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第6話 抗えぬもの

春の祝祭を前に、教会は普段の静けさを忘れたみたいに慌ただしさを増していた。


朝の鐘が鳴り終わるより早く、回廊には足音が満ちる。司祭が短く指示を飛ばし、書記官は羊皮紙を抱えて駆け抜け、シスターたちは祭服の紐の緩みまで確かめて回る。香草の束が紐で括られ、礼拝堂の両端へ運ばれていくたび、甘い匂いが段々濃くなっていった。


私は祭壇の飾り付けを手伝いながら、今日の段取りを頭の中で何度も並べ替えた。

花の高さ、布の皺、聖具の位置。どれか一つでもずれると、祈りの線が波打つ。

司祭が近づき、手元を一瞥してから言う。


「ウィンダーミア嬢は聖水の補佐をお願いします。儀式中は祭壇の左側に」


左側――そこは、護衛騎士の立ち位置と近い。

胸がわずかにざわついた。

息を整えて頷くと、司祭はもう次の指示へ向かっていった。

私は聖水の鉢の縁を布で磨き直す。擦れた陶器の感触が、落ち着きを装った私の掌を現実へ引き止めた。


昼過ぎ、王都の中心から礼拝堂へ向かって、装飾車の列がゆっくり移動する音がした。高い窓の下を通る車輪の音は鈍く、石の床にまで響く。

政務室の廊下では、朝からずっと同じ言葉が往復している。


「北境の前哨から火急の伝令」

「雪代で渡河点、再計測」

「第七条、文言は“将来にわたり”で堅持」

「ルヴェリエ家の後見署名は夕刻までに」


断片的な声は礼拝堂の厚い扉で遮られ、祈りの準備の音に紛れた。

それでも、言葉の硬さだけは石を通って伝わってくる。

私たちの整える花や布は、あの硬さの上に敷かれるやわらかな層なのだと、ふと思った。


夕刻、飾花を終えて回廊に出ると、ニナが駆けてきた。三つ編みが肩で揺れる。


「アナベル、聖水の鉢、重いから二人で運ぼう。今日のは特大版だって」


「ありがとう。滑らせないように、布を一枚かませましょう」


私たちは鉢の底に麻布を敷き、両側を持って所定の台へ上げた。水面がわずかに揺れ、天井の星の模様を細かく刻んだ。

それを見ていると、不意に胸の奥が熱を帯び、昨日までの夜の回廊が脳裏を過った。

鎧越しの冷たさ、その奥の熱。

私は小さく首を振って、目の前の作業に意識を戻した。


夜が深まると、礼拝堂は再び静かになり、燭台の火だけが息をしていた。

明日の段取りを最終確認してから寮に戻ると、ベッドの白いリネンが思っていたより冷たい。

眠りは浅く、目を閉じれば色ガラスの破片のような光景がちらちらと浮かぶ。

番――その二文字を、心の中で何度かそっと撫でて、結局言葉にしないまま朝を待った。


翌日、儀式の朝。

鐘の音が昇るたび、空気が一段階ずつ澄んでいく。

大扉が開くと、参列者が入ってくる足音が重層的に礼拝堂を満たした。

色ガラスを透った光が、鮮やかな破片のまま床に降りる。

王族の席には、淡い紺の衣が並び、胸元の紋章が鈍くひかる。

香の匂いが濃くなり、喉の奥に甘みが残った。


私は聖水の鉢を抱え、決められた位置に立つ。

台にそっと据え直し、布の位置を整える。

正面には祭壇、その少し後ろ、視界の端に銀の鎧。


ルシアン。

目は合わない。

それでも、彼がそこにいることが肌でわかる。

鎧の金具がごく小さく鳴るたび、皮膚の下のどこかが呼応するみたいに疼いた。


聖歌が高く広がる。

音は天井をめぐり、やがて降りてきて私の肩に薄い布のようにかかった。

司祭の所作に合わせて、私は聖具を渡し、受け取り、台に戻す。

動きは覚えた通りに。早すぎず、遅すぎず。

自分の呼吸を歌の拍に合わせる。

それでも時折、拍の裏で別の鼓動が強く打つ。


儀式が進み、聖水を司祭に渡すため、一歩前へ出る。

台から鉢を持ち上げる。水面が月のように丸く震えた。

足先で布の端を踏み、滑らないように確かめて――

その瞬間、かかとが石目の浅い溝に引っかかった。


「――っ」


前のめりになる体。

聖水の鉢が、ゆっくりと傾いていく。

冷たい水面が縁を乗り越え、私の指先をかすめる――


こぼれる前に、手首を掴まれる。

強くも優しい力。

皮膚の上に載った掌の重さが、心臓の重さと同じ場所に落ちた。

触れた途端、金色の光が皮膚の下からあふれ出す。

それは本当に一瞬で、光は私たちの内側にだけ花のように開き、すぐに沈んだ。

周囲の誰にも見えない。

けれど、見えないものほど鮮やかに、身体の中では起こる。


視界の端が白く滲む。

聖歌の音が遠のき、鼓動の音だけが耳を満たした。

肌の奥から熱が押し寄せ、息が詰まる。

鉢を持つ指が震える。

こんな場所で――だめなのに。


彼の掌の下で、私の脈が勢いを増すのがわかる。

離れなければ。

理性が「離れろ」と叫ぶのに、身体は微かに指を強くしてしまう。

支えを求める反射。

それが衝動かどうかを考える余裕はなかった。

考える前に、熱が意味を決めてしまう。


「……!」


彼の指が、ほんの一瞬だけ震えた。

その震えは、私の震えと同じ速さだった。


次の瞬間、掴まれていた手が離される。

ほんの、刹那の遅れを伴って。


光は沈み、熱だけが残った。

私は何事もなかったように鉢を司祭に渡し、所作の流れに戻る。

腕の内側に残った温度だけが、儀式とは別の時間を刻み始めた。


司祭が祝詞を唱える。

言葉は古いが、意味は今のためにある。

王族の席の前で、香の煙が細く立ち上って消える。

私は決められた位置に戻り、次の所作を待つ。

足先の位置、肩の角度。

一つ一つを、忘れないように、忘れるように繰り返す。

目の端に銀の縁。

視線を動かさないようにするのは、思っていたより難しかった。


しばらくのあいだ、私は自分の呼吸の数え方を変えた。


吸って、二拍。吐いて、二拍。

間に、半拍の空白。


空白に、熱が入り込む前に、次の拍を進める。

祈りは、音楽に似ている。

間を間のまま、通り過ぎることができれば、形は崩れない。


やがて、聖歌が静かにおさまって、最後の鐘が鳴った。

音は高いところで一度空気を揺らし、礼拝堂全体に薄く広がって消える。

参列者が退出を始める。

衣擦れ、靴音、誰かの浅い咳。

礼拝堂に人の音が戻ってくると、さっきまで私の身体の中にあった音は、少しだけ小さくなった。


儀式が終わり、人々が退出していく中、ルシアンは一度も私を見なかった。

私も、見なかった。

見てしまえば、何かが壊れるとわかっていたから。

でも――壊れない保証は、もうどこにもなかった。

保証という言葉は、紙の上の条文に似合う。

私たちの間にあるのは、紙ではない。

肌の下で一度光っただけの、名前のない紐。

それは、結び方も解き方も知らないまま、静かに存在している。


片付けのため、私は台の水滴を布で拭った。

聖水が一滴、石の床に落ちて、小さな円を作る。

円の輪郭が、じわりと広がって消えた。

それは誓いの輪のようにも、断ち切られた輪のようにも見えた。

目をそらすと、ニナが合図を送ってくる。

台の下の棚から新しい布を取り、彼女に渡した。


「さっきの、大丈夫だった?」

「何が?」

「足、溝に引っかけたでしょ。音がしたから」


私は一瞬遅れて笑った。

こんな時、笑うのは難しい。

でも、笑い方は身体が覚えている。


「大丈夫。ただの私の不注意」

「よかった。今日のは人が多かったから、気疲れもするよね……ほら、終わったら甘いものもらえるって。奥の部屋に焼き菓子の皿、見た」


ニナの声はいつも通りで、救いだった。

私は頷き、布の角を揃えて畳む。

指の先に、まだ熱がわずかに残っている。

それは火傷のあとのように、触れれば確かにそこにあるのに、もう痛いとは言い切れない種類の熱だった。


参列者が完全に引き上げ、礼拝堂の扉が閉まると、内部は再び大きな静けさで満たされた。

光は斜めに傾き、色ガラスの影が床を長く横切る。

私は花台の水受けを空にし、布を絞る。

絞った水が桶に落ちる音は、さっきの鐘の最後の余韻と同じ高さだった。


聖具室に鉢を戻すと、司祭が短く労いの言葉をくれた。


「よくやった。落ち着いていた」


私は礼をし、部屋を出る。

回廊は人の気配が少なく、外の光だけが流れていた。

歩きながら、袖の上から手首を押さえる。

何も見えない。

ただ、脈がいつもより、少しだけ近い場所で打っている。


寮に戻る途中、政務室側の回廊を横切った。

まだ足音は途切れていない。

小走りの使者たちが、声を落としてやり取りをする。


「前哨の橋脚、補修予定を前倒し」

「条約はこのまま。婚姻条項で抑止を可視化――」

「ルヴェリエ家の……」


名前が、短く切れて遠ざかった。

紙の上の約束は、人の身体で支えられている。

さっきの私の掌や、彼の掌のように。

そう思うと、足がほんの少しだけ重くなった。


寮室に着くと、窓を開けた。

春の風は、朝よりも柔らかい。

遠くで荷車が軋む音と、露台で誰かが笑う声が混じる。

私は水差しの水で手を洗い、手首に冷たさを重ねた。

冷たさは、表面から順に沈んでいく。

沈みきる前に、皮膚の下から別の熱が戻ってくる。

まるで二つの季節が、同じ場所で入れ替わり続けているみたいだった。


ベッドに腰を下ろすと、リネンの皺が音を立てた。

目を閉じると、さっきの白い滲みがすぐに現れる。

彼の指の震え。私の指の震え。


同じ速さ。

同じ瞬間。


私はゆっくりと息を吐いた。

抗えない衝動と、それを押し殺す痛み。

どちらも儀式だった。

祈りの言葉に従って身体を動かす儀式と同じように、

私たちは自分で決めた形に、心を並べる儀式をしていた。


窓辺のカーテンが風に膨らみ、すぐにしぼむ。

膨らむ時に生まれる影は、手を伸ばせば触れられそうで、触れる前に形を変える。

読むことのできない祈り。

セレナ様の言葉が、ふいに胸をよぎった。


儀式の間、彼は一度も私を見なかった。

私も、見ないことを選んだ。

選んだことが正しかったかどうかは、まだわからない。

でも、選び続けなければ、形はすぐに崩れる。

祈りも、約束も、距離も。


夜が近づいて、光の色が少し冷たくなる。

私は立ち上がり、机に置いてあった小さな布包みを開いた。

母の形見の髪飾り。

金具の冷たさが指に移る。

髪に差すと、鏡の中の自分の輪郭が一段くっきりした。


掌を合わせる。

言葉にならない祈りを、言葉にしようとは思わなかった。

ただ、呼吸の数を数える。


吸って、二拍。吐いて、二拍。

間に、半拍の空白。


その空白を、熱より先に通り過ぎる。


今は、それでいい。

今は、それしかできない。


明日も、祭壇の布は皺のないように。

鉢は滑らないように。

そして、私の心は、礼拝堂の光の下で崩れないように。


窓の外で、遠くの塔に風が当たる音がした。

春の祝祭は、まだ始まったばかりだ。

でも、私の春は、今朝とは違う形をしている。

抗えないものがある、という事実と、

それでも抗おうとする自分がいる、という事実。

その二つが、同じ胸に並んで座っていた。

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