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第4話 微笑みの奥

翌日の午後。

礼拝堂は、昼の祈りの余韻をまだ抱えていた。


色ガラスを透った光の切れ端が床に散り、香の甘さが石壁に薄くまとわりつく。

私は祭壇脇の飾花を整え、しなだれる茎を支える細い針金を見えない角度に差し直した。

百合の花粉が指の腹にわずかに付く。息を静かに吐くと、金の粉がふわりと揺れた。


背後から、軽やかな足音。

高い天井の下、反響が一度だけ跳ねて、すぐ静まる。

振り向いた瞬間、深紅の布が視界を満たした。


「ウィンダーミア嬢……でしたわね?」


澄んだ声。音の粒がきちんと並ぶ。


立っていたのは、セレナ・ルヴェリエ。


昨日、中庭で遠目に見たときは“美しい人”だった。

今日はそれに、芯が見える。

金糸の髪は綺麗にまとめられ、喉元の細い飾りは過剰ではないのに、目を奪う。

ここが王都の中心で、彼女が“この場所の重み”を身に着けて立っているのだと、姿だけでわかる。


「突然失礼いたしますわね」

「……いいえ。こちらこそ、光栄です」


礼を交わすあいだ、彼女は微笑を崩さない。

けれど、微笑は表情の“表面”にしかない。

目の奥は、揺れずにこちらを測っている。


「昨日、ルシアンが案内したと聞きましたの。

 王都は、いかがかしら?」


「……美しい街だと思います」


「ええ、特にこの季節は。

 でも、慣れるまでは少し……孤独を感じることもありますわ」


短く、視線が私の手首をかすめた――気がした。

番の証は、もう肌の下に沈んで見えない。

それでも、胸の奥がひとつ強く打つ。


私は花瓶の位置を半歩だけずらし、祭壇を正面にする参列者の視線が途切れない高さに花の頭を揃えた。

セレナ様は、その一連の動きをゆっくり見てから口を開く。


「辺境の祈りは、もっと素朴だと伺いました。

 花も、季節のものを、野から摘んで」


「はい。家の近くに小さな丘があって……風の強い日は、地面に低く根を張る花しか咲かないのですが」


「だから、茎を支える手が迷わないのね」


褒められている――はずなのに、胸の奥で、名前のない痛みが静かに脈打った。

その言い方が、私の“どこを見て”“どこを見ないでいるか”を、きちんと選んでいるからだ。


「ルシアンは……不器用でしょう?」


思わず顔を上げる。

セレナ様は笑っていた。

誰かを傷つけるためではない、場を軽くするための笑み。


「けれど、誠実です。言葉よりも、行動で示す人ですの。

 頼まれたことは必ず果たすし、頼まれていないことは……滅多にしない」


“滅多にしない”。


そこだけ、ほんの僅かに声の温度が変わった。


昨夜の回廊――触れそうで触れなかった距離が、喉の奥に蘇る。

彼はあの時、頼まれていないことを、ほんの一歩だけしてしまいかけた。

そして踏みとどまった。


それが、誠実。


「もし困ったことがあれば、私におっしゃってください。

 ……あなたが快適に過ごせるようにするのも、私の役目ですから」


役目。

その言葉は軽く言われたのに、重く響いた。


この教会で、王都で、“役目”という言葉は祈りと同じくらい頻繁に使われる。

人はそれぞれの役目を持ち、それを果たすことで誰かの祈りを支える。

彼女は、自分の役目をわかっているのだ。

私に対しても、王都に対しても、そして――ルシアンに対しても。


返事が遅れた。

その一拍を、セレナ様は責めない。

ただ微笑の角度を変えずに、待つ。


「……ありがとうございます。お気遣い、感謝いたします」


言葉にして、胸の奥でしずかに波が引いた。

礼を述べることで守られる距離が、確かにある。


「王都に来られたのは初めてで?」

「はい」

「では、回廊の西側は夕方が綺麗よ。色ガラスの影が長くのびて、床に文字のように落ちるの。

 読むことのできない祈り、って私は呼んでいます」


“読むことのできない祈り”。

彼女の言葉は、飾りではない。

比喩に頼る人は多いけれど、セレナ様の比喩は体験から出てきた感じがする。

――この人は、ただの名家の令嬢ではない。

王都の匂いと時間の流れを、ちゃんと自分の足で歩いて身に着けた人だ。


「政務室が近いので、使者の足音がよく通りますわ。

 今日も午前は慌ただしかったでしょう?」


「はい。『北境』『同盟条約』という言葉を何度も……」


「北は雪解けが早い。川幅が変われば、砦の補給線が揺らぐ。

 そうなると、紙の上の約束は、現実の橋に変わらなければならないの」


紙の上の約束――条約。

現実の橋――婚姻。

言葉に出されなかった語が、香の煙みたいに間に満ちる。

昨夜、手首の下で脈打った金色の記憶が、薄く疼いた。


セレナ様はふっと視線を上げ、礼拝堂の一番奥、星の模様を切り取った窓に目をやった。

その横顔には、後ろめたさも、勝ち誇りもなく、ただ“決めている人”の静けさだけがあった。


「ウィンダーミア嬢。

 王都は、よく晴れるけれど、風が強い日は香の匂いが街中を回りますの。

 慣れるまでは、少し頭が痛むかもしれない。……無理はなさらないで」


助言に混じる、淡い気遣い。

“あなたを観察している”ではなく、“あなたを気にかけている”と言える強さ。

私は小さく息を吸って、頷いた。


「ありがとうございます。……セレナ様は、王都のお仕事でお忙しいのでは」


「忙しい時ほど、祈りに来ますの。

 忙しさに押し流されないように。

 ここで“読むことのできない祈り”を眺めていると、言葉にしなかった決意が、すこし形になる気がしますから」


それは、誰にも向けていないようでいて、誰にでも届く言葉だった。

私にも、届いた。

昨夜、彼の腕に支えられたとき、言葉にしなかった決意――離れようとした。

できなかった。

今、こうしている間も、手首の下で熱は細く続いている。

それでも、形にしない距離はある。

祈りは、声に出すだけが祈りではないのだから。


「……セレナ様」


名前を呼ぶと、彼女は目を細めた。光がルビーに跳ねる。


「何かしら?」

「いいえ。……王都のこと、教えていただけて嬉しくて」


「では、もうひとつだけ。

 回廊の角――そこ、今あなたが立っているところ。

 夕暮れには足元に星が落ちます。

 踏んでしまわないように、気をつけて」


冗談めかして言い、セレナ様は小さく笑った。

笑いの温度は柔らかいのに、体温は上がらない。

不思議な人だ。

近づいたと思ったら、同じ距離のまま、別の角度から私を見ている。


「では、またお会いしましょう、ウィンダーミア嬢」


深紅の裾が揺れ、薔薇の香が薄く尾を引く。

去っていく背中は、ゆっくりなのに、決して振り返らない速さだった。

私は息を吐き、花瓶の縁を布で一度なぞる。

指先が冷たい陶器をなぞり、金の粉がまた少し舞った。


片付けを終えて回廊に出ると、色ガラスの影が床で交じり合っていた。

青と赤が重なって、中央に紫が少し。

そこに私の影がかかると、色が一段暗くなる。


向こうから、司祭と書記官たちが早足で過ぎる。

「北境の前哨から」「第七条の文言」「後見署名」――

断片が行き交い、やがて消える。

香の匂いが、風に薄められて回ってくる。


私は立ち止まって、足元を見た。

星は落ちていない。

けれど、窓の影は確かに小さな星の形を作っていた。

踏まないように、そっと一歩、避ける。


(――この距離を、保てるだろうか)


昨夜の回廊、鎧の冷たさの奥の熱。

今日の礼拝堂、セレナ様の微笑の奥の硬い芯。

どちらも、形の違う“熱”だ。

近づき過ぎれば、どちらにも焼かれる。


私は袖口を押さえ、手首の下の静かな鼓動を確かめた。

光はもう見えない。

ただ、熱の記憶だけが、皮膚の内側に薄く残っている。


(読むことのできない祈り)

彼女の言葉が、胸のなかで静かに反芻される。

私の祈りは、まだ言葉にならない。

言葉にならないまま、形だけが、少しずつできていく。


鐘が二つ、ゆっくりと鳴った。

礼拝堂の空気が、ほんの少し動く。

私は花の香りの残る指先を、そっと握りしめた。

柔らかいものを掴むふりをして、硬い決意を掴むみたいに。


距離を保つのは難しい。

けれど、それを見抜く人が、もう一人増えた

それでもまだ、私は歩ける。

星を踏まないように、影の縁を選んで――。


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