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第5話 優雅な観察者(セレナ視点)

礼拝堂の扉を押し開けた瞬間、香の匂いがふわりと広がった。

淡い煙の層が、高い天井の下で薄くたなびき、色ガラスの切片が床へ散る。

深紅の裾が石床を滑り、私の影が長く伸びた。

祭壇の前では、若い女性が花を整えている。

金色の光をわずかに含む髪――アナベル・ウィンダーミア嬢。


「ウィンダーミア嬢……でしたわね?」


彼女が振り向き、僅かに肩を揺らす。

礼を崩さない反応の中に、警戒と戸惑いが細い糸のように混ざっていた。

花瓶の縁を拭いていた布が、彼女の指のなかで一瞬止まる。

指先に花粉がうっすらついている。

その手が、器用で、無駄がないことがすぐに分かった。


昨日、ルシアンが彼女を案内したと報告を受けたとき、私は驚かなかった。

王都の教会に新任が来ることなど珍しくない。

ただ――その名を耳にした瞬間、心の奥で小さな波紋が広がった。


ウィンダーミア。

辺境の家名。

王都の人間は皆、無意識に名前の置かれ方を天秤にかける。

音のまとい方、出自の響き、役目の匂い。

私はそれを、差別のためにではなく、体裁を壊さないために使う。

誰かを迎えるとき、その人が痛まない距離で受け止めるために。


けれど今回は、天秤の上にもう一つ、見えないものが置かれていた。


番。


祈りの言葉の中にしかないと思ってきた事柄が、現実になったら――

どうするのか。

それを問われる日が、いつか来ると知っていた。

そして、その日が近いことも、皮膚の下で感じていた。


「王都は、いかがかしら?」


「……美しい街だと思います」


簡潔な答え。

声の奥に、ほんの少しだけ迷いがある。

視線がふと逸れる。

私は見ていないふりをして、見逃さない。

彼女の袖口。

布の下に隠された“何か”の気配。

ここでは、詮索しないのが礼儀。

けれど、見えるものは見える。


「慣れるまでは、孤独を感じることもありますわ」


言いながら、私は花の角度を半分だけ直す。

参列者の視線の流れに、花の線が引っかからないように。

彼女はすぐ意図を理解して、同じ高さに茎を揃えた。

なるほど、飲み込みが早い。


私は笑顔を崩さない。

彼女を責める理由などない。

番は、本人の意思で選べるものではないし、私は政略婚という枠に立っている身だ。

枠は枠として、美しく保つのが務め。

それを選んだのは、他でもない私。


「ルシアンは……不器用でしょう?」


彼女の瞳が一瞬だけ揺れた。

やはり、もう接触はあったのだ。

あの男が、番の衝動をどう抑えたのか――それは、私にはまだわからない。

理解したいとも、今は思わない。

事実を、事実として受け止めるだけ。


「けれど、誠実です。言葉より行動で示す人ですの」


その言葉は、私自身にも言い聞かせる響きを持っていた。

誠実さは人を救うと同時に、縛る。

誠実な人間ほど、自分自身の選ばなかった道に対して沈黙という形で責任を持とうとする。

その沈黙が、時にいちばん重い。


「もし困ったことがあれば、私におっしゃってください。

 あなたが快適に過ごせるようにするのも、私の役目ですから」


本心だった。

彼女の暮らしを整えることは、王都の礼儀でもあるし、私の役割の一部でもある。

でも、その申し出の裏には、彼女を近くで見守るという意味が含まれている。

監視ではない。

誰も痛まない距離を、手で測るための“見守り”。


彼女はわずかに目を伏せ、礼を返す。

沈黙の一拍。

その遅れ方は、罪悪感ではなく、言葉を選ぶ誠実さに見えた。

私はそれを、嫌いではないと思う。


別れの挨拶をして、回廊を歩いた。

背後で花瓶の水が揺れる音がした。

その音が、妙に心に引っかかる。

あの微かな水音は、昨夜、礼拝堂の回廊で聞いた水音に似ていた。

窓から入った風が花瓶の水面を震わせ、こぼれそうになった――

報告書にはそう、あった。

“副団長が聖具の落下を防ぎ、研修生の転倒を制した”

無味乾燥な文言。

けれど、音は文字の外に残る。


私は深く息を吸い、吐き出した。

微笑の奥で、何かが少しだけ揺らいだ気がした。

それは嫉妬ではない。

痛みとも違う。

もっと無名の感情――変化の予感。


政務棟へ向かう。

扉の前で衛兵に会釈し、静かに中へ入る。

廊下を走る使者の足音は、午前よりもせわしない。


「北境の前哨から、雪解け前倒し」「補給線の再配置案」「第七条・婚姻条項の文言調整」――


断片が交差し、壁に当たって砕け、空気に混ざる。

私は、叔父――宰相の副代理を務めるルヴェリエ家の年長者に呼び止められた。


「セレナ。条約文面、後見部分の再確認だ」

「“将来にわたり”の表現は残します。抑止の言葉は、弱めません」


叔父は短く頷いた。

彼は感情をほとんど表に出さない。

私も、彼から多くを学んだ。

“人が読むものは堅牢に。人が聴くものは柔らかく。

 そして、人が見るものは美しく”

ルヴェリエ家の躾は、そういう類のものだ。


「婚姻による保証については?」

「役目は果たします。必要な時に、必要な形で」


必要な時に。必要な形で。

その言葉は、私が自分に課している約束でもある。

番という不可避の理が現れても、政は動く。

国境は待ってくれない。

雪解けの川は、人の恋の速度と無関係に、流れを変える。


叔父は私をじっと見て、薄く目を細めた。

「……お前は、強い」

「家の女は皆、強いのですわ」

「いや。お前は“強くあろうと選ぶ”」


私は笑って、話を終わらせた。

選ぶ。

その動詞は、いつだって刃物のように鋭い。

それでも、日常的に触れていれば、手の内の形に馴染む。


執務の合間、私はふと窓の外に視線を移した。

礼拝堂の尖塔が、薄い雲に半分かくれている。

あの下で、彼女は花を整え、祈りを支え、王都の空気に自分の呼吸を合わせている。

そして、彼は――

私は想像をそこで止めた。

“想像は、現実に触れる前に形を持ちすぎる”

母に言われた言葉だ。

幼いころ、庭で薔薇を刈り込む手伝いをしていたとき、私は花の未来の形を口にした。


「来週には、きっとここが一番綺麗になるわ」


母は笑って言った。


「未来の形は、手で作るの。口では作れないのよ、セレナ」


私は執務机の脇に置いた小さな花瓶に目を落とした。


一本の薔薇。


棘は摘みすぎないほうが、形が引き締まる。

触れた手をほんの少しだけ刺す棘は、花を花として保つ境界だ。

境界は、誰のためにも必要。


私にも、彼にも、彼女にも。


夕刻、政務の区切りがつくと、私はもう一度礼拝堂に足を向けた。

扉を押し開けると、昼の光はすでに薄くなり、色ガラスの影が床に長く伸びていた。

“読むことのできない祈り”。

影が文字のように連なり、しかしどこにも意味を確定させない。

そこに立つと、胸の奥の余白が少し広がる。


祭壇近くにはもう誰もいなかった。

ウィンダーミア嬢は、持ち場を終えて寮へ戻ったのだろう。

空の花瓶の縁に、金色の花粉が少し残っている。

私は席のひとつに腰かけ、深く息を吸った。

香の甘さは、昼よりも穏やかだ。

かわりに石の冷たさが少し強い。

夜が、近い。


(番――)


私は心の中で、初めてその言葉を音として発した。

祈りの中で幾度も触れてきた語。

物語が人に与えた慰めと、時に絶望。

それが今、私の現実に触れている。

触れたからといって、私が変わるわけではない。

けれど、私が選ぶ言葉は、これから少し変わる。


怒らない。

責めない。


私が私であるために、微笑の形を保つ。

それは妥協ではなく、私の誇りだ。

誇りは、誰かを傷つけない形であれば、武器ではない。

橋になる。

政は、橋を必要とする。


私は立ち上がり、祭壇の前に進んだ。

祈りの言葉を口にする。

声は小さく、しかしはっきりと。

読み上げたのは形式の文ではなく、今この瞬間のための短い言葉だった。


(私に、正しい距離を)


祈り終えると、心が静かに沈んだ。

湖面に落ちた石が、底に収まるように。


回廊へ出ると、黄昏の風が頬を撫でた。

西の廊に差す光は橙色で、床に落ちた色ガラスの影が濃くなる。

子どもが駆けてきて、私に会釈をして通り過ぎる。

小さな靴音。

その音が遠ざかる。

私は歩を進め、角に差しかかったところで立ち止まった。

床に、ほんとうに小さな星が落ちている。

窓の彫りの形が作る偶然の光。

私はそれを踏まないように、つま先の角度をほんのわずか変えた。


(踏めば、早い。避ければ、遅い。

 でも、遅いから着く場所がある)


自分に言い聞かせるように歩き出す。

遠くで、甲冑の擦れる音。

聞き慣れた音。

振り向かない。

ここで振り向くことは、私の役目ではない。


その夜、邸に戻ると、侍女が湯を用意していた。

髪をほどき、櫛を入れる。

金の糸はゆるやかに落ち、鏡の中で波を作る。

私は鏡に手を伸ばして、揺れた波を指で整えた。

鏡の向こうにあるのは、他でもない私。

番が現れても、政が動いても、鏡の中の女は私しかいない。


机に置いた書状に目を通す。

北境の砦からの追加報。

川幅の変化、橋脚の補修、補給隊の再編。

その合間に、条約文面の修正案。

第七条――婚姻による保証。

私は羽根ペンを取り、表現を一ヶ所だけ直す。

「将来にわたり」の前に、「必要な限り」の語を足した。

人の時間は無限ではない。

祈りも、約束も、必要な限り続けばいい。

果たされるために生まれた約束だけが、人を守る。


封をして、燭台の火を弱める。

部屋が暗くなると、昼に見た礼拝堂の影が瞼の裏に戻ってきた。

読むことのできない祈り――

私は、その影を静かに見送る。

言葉にしない決意は、心の器に負担をかける。

それでも、今の私は器を壊さない道を選ぶ。


(あの娘は……壊さないだろうか)


思考がそこまで行って、私は首を小さく振った。

彼女のことを“あの娘”と呼ぶのは、丁寧ではない。

ウィンダーミア嬢。

彼女の歩幅は、きっと慎重だ。

花の茎を支える指の迷いのなさを、私は見た。

あの指は、境界線のこちら側に花を立てる手。

ならば、今は信じる。

私が選ぶ距離、彼女が選ぶ距離、そして――彼が選ぶ距離を。


翌朝に回す備忘を小さく書きつけ、ペンを置く。

窓の外では、風が庭の薔薇を揺らしていた。

蕾がひとつ、今にも綻びそうだ。

開くのを待つのは、苦手ではない。

ただ、手を伸ばすタイミングを誤らないこと。

それだけは、昔から得意だ。


灯りを落とす。

暗闇に目が慣れるまでの時間、私は静かに呼吸を数える。

心臓は、穏やかだ。

けれど、穏やかさの下で、どこかが微かにきしむ。

それを痛みと呼ぶには、小さすぎる。

でも、無視すれば、やがて形を持つ類の音。


(正しい距離を)


もう一度だけ、心の中で祈る。

祈りは、誰かに届く必要はない。

私自身に届けば、まずは十分だ。


やがて、眠りが来る。

長い夜の底で、私は色のない礼拝堂を歩く夢を見た。

床に落ちる影は文字で、けれどどの文字も、読む直前に形を変えた。

私は笑って、その上を踏まずに進む。

そのとき、遠くで何かの音がした。

鐘か、靴音か、武具の擦れか――

判然としない音。

それが、近づいてくる。


私は目を覚ました。

夜はまだ深い。

窓の外で、風が強くなっている。

遠くの塔の方角に、確かに音があった気がした。

気のせいかもしれない。

けれど、“変化の予感”は確かに、今、私の胸に戻ってきていた。


私は身を起こし、軽く肩を回す。

次に会うとき、私はまた同じ笑みを選ぶだろう。

けれど、その笑みの奥に置くものは、すでに昨日のそれとは違っている。

誰も傷つけないために――ではなく、誰も取りこぼさないために。


深呼吸をひとつ。

私はもう一度横になり、目を閉じた。

祈りは言葉ではなく、呼吸で続いていく。

朝が来れば、また役目を果たす。

その朝のために、今は、眠る。

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