い影が大きく息を吐き、膝を折った瞬間、彼は相手を床に捻じ伏せ、手首を男の背で固定した。
鎧の縁が床石を擦り、低い音が鳴る。
私は動けずに、その場で空気を吸った。
「隊を呼べ!」
どこへ向けて言ったのか、一瞬わからなかった。
次の瞬間、扉の向こうから別の足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。
私が木箱をずらし、扉を半分だけ開けると、教会の警備の若い騎士が顔をのぞかせた。
目が状況を一瞥で理解し、合図もなく飛び込んでくる。
二人、三人。
黒い影の両腕に手枷が掛けられ、口が布で塞がれた。
抵抗は短く、音だけが長く残った。
騒ぎが遠ざかり、倉庫に残ったのは私とルシアンだけになった。
香草の匂いは強すぎるほど濃く、割れた陶片が床で白い線を描いている。
彼はまだ私を抱いたまま、呼吸をゆっくり整えていた。
肩がわずかに上下する。
鎧の隙間から覗く布に、小さな裂け目。
そこに、赤いものが滲んでいる。
「……怪我を」
「かすっただけだ」
短い答え。
それでも私は手を伸ばしかけて、止めた。
触れれば、また光ってしまう。
同じことを、さっき既に学んだばかりだ。
「……怪我は?」
問われて、私は遅れて頷いた。
「……ありません」
声が少し掠れた。
喉が乾いて、言葉が引っかかる。
けれど、手首は燃えるように熱く、胸は痛いほど高鳴っていた。
そのどちらも、命の危機より強く私を揺さぶっていた。
あの一瞬、私の中で何かが形を得た気がする。
名前のない形。
触れれば崩れ、離れれば疼く類のもの。
彼は私から半歩だけ離れ、周囲を見回した。
床に散った羊皮紙を一枚拾い上げ、破れた箇所を確認する。
目は冷静に戻っているのに、呼吸の底だけがまだ荒い。
そして、その荒さは私の呼吸と不思議な合奏になっていた。
拍が合う。
嫌になるくらい、正確に。
「倉庫の出入り記録、誰に預けている」
「書庫係のグレンさんです。午前中、箱の受け取りで一度……」
言いながら、私は自分の声が少し遠くで響いているのを聞いた。
体の中心はここにあるのに、聴こえる音だけが半歩ずれている。
彼は頷き、扉の方へ視線をやる。
回廊の向こう、足音。
複数。
装飾の少ない皮の靴と、金具の少ない靴音。
騎士と、教会の人間。
それから――もっと柔らかい、裾の擦れる気配。
「副団長!」
若い騎士が顔を出す。
「取り押さえました。外の見張りにも連絡済みです。政務棟にも報せを――」
「俺が行く。……その前に、ここを片付ける」
彼は短く言い、落ちた花瓶を一つ拾い上げて棚に戻した。
不用意な踏み跡を作らないために、割れた陶片の周囲を布で囲い、騎士に合図する。
手際の良さは、日常の所作の延長にある。
戦いも、片付けも、祈りも、同じ線の上に置かれているのだと、ふと理解した。
私はしゃがみ込み、散らばった香草を束ね直した。
指先が震える。
震えは恐怖の余韻か、熱の余韻か。
判断できない。
ただ、茎を揃える手は勝手に働く。
身体は、安心なものの形を知っている。
「医務室で見てもらえ」
顔を上げると、彼がこちらを見ていた。
目は穏やかではない。
でも、荒くもない。
ただ、焦げたような匂いがする視線。
私は首を振りかけて、やめた。
「……はい」
従うことに理由は要らない。
理由を探すより、今は呼吸を整えたかった。
回廊に出ると、空気が少し冷たく感じられた。
倉庫の濃い香りに慣れた肺が、薄い空気に驚く。
そこへ、別の香りが交じる。
薔薇。
柔らかく、それでいて芯のある香り。
私は顔を上げた。
回廊の角、深紅の裾が静かに揺れている。
セレナ・ルヴェリエ。
目が合った、気がした。
けれど、次の瞬間には視線が逸れ、彼女は礼拝堂のほうへ、歩幅を乱さずに去っていった。
今のは、幻かもしれない。
けれど、薔薇の香りだけが、確かに残った。
医務室へ向かう途中、政務室側からまた別の断片が飛んでくる。
「前哨の報は偽装の可能性」「城下の見張りに抜け道」
「条約文面は変更なし」「婚姻条項で支え切る」
言葉同士がぶつかって、意味が粉になって散る。
私の足音は、その粉の上をゆっくり踏んだ。
医務室は白い布の匂いで満ちていた。
端では別の修道女が包帯を巻いていて、私を見ると短く頷き、席を立つ。
「脈は?」
「……速いですが、平気です」
自分で言って、何に対しての“平気”なのか分からなくなる。
修道女は穏やかに笑い、私の手首に指を当てた。
その触れ方は、熱を煽らない触れ方だった。
人にはそれぞれ、触れ方がある。
煽る触れ方も、沈める触れ方も。
「息を三つ数えましょう。吸って、吐いて。もう一度」
従っているうちに、視界の白が落ち着いた。
胸の奥の熱は完全には消えない。
それでも、形が曖昧になるだけで、少し楽になる。
戸口のほうで、甲冑の金具が小さく鳴った。
私はそちらを見なかった。
見れば、また形がはっきりしてしまう。
形がはっきりするものは、祈りと約束だけで充分だ。
「少し休んだら戻っていいわ。水を飲んでね」
修道女の声に礼を言い、私はベッドの縁に腰を下ろした。
杯の水は、思っていたより甘かった。
香草の味が舌に残っていたのだろう。
喉を通る冷たさは、さっきの倉庫の冷たさと違う。
体の内側に静かに沈んで、そこに留まってくれる冷たさ。
窓の外で、曇り空がわずかに明るくなる。
雲が薄くなったのか、誰かが祈ったのか。
私は額に指を当て、短く祈りを置いた。
誰かのために、ではなく、今ここにいる自分のために。
(どうか――形を、壊しませんように)
儀式は終わった。
けれど、続いている儀式がある。
抗えない衝動と、それを押し殺す痛み。
祝祭の前夜に、私の中にだけ響く鐘がある。
それは誰にも聞こえず、私にだけ聞こえる。
医務室の戸口の影が一瞬揺れた気がして、私は顔を上げた。
誰もいない。
空気だけが、ほんのわずか動いた。
薔薇の香りはしなかった。
けれど、別の匂いがした。
雨の前の匂い。
空が変わる前に、石が先に知る匂い。
私はもう一度、深く息を吸った。
胸の奥で、二つのものが並んで座っている。
名のある恐怖と、名のない熱。
どちらにも場所を与え、私はまっすぐに座り直した。
――明日、祝祭。
人の集まる場所。
香の煙。
色ガラス。
そして、祈り。
壊れない保証は、どこにもない。
でも、壊さない意志なら、ここにある。
私は袖口を押さえ、布越しに手首の脈を確かめた。
まだ、速い。
それでも、数えられる速さだ。
外で鐘が一つ鳴った。
石と空気の間で、音が深く沈む。
私は立ち上がり、戸口へ歩いた。
背筋を伸ばし、呼吸を数えながら。
祝祭の朝に向けて、私の一歩は、静かに前へ。