第3話 夜の回廊
夜の教会は、昼間とはまるで違う匂いがする。
祈りの香の甘さに、冷えた石の湿り気が溶け、息を吸うたびに胸の奥が少し重くなる。
高窓からこぼれる月光は、床の石目をなぞるように細く伸び、影と光をくっきりと分けていた。
その境目を踏むたび、靴底がかすかに鳴る。
鐘の音が三つ、遠くで響き、それきり音が消えた。
外の風は冷たいが、ここは厚い壁に守られ、音も匂いもゆっくりと流れていく。
私は祭壇脇で花飾りの片付けをしていた。
昼に生けたばかりの百合は、まだ花弁を硬く閉じている。
それを花瓶からそっと抜き取り、水を捨て、柔らかい布で縁を拭く。
昼間は信徒や司祭の声で賑やかだった礼拝堂も、今は私の靴音と、布が陶器を撫でる音だけが響く。
水の匂いに混じって、百合の甘い香りがふわりと立ち上る。
その香りは静けさに溶け、私の呼吸をゆっくりと整えていく――はずだった。
「……こんな時間に?」
不意に声がして、手が止まった。
振り向くと、回廊の向こうからゆっくりと歩いてくる影があった。
月明かりを背に、銀の鎧が淡く光を散らす。
歩みは一定で、静かに近づいてくる。
「巡回中ですか?」
「……ああ。君は?」
「花を片付けて……帰るところです」
別の経路を通って寮に戻るつもりだった。
でも、足が自然にそのまま彼の方へ向いてしまう。
距離が縮まるたび、胸の奥の鼓動が早まる。
言葉はなく、足音だけが互いに近づいていく。
その足音さえ、礼拝堂の高い天井に吸い込まれていった。
やがてすれ違おうとした瞬間、窓から吹き込む夜風が花瓶の水を揺らした。
水面が細く震え、縁を越えて零れそうになる。
「あっ――」
重さを感じる前に、肩と腰を支える強い腕があった。
引き寄せられた身体が、鎧の胸板に触れる。
金属の冷たさの奥に、驚くほど確かな熱。
その熱が、鎧越しでもじわりと広がってくる。
息が浅くなり、夜の空気がやけに濃く感じられる。
喉の奥がひどく乾く。
彼の手が、腰の位置で一瞬だけ迷い――しかし離れなかった。
顔を上げると、すぐそこに青い瞳があった。
昼間は凪いだ湖のように静かなその瞳が、今だけは波を立てている。
「……離れろ。そうしないと――」
低い声が、耳の奥を震わせる。
“そうしないと”の先は、聞かなくてもわかる。
番の衝動。
理性を壊すには、これで十分だ。
けれど、離れられなかった。
鎧の冷たさより、その奥の熱のほうが勝っていた。
腕の力はわずかに緩んだのに、距離はほとんど変わらない。
袖の下の手首が、熱を帯びて脈打っている。
「……おやすみ、アナベル」
名前を呼ばれた瞬間、胸が強く締めつけられた。
その響きが、夜の静けさに溶け、遠くまで漂っていく。
返事をすれば、何かが壊れる気がして、口を閉じた。
花瓶を抱え直し、歩き出す。
背後で、彼の足音が反対方向へ遠ざかっていく。
同じ回廊にいた時間は、ほんの数十秒だったはず。
けれど、その一秒一秒が焼きついて離れなかった。
部屋に戻ると、袖口の下で手首がまだ熱を持っていた。
冷たい水で洗っても、消える気配はない。
目を閉じれば、銀の光と青い瞳、そして低い声が鮮やかに蘇る。
――この距離を保つのは、やっぱり無理かもしれない。
そんな予感を抱いたまま、夜は静かに更けていった。